01 はじまり
目が覚めたら、私の隣にトーセーが寝ていた。
え、どうしてこいつがここで寝てるの……寝ぼけた頭で考えていたら、自分が裸なのに気がついた。
え……なんで?
不思議に思いながら体を起こして部屋を眺める。
よく見ればそこは私の部屋じゃない。
壁にアゲハチョウの標本が飾ってある――もうすっかり見慣れたトーセーの部屋だ。
奴はまだぐっすり眠っている。くるまっている薄っぺらな布団の中を覗く。
当然(当然?)彼も裸だった。
ちょっと待って……夕べ私は自分の部屋でひとりで眠ったはずだ。パジャマだってちゃんと着たし……どういうこと?
私は昨日の行動を思い出してみた。
土曜日、午前中は大学で講義を受けていた。その後、学食で友達とお昼を食べて、図書館で週明けに提出しなければならないレポートの下調べと資料のコピーをしてから大学を出た。それから、トーセーに会った。日曜日、つまり今日が私の二十歳の誕生日だから、本当はそのまま一緒にいたかったのだけど、彼の部屋に泊まってしまったら、そのまま翌日もずるずるしてしまう。そんなことをしたらレポートがまとめられないし、続いて始まる前期試験の勉強もできない。彼には悪いと思ったけれど一日前倒しでプレゼントをもらって、お祝いにイタリアンをご馳走してもらい、遅くなりすぎないうちに帰ることにしていた。そういう約束だった。だから食事の後に別れて、私は電車で帰った。
レポートとか、勉強とか、真面目なんだよねぇ、リョーシーは。
ごめん、来週末は試験も終わってるし、たっぷり時間とれるから。埋め合わせちゃんとするから――改札の向こうで寂しそうな顔をしたトーセーがいた。あの顔、しっかり覚えてる。それから、自分のアパートに帰って、お風呂に入って、少し資料の整理して、十二時は過ぎてたけど自分の部屋のベッドで眠ったはずだ。
どういうこと?
あ、夢?
でも、夢にしてはなんだか生々しい。もっとも夢なら目覚めた時に、こんな生々しさを感じたことさえ忘れてしまうのかもしれない。
夢なら夢でいいけど……でも、なんでこんな中途半端な状況なのよ。どうせならトーセーといちゃいちゃしてるところがいい……って、私、欲求不満なのかな。
とりあえず、こういうときのお約束で、頬を抓ってみる。
痛い。
痛いときは夢じゃないってことになってる。
深呼吸して、もう一度昨日の出来事を振り返ってみるけれど、私が夢遊病にでもかかって無自覚のうちトーセーの部屋までやって来たのでなければ説明できない。夢なら、これはどんな夢なのかな……あんまり良い夢には思えない。きっと、このあとレポートを出せずに単位を落とすってオチが待ってる……かも。夢見の悪さばかりを引きずりそうだ。
考えているうちにだんだん頭が冴えてきた。
やっぱり、夢なんかじゃない、よね……でも――夕べ眠った部屋と違う場所で目覚めるなんて理屈が通らない。
どういうこと、なの……。
「あれ、リョーシー、起きてたの。おはよ……ん、まだ早いじゃないか。もうちょっとゆっくり寝なよ、日曜日なんだし」
え? 私の今週はなんやかんやで日曜とか誕生日とか関係ないの知ってるでしょ。何寝ぼけてるの、この男?……枕元の目覚まし時計を見るとまだ六時を回ったところだった。
僕はもうちょっと寝るよぉ……と、枕に顔を押しつけるトーセーを叩き起こした。
「ねえ、ねえ、どういうことなのか説明してよ!」
なにを?
トーセーが横になったまま眠そうな目で私を見る。
この状況よ。
この状況って?
どうして私がトーセーの部屋にいるの、しかも……裸で。
どうして僕の部屋に君がいるかっていうと、君が泊ったからでしょ。なんで裸なのかって、そりゃ、エッチなことしたからに決まってるじゃない。リョーシーとの付き合いはもう、えっと、七か月――いや八か月くらいかな――になるんだよ。こんなのもう驚くことじゃないでしょう。
そうだけど、そうじゃないのよ!
トーセーは都心にキャンパスを持つ大学の四年生で、浪人しているから歳は三つ上だ。去年の秋、あんまり男っ気のない私に友達が、彼女の彼氏の友達として紹介してくれた。
別に私は付き合うつもりなんてなかった。向こうもそうだったみたいだ。だから、初めて会った時のお互いの印象があまりない。いまひとつ冴えない感じかな、くらい。あっちも似たようなものだったみたい。それはちょっと失礼だけど。
とにかく一度くらいは二人で会え、せっかく紹介したんだからそれくらいの義理立てはしろ、という押し売りのような友達カップルに無理矢理デートの約束をさせられた。そんな約束なんて反故にしたってよかったんだけど、あとからなんだかんだ言われるのも面倒だ。あっちが遅刻でもしてくれれば、時間通りに行ったけど会えなかった、っていうことでこのお話は終了、ということにできるんだけどな……なんて考えながら約束の日、待ち合わせ場所に向かったんだけど……彼は律儀に私を待っていた。こんにちは、と、ぎこちなく挨拶を交わした後、連れて行かれたのは科学博物館だった。文系の女の子を初デートで科博、という理解しがたいセンスに呆れはしたが、向こうも交際を望んではいないというサインと受け止めた。所詮これは友達のメンツを立てる儀式だしねと割り切って、私は彼のエスコートを受け入れることにした。当たり障りのないお喋りをお互い気のない態度で交わしながら、昆虫の標本が壁一面に展示されている大きな部屋に入った。すると、標本の前で立ち止まった彼が滔々と語りだしたのだ……チョウ目は以前鱗翅目とも言ってね云々、アゲハチョウ上科は云々、亜種が云々……私には外国語のようにしか聞こえなかった。そして彼は、私のぽかんとした反応を全く無視して二十分くらい喋り続けていた。
「で、どうかな?」
「どうって、何がですか?」
「僕のことイヤになったかな。こんなふうに虫の話しを夢中になってすると、たいていの女の子に逃げられる」
へえ……。
これまでに付き合った子もね、虫の話をしたことが別れるきっかけになった。気をつけてはいたんだけどね。だから、今回は、それを一番最初に持ってきた。君にもそんなつもりはないみたいだけど、万が一勘違いして付き合いはじめたとするでしょ。でも、後で僕の正体がただのムシオタクだと知って退いちゃうよりもいいんじゃないかなって思ったんだよ。もっとも、このハードルを越えられるんなら話は別だけど。
いえ、じゅうぶん退いてますから、ご安心を。
あ、そう。でも、そうはっきり言われると、ちょっと悔しいな。
とりわけ楽しいわけでもなく、だからといって特別不愉快に思うこともなく、滞りなく一日のスケジュールを消化してつつがなく義務は果たした。これで終わり、のはずだった。
ところが別れ際、駅まで送ってもらったお礼を言って改札に入ろうとしたとき、彼に呼び止められた。
――えっと、サワザキさん……二度目のデートに誘われた。
――あ、はい……私も何を血迷ったのか、それに応じていた。
で、斯く斯く然々あって、いつの間にか付き合っていた……なんだかんだ、相性が良かった、みたい。そして、去年のクリスマスをきっかけに、お互いの部屋を行き来して、しばしば夜を過ごす関係になってしまった。
ヨシエはたぶん自分で気がついていないけど変わり者だからね。変わり者には変わり者のフジオくんを当ててみた。ヒットだったみたいね、と、マユコ(トーセーを私に紹介した友達カップルの片割れ)に笑われた。
まだ眠そうな顔をして寝そべっているトーセーに、私は私の置かれている状況を説明した……夕べ、私は帰ったはずだ、と。
「リョーシー、なに言ってるのかな。寝ぼけてるのかな。昨日はさ、先週の埋め合わせだからって、昼間デートした後、夕方からここに来て手料理作ってくれたじゃない」
え?
あ、なに、もしかしてさ、夕べのが気持ち良すぎて記憶飛んじゃった?
バカ。それより先週の埋め合わせって?
だって、先週はリョーシーの誕生日だったのに、一緒にいられなかったでしょ。レボート書かなきゃって。僕は寂しかったんだよ。恋人の誕生日なのに会えないなんてさ。しょうがないからコンビニでケーキ買って、ひとりで食べたよ。ハッピバースデーリョーシー~って歌ってからね。
ちょっと待って……それって本当?
うん、ちゃんと歌った。
歌のことじゃなくて――カノジョの誕生日のお祝いに、当人不在でひとり歌いながらケーキを食べる二十三歳大学生♂の姿もかなりおかしいんだけど、それはとりあえず保留にし、後でゆっくり突っ込むことにした。そんなことより――私の誕生日、先週だった、の? 今日じゃ、ないの?
「リョーシー、本当に大丈夫?」
大丈夫、じゃない。
結論から言えば、これは夢ではなく、夢遊病のせいでもなかった。
私の記憶はキレイに一週間分消えていた。先週の土曜深夜に眠ったときから今朝目覚めるまで、ぴったり一週間分の記憶がない。全く、何にも、思い出せない。
「一時的な記憶喪失ってやつ?」
うん、そうかも。
「やっぱり、夕べのが気持ち良すぎた?」
バカ、冗談は止めてよ……セックスで記憶喪失になるなんて聞いたことがないけど、でも、そんなことってあるのかな。
さあ。でもさ、リョーシー、大学の課題提出だとか試験だとかも終わってすっかり気持ちが緩んでたみたいだしね。溜まってたストレス発散するみたいに、夕べはなかなかエッチだったよ。
彼が冗談なのか本気なのかよくわからない顔をする。
な、なによ、それ……私は凄く恥ずかしくなったけど、今、問題なのはそういうことじゃない。私は動揺していた。すごく動揺していた。きっとひどい顔をしていたんだと思う。トーセーが心配そうに私の前に座って手を握ってくれた。
「えっとさ、確認しようか。リョーシー、先週土曜に眠ったときからさっき起きたときまでの記憶がないんだね」
うん。
「他にはなにかない? 頭が痛いとか、吐き気がするとか」
それはない。
「じゃあ、先週以前の記憶は? うんと、今の君の感覚だと一昨日よりも前の記憶はちゃんとある?」
うん、たぶん。普通に覚えてて普通に忘れかけてると思う。
私も私が知らない昨日の様子をトーセーに聞く。大学の前期日程が終了し、面倒ごとがきれいさっぱり片付いて普段よりテンション上がり気味だったらしいけど、特におかしなところはなかったそうだ。つまりはいくつかのレポート提出も前期試験も首尾良く乗り切った、らしい。気分が晴れやかになったところで恋人に会い、あちこち連れ回した後、彼の部屋に押しかけて料理の腕を存分に振るっていたらしい。彼曰く、ウキウキ、あまあま、だったよ、って。無防備にトーセーに甘える自分の姿を想像し、それがいかにもありそうなことで赤面してしまった。それに、知らないうちに試験が終わっていたなんて。私としてはちょっと嬉しかったり不安だったりとなんだか複雑だ。
「僕は昆虫が専門だから人の体や心理はわからないけどさ、一時的な健忘症みたいな感じだよね。もし、明日になっても状況が変わらないんだったら、とりあえず脳神経外科とか心療内科とかで診てもらったほうがいいかもね」
うん。そうだよね。
ま、一晩寝たら、全部思い出すかもしれないし。
うん、そうだよね。
もしかしたらさ、とトーセーが私をがばっと抱いた。
何するのよ……。
もう一回したら、思い出すかも。
私はそのまま押し倒された。
バカ。スケベ。
でも、彼の腕に抱かれると、ちょっと気持ちが落ち着いた。
翌日、私は脳神経外科と心療内科をハシゴした。
――CT見たけど、あなたの頭、とってもキレイだよ。一過性健忘症の一種だとは思うけど、ぴったり一週間分忘れちゃってるんでしょ。そんなスケジュール帳を一ページ、キレイにハサミで切り取ったみたいな記憶喪失って聞いたことがないな……過去に似た症例があるか調べてはみるけどね。
――忘れるには忘れるだけの理由があるはずなんですよ。たとえばストレスとか。でも、今のところ、なんともいえないですね。
結局、異常らしきものはなく、また原因らしきものも見つからず、しばらく様子をみることになった。
先週一週間の記憶がないことは当分秘密にすることにした。家族にも、友達にも。だって、説明するのが面倒だ。トーセーには他言無用と念を押しておいた。彼と私の交友関係は直接重なっていないけれど、マユコみたいに間接的な関係もあるにはある。ヘンなところで尾鰭がついて噂されるのはイヤだ。
記憶がないというのは不安だ。
これはなってみないとわからない。
消えてしまった記憶を埋め合わせるため、何人かの友達に電話をしたりメッセージを送ったりして、それとなく先週の私の様子を探ってみた。前期末で慌ただしかったようだけれど、総合すれば、別に変わったところもなく普段どおりだったようだ。試験もなんとかこなしていたみたいだ。何かしらトラブルがあった様子もないようで、大学もちょうど夏休みに入ったところだし、万が一、一週間の記憶が戻らなくてもとりあえず不都合はなさそうだった。誰かと何か約束していたとしても、ただの失念で誤魔化せる。
二日、三日と経過して、だんだん楽観的になる。
いいのか悪いのかよくわからないけれど、このへんの気持ちの切り替えはけっこう早いのだ。だって、どうしようもないものはどうしようもない。
ヨシエは見かけによらず思い切りがいいよね――親しい友達によく言われる。だからといって、性格がさっぱりしているわけではない。合理的な判断をするわけでもない。どうにも手に負えないと判断したら諦めるのが早いだけなのだ。でも、諦めたことをすっかり忘れてしまうわけでもなく、つまらないことでも何年かして突然頭の中に蘇り、軽く自己嫌悪に陥ったりする……あ、こういうのも溜まっちゃうとストレスになるのかな……。
一週間分の記憶を失った日から、朝目覚めるといくつかのことを確かめる――そこが眠った部屋と同じかどうか、今日が何月何日か、昨日の記憶があるかどうか。大雑把な予定しか書かなかったスケジュール帳には、その日の出来事を後から見ても思い出せるよう簡単に記録して、翌朝、覚えているか確認することにした。そんなふうに慎重にしていると何事も起こらないものだ。でも、なぜこんなことが起こったのかだけは気になる。きっときっかけがあるはずだ。夏休みだけど学校のカウンセリングルームは週に何回か開いてたはずだから、来週にでも相談に行ってみようかと思った。
そして、ことなくして一週間が過ぎた。
過ぎた、と思ったのだが……また、一週間、消えていた。
夕べは自分の部屋で眠ったはずなのに、目覚めると実家にいた。
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