なかよし公園に死す

浅谷童夏

小説

5,118文字

じじいのハードボイルドです。

なかよし公園に死す

 

 

 

田中貞夫は、左足にやや体重をかけ、両手で吊り革をつかんで立っていた。一番空いているだろうと先頭の車両を選んだのだが、あいにく空いている席は一つもなかった。とはいえ混んでいるというほどでもない。

立 っている中では、やはり自分が一番年寄りだ、と貞夫は思った。年齢の割には元気だという自信があったが、さすがに七十五を過ぎてからは身体のあちこちの調子が悪かった。右足の痛みもだましだましでやってきたが、とうとう我慢できなくなって整形外科を受診したら、膝に少し水が溜まっていますね、と医者から言われ、穿刺されて水を抜かれた。針を刺されるのも痛かったが、水を吸いだされるときがこれまた痛かった。なのにそれから二週間もたたないうちにまた腫れてきている。またあれをやられるのかと思うと憂鬱だった。

最初の駅に着く直前、目の前に座っている、グレーのブレザーを着た三十代くらいの女が、開いていた文庫本を閉じ、革のショルダーバッグに仕舞った。降りるのかと思いきや、女は代わりにバッグの中からスマホを取り出した。座れると思った当てが外れ、貞夫は心の中で舌打ちをした。

それからも、駅に着くたびに数人が席を立ち、立っている数人と入れ替わる。だが、貞夫の前の女はずっと座ったままだった。

電車に乗った時、列の後方に並んでいた貞夫は、空いていた席にもう数歩、というところで一足早く、この女に座られた。その時、ふと何となく、この女は自分より早く降りるだろうという気がして、前に立ってみることにしたのだった。その時点で、立っている乗客は五、六人だった。

期待はみごとに外れた。駅に着く度に、目の前の女は、視線を一瞬宙に泳がせたり、ずり落ちかけたバッグの肩紐を掛け直したりと、降りそうな気配を見せるが、結局降りない。紛らわしいことするんじゃないよ、と貞夫は内心毒づいた。

下り電車なので、駅に着くたびに車内はだんだん空いてくる。二十五分を経過し、六番目の駅を過ぎた頃には、立っているのは貞夫だけになった。立つ場所の選択ミスさえしなければ、とうに座れていた筈だった。なるべく右足に負荷をかけないように〈休め〉の姿勢をとりながら立ち続けていたら、今度は左足の付け根が痛くなってきた。自分から席を譲ってくれそうな客は一人もいない。どいつもこいつも敬老精神の欠片もない。目の前でスマホの画面を眺めている女を睨みながら、自分の勘の鈍さを貞夫は心の中で罵った

結局、六番目の駅を過ぎてからは貞夫の降車駅まで一人も降りず、車両の中で貞夫はただ一人、四十分間立ち続けた。

電車を降りる時、貞夫は後ろを振り返った。女はまだ座っており、スマホを再び文庫本に持ち替えていた。

ホームから階段まではかなりの距離があった。先頭車両を選んだのが裏目にでた。ホームをのろのろと歩き、駅の階段の手前で一度ベンチに腰をおろした。右膝を揉んでいると、階段から降りてきた五歳くらいの男の子が寄ってきた。

「おじいちゃん、お膝痛いの?」

「うん。痛いよ」

「かわいそうだね。痛いの、飛んでけ」

「お、治った。ありがとうね。優しいね」

「バイバイ」

男の子は近くの母親のところに戻った。知らない人に話しかけちゃ駄目って、いつも言ってるでしょ、と母親が小声でたしなめるのが聞こえた。貞夫がにっこりしてみせると、母親は小さく会釈をした。

貞夫はゆっくり立ち上がり、軽くびっこを引きながら階段に向かった。

その時、グレーのブレザーを着た女が貞夫の横を通り過ぎた。ちらりと視線を向けられた気がした。あれ、と貞夫は思った。先程まで貞夫の前に座っていた女だった。見間違いかと一瞬思ったが、服と、肩に掛けているバッグが確かに同じだ。文庫本に気を取られて、危うく乗り過ごしそうになるところを、ギリギリで気がついて慌てて降りてきたのだろう。

貞夫が階段脇のエスカレーターに乗った時、女はエスカレーターを歩いて上がりきろうとしていた。エスカレーターを降りたところで女はちらりと後ろを振り向いた。貞夫と目が合った。女の表情は心なしか困惑しているように見えた。貞夫はエスカレーターの左側に立ち、女の姿が視界から消えるのをぼんやりと見上げた。

エスカレーターを上り切った貞夫は、改札を出ると、左右に分かれる通路を右に折れた。構内で営業しているドーナツ店を通り過ぎ、下の階段に差し掛かろうとしたところで、視界の隅にグレーの影が見えた。あの女だった。ドーナツ店から出てきたようだ。ドーナツを買うには時間が短すぎる。店に入りはしたが、気が変わって何も買わなかったのだろうか。

ふと暗示のようなものが脳裏をかすめた。背後に女の視線を感じながら、貞夫はゆっくりと階段を下りた。

駅前のロータリーから右に延びる道に入る。本来なら左に行って目的地である山尾整形外科医院に五分後に着く予定だった。膝なら山尾整形外科がもうダントツですよ、と、お隣の家の奥さんから強く薦められて、わざわざ時間をかけて通院しているのだけれど、ここはやむを得ない。電車の中では勘が鈍ったせいで座り損ねたが、たった今閃いたこちらの勘は信じることにしよう。貞夫はジャケットの内ポケットからスマホを取り出し、整形外科の番号にかけた。通話に出た受付の女の子に「電車に乗り遅れてしまったので少し……十五分くらい遅れるかもしれません」と伝えた。

二十メートルほど行ったところにあるコンビニの前で立ち止まり、入り口ドアの前で右に視線を向けると、自分が来た道をついてくるグレーのブレザーが見えた。

貞夫はコンビニに入った。通りに面した雑誌コーナーの前に立ち、さりげなく週刊誌を手にした。店の外の歩道をグレーのブレザーが通り過ぎて行く。

コンビニを出た。女は十五メートルほど先をゆっくりと歩いている。その歩調が貞夫とほぼ同じなので、そのまま商店街の通りを抜けるところまで行き、急に人通りの途絶える住宅街に入っても、二人の距離は変わらなかった。

歯科医院の看板がある角から二番目の路地を女は左に曲がった。続いて貞夫も左に折れる。住宅街はひっそりしていて、貞夫と女以外の人影は無かった。百メートルほど行くと、ブランコと小さな滑り台が据えられた小さな公園があった。園内にも人の姿はないようだ。門柱に〈なかよし公園〉というプレートが貼られている。近くの街灯に監視カメラが設置されているのが見えるが、どのみち駅からの道すがらあちこちで撮られているだろう。

女は公園に入った。やはりそうか。貞夫はポケットからボールペンを取り出し、右手に握る。
貞夫が公園の前に着くと、グレーのブレザー姿の女がブランコの脇に立ってこちらを見ていた。感情を遮断したような無表情だ。貞夫はゆっくりと公園の中に入り、女の横のブランコに腰を下ろした。
「電車で席を譲らなくてごめんなさいね」女が前を見たまま言った。
「いや、そんなのは別にいい。ただ、あんたが降りそうで降りないもんだからね。今日はツイてなかったなとは思った」
「わざとやってたのよ。反応が見たくて。本当に足が悪いみたいね」
「性格悪いな」

「年寄りが大嫌いなの。私、親がいなくてね。子供の頃、おじいさんおばあさんと一緒に暮らししてたときに、二人にひどい目に遭わされたから」

横目で見ると、女の右手にスマホが握られている。
「ホームで背中にちょっといたずらしたの、分かった?」
「いや、気がつかなかった。そりゃ大したものだ」
「良かったわ。褒めてもらえて嬉しい」

女の手からスマホが落ちる音がした。ブランコの支柱にもたれ、そのままずるずると座り込む。貞夫はブランコから立ち上がった。
「詰めが甘い」貞夫は女の傍らに屈みこみながら言った。右膝にずきりと痛みが走り、すぐに立ち上がった。

「何を……」女が呟いた。

「これ」貞夫は右手に持っていたボールペンを女に見せてから、ポケットに戻した。長年使い慣れているこの道具で、至近距離なら視線を標的に向けることなく、ワンショットでむき出しの足を正確に撃てる。これは職人技だ。
「山田から言われたのか?」貞夫は尋ねたが、女は答えなかった。答えたくても、もう出来ないだろう。モネタリトキシンは回りが速い。
「まあ、お姉さんも色々あったんだろうけど」貞夫は女の傍らに屈んで小声で言った。女は目を見開いて痙攣している。

「これであんたも、大嫌いな年寄りにならずに済む」

二週間ほど前に近くの居酒屋で、親子ほども年の離れた山田と飲んだ時「俺も、もうそろそろ田舎にでも引っ込むかな」と冗談めかして話したら、彼は「そんなこと言わないでくださいよ。そのうち顧問にでも就任してもらおうかと考えてるんですから。田中さんにいなくなられたらマジで困りますよ」などと、調子のいいことを言っていた。なのにあっさり退職勧告を出してくるところは山田らしいともいえる。

この仕事の従事者に定年はないが老後もない。つまり引退後の人生はない。これは組織の人間にとっての暗黙の了解事項だ。体力が衰えたり、技量が低下した職員は、一歩間違うと組織の壊滅につながる致命的なミスを犯す。だから退職することになっている。ただ、誰しも退職すると、背負っていた重荷を下ろす代わりに張り合いと緊張感を失い、家族を持たないゆえの寂しさなども相まって、思わぬ守秘義務違反を犯す可能性がある。人から聞いた話なんだけどさ、などと前置きしながら、酒の席で、現役時代の武勇伝を誰かにこっそり打ち明けたりしてしまわないとも限らない。だから退職勧告イコールジ・エンド。もって冥すべし、ということになっているのだ。貞夫自身も過去、十人以上の部下や同僚、上司に退職勧告をしてきた。これは組織内でも最多の数だ。貞夫の年齢で現役で活躍している職員も、もうほとんどいない。最年長、組織内でほとんど伝説的存在になっているらしい自分にも、ようやく順番が回ってきたというだけのことだ。

女が落としたスマホを拾うと、貞夫のスマホの番号が表示されているのがちらりと見えたが、次の瞬間にはロックがかかり、画面は黒くなった。ターゲットの上着の内ポケットにあるスマホの振動を、背中に付着させた装置で検知して、何らかのパルスだか何だかを発生させ致死的な不整脈を起こさせる類のデバイスの噂は聞いたことがある。電子工学オタクの高橋が作ったか、或いは偏執的な兵器マニアである佐藤が仕入れてきたか。ジャケットの背中を探ると、両肩甲骨の中間あたりに案の定、長さ六センチほどの一見枯葉のような、黒っぽくて目立たない扁平なデバイスが貼り付いていた。外して折り曲げて壊す。

女の両脇に腕を入れて近くの木陰のベンチに引きずった。協力動作のない女の身体は重く、腰と右膝が痛んだ。女は失禁していた。ベンチに引っ張り上げて寝かせると、全身汗まみれになった。

さてどうするか。抜け目のない山田のことだから、念を入れて次の刺客も手配しているだろう。家には帰れない。

スマホで再び長尾整形外科にかけた。

「すいません。田中ですが、別の急用ができて行けなくなりました」

「わかりました、次の予約をお取りしておきますか?」

「いや、こちらからまたかけます」

「はい。ではお電話お待ちしていますね。お大事に」

先程と同じ受付の女性が、涼やかな声で言った。
女からの連絡がなければ、組織はすぐに気がつくだろう。組織から逃げ回っても無駄であることは重々分かっている。さして意味あるものだったとも思えないこの人生の幕切れもそう遠くない。しかし、自分の手で幕引きする意思は毛頭無かった。別に裏切られた、とも思っていないが、山田にも多少の意地くらいは見せつけてやりたい。じじいを舐めるなよ、と貞夫は呟いた。挑んでくる奴にはせいぜい敬老精神を叩き込んでやらなくては。貞夫は右膝を揉みながら小さく頷いた。

女のショルダーバッグを探ると、電車の中で彼女が読んでいた文庫本が出てきた。ガルシア・マルケスの〈百年の孤独〉だった。高校を出てから読書とはほとんど縁の無かった貞夫だが、これが世界的名著だということは知っているし、出だしのところだけなら立ち読みしたことはあった。確か、銃殺隊の前に立った大佐の回想から、物語が始まるんではなかったろうか。今の自分とそっくりではないか。丁度いい。次の誰かがここに来るまでに、まだ少しは時間があるだろう。それまでにまあ、読めるところまで読んでみようと思った。女から少し離れてベンチに腰を下ろし、ポケットから老眼鏡を取り出して、貞夫は文庫本の扉のページを捲った。

 

 

 

 

2025年3月7日公開

© 2025 浅谷童夏

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