03 おはよう、私
夕方、実家からアパートに帰ると、部屋の前でトーセーが待っていた。
「お帰り」
「いらっしゃい」
「今のリョーシーは、日曜日の朝に実家から電話をくれたリョーシーでいいのかな?」
うん。大丈夫。間違いない。
事情を知っているトーセーは奇妙な確認作業をしなければいけなくなってしまった。
この三回、ちょうど一週間たったところで一週間分の記憶がなくなっているけど、それがサイクルなのか偶然なのか、四回目がまた一週間で起こるのか、起こらないのか、それとも別のタイミングになったりするのかは今のところわからない。
トーセーにバッグを渡して鍵を回す。
私はこの部屋を出発して実家に帰った記憶が無いのに、妙な気分だ。
約一週間閉ざされたままの部屋には、暑気が淀んでいた。私は灯りを点け、とりあえず窓を開けて換気する。冷蔵庫の中からまだ開封していないお茶のペットボトルを出し、グラスをささっとゆすいで、トーセーがぼんやり胡座をかくテーブルに置く。エアコンを入れて、窓を閉める。トーセーは勝手にペットボトルを開けてグラスになみなみ注ぎお茶をごくごく飲んでいる。
「リョーシー」
うん。
「ちょっと元気がない?」
そうかも。
実家に帰り、家族と過ごしたり、アキちゃんや地元の友達と会って気は紛れたのだけれど、毎朝、不安な気持ちで目を覚ます。自分が今どこにいるのか、今日は何日なのか、昨日は何をしたのかと、ひとつひとつチェックしながら記憶が跳んではいないことを確かめる。それは一回目の時も同じだったのだけれど、もっと楽観的だった。少しくらい覚悟はしていたものの、私は本当に二回目があるなんて思っていなかったのだ。ただ、自分の気持ちを落ち着かせるための儀式のようなものだった。ところが二度目、三度目が実際に起こるともう儀式ではない。必要なタスクだ。
「とりあえずさ、何が起こっているのか客観的に整理しておこうか」
うん。
理系の人が「客観的に」なんて言葉を使うと、ちょっと身が引き締まる。
私は思わず正座した。
――まず、一回目。
日曜日。リョーシーは僕の部屋で目を覚まし、直近一週間の記憶が無いことに気がつく。前の週の土曜日にこの部屋で眠ったところが最後の記憶だった。ひとりで眠ったはずなのに目覚めたら僕の部屋で僕が横にいた。
うん。
――今の君が知らない二回目。
次の日曜日。リョーシーはこの部屋で目を覚ます。となりに僕が眠っている。でも、君のというか彼女の、なのかな、記憶は僕の部屋で僕と一緒に眠ったはずだった。
君はすごく慌てていたけれど、僕としてはもう二回目だ。だから、前の週に起きていたことを僕の知る限りで教えてあげたんだよ。で、いろいろ聞いてみたんだ。君はね、誕生日にはこの部屋でレポートを仕上げたり、試験勉強をしていたそうだ。月曜日には書き上げたレポートを提出して、その週の試験もクリアしていた。君はすごく戸惑った顔をしていたよ。だってさ、その時の君にとっては同じ話を前の晩、僕にしていたんだからね。僕がそれを確かめるように聞くからさ。
面白かったのはさ……って別に笑えるとかそうじゃなくて、興味深かったのは、って言い直した方がいいね。興味深かったのは、君が僕の部屋の冷蔵庫の中身をしきりに気にしていたことだ。君が初めて記憶をなくした前日、君が忘れてしまった君は晩ご飯を作ってくれたんだよ。で、最初っから泊まるつもりだったから朝食や昼食の準備までしてあったんだ。一回目の日のこと覚えてる? 君も混乱していたし、僕らはお昼近くまでどこかに出かけるでもなく、半ば戸惑いながらずっとベッドで過ごしていたんだけど、君は急に「お腹が空いた!」って、僕の部屋の冷蔵庫を開けたんだ。その時、君は「やっぱり、そうよね。ちゃんと朝食と昼食の準備してある」ってすごく安心した顔したんだよ。それを思い出した。それで「君がちゃんと仕上げて食べたよ。美味しかった」って伝えたら、よかったってね。
それは自分のことなのに、誰か知らない女の子みたいな気がした。トーセーに晩ご飯を作ってあげた女の子。翌日の朝食や昼食の準備までかいがいしくして、その晩彼の部屋に泊まった女の子。紛れもなく私でしかないのだけど、私だという気がしない。今、ここにいるのは彼にその日晩ご飯を作った記憶のない私だ。たまたま冷蔵庫の中に準備してあった朝食や昼食を、温めただけの私だ。なんだか負けている気がした。
その時のさ、僕の率直な印象を言っていいかな。
うん。お願いします。
タイムスリップしてるみたいな感じだった。
あ、うん……トーセーのその表現は、とても私の腑に落ちた。私も、前の晩、自分の部屋で彼と眠っていたのに、起きてみたら実家にいた。日付も一週間跳んでいた。あの夜からはじき跳ばされた気分だった。
一週間前のリョーシーがタイムスリップして現れた。夕べのリョーシーがどこかへ消えた。そんな印象だったよ。もっとも、その後のリョーシーは、いつもと変わらなかったけどね。
――そして、三回目だね。
私が続けた。
前の晩、トーセーと外でご飯を食べて、二十歳になったからってちょっとお酒飲んだりして、今日は家に来てよって私が誘ったんだよね。それで一緒に寝て、起きたら実家にいた。それでトーセーに電話をした。
それから私が知っていることを話した。実家に帰った私――今の私じゃない方私ね――は、地元で友達と約束をしたんだけど「物忘れすることがある」って、もし待ち合わせに遅れていたら電話をするよう頼んでいたこと。その友達によれば、そんなヘンなお願い以外は至って普段通りだったということ。そして、成り行き上、その友達にもこの記憶喪失については打ち明けたこと。
「つまり、一週間前の私は、三回目を予感していたみたいね」
「それは、僕が二回目だって教えてたし、三回目があるかもって脅しちゃったからな。実際起こったんだけどね。でも、君から電話をもらって少しだけ安心したのは、消えてしまった君が見つかったような気がしたんだ。でも、その変わり二回目を経験した君がどこかに行っちゃったんだけど」
なんだかなあ、と、トーセーがベッドによりかかった。
なんだかなぁって、なによ。
ん、いや、リョーシーの中で記憶がふたつに別れちゃったみたいだよね。
誕生日の前日までは、君も先週の君も同じように覚えてるんだ。一週間後、僕の部屋で目覚めたリョーシーは誕生日からの一週間を覚えていないリョーシーだ。その次に現れたのは誕生日からの一週間は覚えているけど、次の一週間を覚えていないリョーシー。そして、実家で目覚めたのは誕生日からの一週間を覚えていないリョーシーだった。まだ、ちゃんとした繰り返しにはなってないけど、もし四度目があるとしたら誕生日からの週を覚えてるリョーシーじゃないかって仮説が立ちそうだ。もっとも四回目、五回目があるのか、それともこれで終わりなのかはわからないけど。それに、ふたつどころか三つ四つに分かれていてイレギュラーに現れるってことも考えられるけれどね。
なんだか、ややこしい……違う私がいっぱいって、ことでしょ……。
う~ん。知らない人から見たら、やっぱり君はひとりだよ。
そう……そうなんだよね。
とにかく、わかっていることだけまとめてみようか。まず始まりは、リョーシーの誕生日からと思っていいよね。その前日までは今週の君も先週の君も覚えてるわけだし。
私の誕生日が、なにか関係あるのかな。
わからない。
それから、全部土曜と日曜の間に起こっているよね。たぶん日曜未明の眠っている間に何かが起きている。で、目覚めると、直近一週間の記憶がない。でも、一週間前の記憶からは連続している。だから君には一週間先の日曜日に跳ばされたように感じる。
「えっとさ、今のところぴったり七日の周期で来てるんだよね」
「そうだね」
「今日は土曜日だよ」
「そうだね」
私の不安が急に大きくなった。
「明日の朝起きたら、私、また一週間先に跳ばされてるのかな」
「わからないけど、可能性はある」
「もっと先に跳ばされちゃうこともあるのかな……」
ないとはいえない。
どうしよう……。
とりあえず、どうしようもないことはわかってる。
トーセーが私をぎゅっと抱き寄せた。
「あのね、君がいなくなるわけじゃない。君の記憶が一週間無くなっていても、その間も君はちゃんと君自身として、君の意志で行動してるんだ。僕はそれをちゃんと見ている。僕は君が困っている様子を間近に見てるから、なんだか君がふたりになってしまったみたいで戸惑ってはいるけれど、でも、君の体はひとつだし、君自身の意志もひとつなんだと思う。二重人格みたいに別の人格が出てくるわけじゃなくて、知らない人から見れば……僕だって事情を知らなければ、ずっと同じたったひとりのリョーシーなんだよ。君の記憶が欠けていても、ただそれは欠けているだけで、その間に君が君らしからぬことをしでかしているわけではないんだ」
トーセーがしばらく抱きしめていてくれたおかげで、少し気持ちが落ち着いた。不安はあるけれどいろいろ覚悟はしておこうと思った。
そうだね。今日眠って、次目覚めたら、一週間後や二週間後になっているかもしれないって予め覚悟しているだけでもちょっと気が楽かな。
「トーセー、今夜泊まっていける?」
「うん、まあ、そのつもりだったけどね」
「それってさ、私を心配して? それともエッチな意味で?」
「……両方」
「バカ」
「エッチな意味で、だけのが良かった?」
「すごくバカ」
その晩、私は料理をした。
三週間前にトーセーの部屋で料理をしたのは私だけれど私じゃない。なんだかちょっと悔しかった。だから、作った。遅い時間まで開いているスーパーに行って、晩ご飯と明日の朝食、昼食の分まで材料を買って、全部準備した。少し遅めの晩ご飯をトーセーと一緒に食べた。
お風呂に入っていろいろ考えた。
トーセーが一緒に入ろうとしたけど、ちょっとひとりで考えるからって追い出した。
湯船につかって、鼻まで使って、息をぶくぶくさせながら考えた。
考えて、考えて、考えた。
そうして、やっとお風呂から上がると、トーセーにお願いした。
「明日ね、もし、私が一週間前の私やまた別の私になってたら、伝えて欲しいことがたくさんあるの、いいかな」
「うん、引き受けよう」
私はこの一週間、日曜日に目覚めてから、土曜日の今この瞬間までの出来事を大まかに並べあげた。
アキちゃんには全部話したこと。
アキちゃんと誕生日プレゼントの交換をしたこと。
アキちゃんにトーセーとのこと根掘り葉掘り聞かれたこと。
……え、なにそれ。
……いいから。
お父さんに言われたこと。
お母さんに頼まれたこと。
それから、それから。
その日の簡単な行動記録は先週の私もスケジュール帳に書き込んでくれてるけど、どんな私が出てきてもいいように、もう少しだけ詳しく残しておこう。一日一日、何をしていたのか、どこへ行ったのか、誰と会ったのか、大雑把でいいからメモに残して欲しい、と、最低限、共有したい記憶の項目を並べた。
それから、あらためて病院に行って欲しいこと。
二週間くらい前に一度行った病院があって、診察証がお財布に入っているけど、そこじゃなくてもいい。とにかく原因があるなら突き止めたい。
それから、それから、それから。
私は私にお願いした。
トーセーが手帳に細かく書き留めていた。
そうそう、明日の分の朝食と昼食の準備がしてあることも、ね。
あとは……トーセーの仮説どおり、次に現れたのが先週の私だったら、あなたが前にトーセーのところで作った朝食と昼食、とってもいいできだった。とっても美味しかったよって。これは自画自賛になるのかな。
とにかく思いついたなにもかもを私の知らない私に伝えてもらいたかった。
私はだんだん悲しくなってきた。
なんだか、遺言してるみたい。
死んじゃうわけじゃないし、誰かとお別れするわけでもない。なのに、とっても悲しくなってきた。災難といえば災難だけど、命や生活環境が脅かされるような災難ではない。私は不幸に感じてしまうけど、端から見ればなにが不幸かわからない。災害にしろ、病気にしろ、もっともっと深刻な危機に直面している人達は世界中にたくさんいる。そんなのと比べれば、寝起きに足を痙った程度の災厄かもしれないけれど、私はなんだかこの世の終わりみたいな気分になってしまう。
トーセーとだって、これまで一週間以上会わなかったことなんていくらでもあるのに、一週間、あるいはもっと会えないのかもしれないと思うとすごく寂しくなった。でも、実際に会えないわけじゃない。むしろ会えない期間の記憶がなくなるのなら寂しく感じる間などないはずだ。それでも、無性に寂しく思った。だから、その夜は彼に甘えた。子供みたいに甘えた。いっぱい抱きしめてもらった。いっぱい愛してもらった。
そして、いつの間にか眠ってしまった。
夢は、見なかった。
そして、目覚めた。
まだ薄暗い中、目を凝らす。
私の部屋だ。
トーセーが私の横で眠っていた。
カーテンの向こうで雨の降っている音がしていた。
私は裸だった。トーセーも裸だった。
夕べの記憶から連続している。
跳ばなかった?
でも、少しだけ違和感があった。
例えば、テーブルの上の食器やグラス。
夕べの記憶と違う。
それから、ノートを破りとって書かれたメモ。
『おはよう、私。
たぶんあなたはアキちゃんとプレゼント交換をした私、じゃないかな。
もし、トーセーがまだ寝ていたら、叩き起こしていいよ。
いろいろ伝えることがあるから。
先週の伝言、とっても助かったし、嬉しかった。
私の行動はスマホにメモしてあるから読んでください。たぶん、わたしも同じ提案をしたと思うから、って、私なんだもんね……異議なし。
病院にも行ってみた。別の病院にした。前の時のこと覚えてないから、また来たんだなんて思われても困るし。でも、収穫なし。その時の様子もスマホに書いておいたから。
アキちゃんには連絡した。だって、約束したのは私の時だったんだもんね。
心配してくれていたけど、面白がってもいた。
それから、トーセーとのこと根掘り葉掘りって、どういうこと?
アキちゃんに電話でからかわれたんだけど……今度詳しくに教えてよね。
それから、泣いちゃダメ。
実は、私、目を覚ましてトーセーから伝言聞いて、泣いちゃった。
だから、これを読んでる私もきっと泣いちゃうでしょ。
でも、泣いちゃダメだと思う。
ずっとこのままなのか、いつかちゃんと直るのかわからないけど、もう少し様子を見ながらなんとか切り抜けましょう。だって、私は私。ホントはひとりなんだから。
先週の朝ご飯と昼ご飯も美味しかったよ。自画自賛だね。
じゃあね、私。またね、私』
スマホで、日付を確認した。
ちゃんと一週間、跳んでいた。
泣いちゃダメって言われても、涙が出てきた。悲しいのか寂しいのか嬉しいのかなんだかわからない涙だ。私は鼻水をすすりながら、トーセーを起こした。メモにあったようにたたき起こした。
「トーセー、起きなさい。早く、起きなさい」
私は彼の上に馬乗りになって、肩をゆすり、ポンポン頭を叩いた。
彼が眠そうに目を開いた。
私は思わず抱きついてしまった。
私の記憶では夕べ抱かれたばかりなのに、もう何日も、何週間も会えなかったような気分だった。
「リョーシー……」
私、タイムスリップしてきたよ、七日前から!
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