少女の肖像 (1/3)

少女の肖像(第1話)

加藤那奈

小説

16,026文字

ギャラリーは白い。
壁も床も天井も白く、白々しい光に溢れている。
・・
壁には巨大な少女の肖像が六点、展示されていた。
あなたは、何かに促されるように部屋の中央に立ち、彼女たちを見渡した。
そして、拘束された。
(2018年)

01

 

まず、あなたの置かれている状況から確認しておこうか。

今、あなたは街のとあるギャラリーにいる。

ギャラリーは白い。

壁も床も天井も白く、白々しい光に溢れている。四方の壁面には天井まで届きそうな大きな絵画が六点、額装されず剥き出しのキャンバスのまま展示されている。そして、あなたはたったひとり、部屋の中央で脚をすくませている。

動けないのだ。脚がどうにも動かないのだ。

さっきまでは普通に歩き、階段を降りていたのに、この画廊の中央に立って壁の絵をぐるりと眺めた渡した途端、脚に力が入らず、靴底が強力な接着剤で貼り付けられたようにびくともしない。

恐怖や極度の緊張で脚がすくむことがある。だが、恐怖など感じてもいないし緊張もしていない。少なくともあなたにそんな自覚はない。

耳を澄ませると空調装置からだろうか、遠くで微かにゴォォォと空気の呻る音がする。

土の中の虫が啼くように蛍光灯が高い周波でジジジと鳴っている。

あなたの不安を煽るものがあるとするなら、そんな非日常めいた空間と、目の前にある大きな絵だろうか。それぞれのキャンバスにはひとりずつ少女の半身像が描かれている。巨大な彼女たちはみな無表情であなたを睨らんでいるかのようだ。だが、それは所詮ただの絵だ。キャンバスに絵具で描かれた少女の瞳にいくら睨みつけられたところでどうということもない。

どうということも、ない、はずだ。

原因も分からず動けなくなったことに気持ちが揺らぐ。

そして、どうしてだか上手に考えられない。

あなたはきわめて冷静に現状把握に努めるけれど意識や思考が空回りしている。自分が今、何を感じて、次に何をしようとしているのかよくわからない。事態を理解し改善しようと一生懸命なのだけれど、その中身は空っぽで、考えているふりをひたすら続けるばかりだ。

現状に至るまでに何か特別なことがあったわけでもない。考えるための糸口もヒントもなく、そもそも何を考えていいのかすらわからないのだから、どんなに頭を回転させも結論に至るわけもなく、気の利いた推測や憶測にすら届かない。

もちろん、この場所に足を踏み入れたことがきっかけなのだろう。それだけは間違いない。描かれた少女たちのやけに強靱な眼差しがあなたの自覚をかいくぐり気づかぬうちにあなたを追い詰め、思考や感覚を混乱させているのだろうか。そしてあなたの肉体までをも拘束しているのだろうか……それは、どんな魔法だ。

そんなオカルトはありえない。

ありえない、と思う。

あなたの体が冷えてきた。心地良いはずの仄かに揺らぐ人工的な冷気が、半袖の腕を冷たく撫でる。汗だくになっていたシャツがじわじわ凍えてあなたの体温を奪い始める。

敢えて言うまでもないことだが、居心地はきわめて良くない。

ただし、居心地は悪くても、冷やされる身体に不快感は覚えても、不愉快というわけではない。愉快ではないけれど、だからといって不愉快ではない。厭な感じがしない。

ただ、しっくりこないのだ。

きっと、場違いなのだ。

あなたはそんな言葉で納得しようとする。

きっと自分が安易に立ち入る場所ではなかったのだろう……あなたは思う。だったらさっさと追い出してくれればいいのだけれど、それも簡単には許されないようだ。ルールを知らないゲームに巻きこまれ、いきなりイエローカードを食らった気分だ。

あなたはどんな反則をしたのか。

いっそレッドカードなら即退場なのだが……解放されるにはどうすればいいのだろう。

暴れようにも体が動かない。

謝ればいいのだろうか?

ごめんなさい、すみません、申し訳ない。

他に唱えるべき呪文でもあるなら早く教えて欲しい。それともキャンバスの中の少女達に挨拶でもすればいいのだろうか。彼女たちにどんな挨拶をすれば放免してもらえるのだろうか。

こんにちは、はじめまして、ごきげんよう。

そもそもあなたを拘束することに何か意味があるのだろうか。

どこの誰の仕業で、いったい何がしたいんだろう。

素振りの如く宙を切るばかりでまとまるどころかいよいよ散らばってゆく思考の狭間から、答えなど見つかる当てのない疑問ばかりが油汗のようにこぼれ落ちる。

あなたは後悔する。

どうしてこんなところに足を踏み入れてしまったのか……絵画だとか美術だとかにまるで関心のないあなたが、ちょっとした気紛れで、あるいは涼気の予感に誘惑されて、たまたま見つけたギャラリーなる場所に紛れ込んでしまったことがそもそものはじまりだ。

異常な夏の暑さがいけないのだ、と、あなたは気候のせいにする。

この街が鬱陶しいからだ、と、あなたは街や街ゆく人の群のせいにする。

やっぱりこんな日には出かけるものじゃないのだよ、と、ぎらぎら照りつける太陽の下にわざわざ外出することにした自分自身のせいにする。

あなたがどんな理由でこの街を訪れたのかなどどうでもよい。それはあなたの事情で、あなた自身の事情でしかなくて、他の誰かの興味ではない。仕事があったのか、それとも買い物のためだったのか。知人と約束があったのか。あなたにまつわる背景は、ここでは何も意味を為さない。だから、それを冗長に語る必要もない。もっともあなたをこの場所に巡り合わせるカタパルトとして機能した程度の意義はある。

八月半ば、夏の盛りに暑いのは当たり前だ。天気予報でも、日中の最高気温が三十五度を上回ると報じていた。アスファルトとコンクリートで埋め尽くされた市街地では、直射日光の輻射熱と熱せられた地面や建物から滲む対流熱で蒸し焼きさながらの暑気になるだろうことは想像に難くなかったはずだ。その上、世間は夏休みのまっ最中だ。学校ばかりか職場の多くで夏期休暇が重なる時期だ。大きなデパートやブランドショップが表通りに軒を連ね、幾多の飲食店が大小数えきれないほど立ち並ぶビルに詰め込まれたこの街には、買い物や食事やその他諸々のイベントに訪れる人で溢れかえっている。近隣の街から訪れるばかりでなく、地方や海外からの旅行者も大勢混じり、普段の休日以上に拍車をかけて混雑する。一日のうちで最も気温が高くなる時間帯にさしかかっっても賑わいが衰える気配もなく、あまりの人の多さにふつふつ沸き立つ街の歩道で、あなたはきっとうんざりしていただろう。お喋りし、よそ見をし、だらだらと横に広がり、周りを一向に気にせず、肩をかすった程度では誰も気に留めることのない、あなたの歩行にとっては妨げ以外のなんでもないバリケードの如き人の群をせかせかと早足にかわしながら、用を済ませたあなたは一刻も早くこの街から脱出すべしと帰途を急いでいたのだろう。汗が全身から噴き出していた。下着がびっしょりに濡れていた。鼻先から、顎の先から大粒の汗がぽたりぽたりと落ちていた。

思い通りに歩けない人の密度にあなたの苛立ちは限界値を振り切って、もう我慢できない、と、ついに表通りから脇道へと反れることにする。地下鉄の駅まではまだ少し距離がある。脇に反れればそれだけ遠回りになってしまうけれど、なるべく人の少ない路地へと足を向ける。その分暑気にも長く晒されるわけだが、人にぶつかりながら苛々を募らせるよりはましだ。

それがあなたの選択だった。

道を裏側に二本も入れば、華やかな店舗はなくなって小さなビルがひしめき並ぶオフィス街になる。車道も歩道も狭くはなるが普段でも人や自動車の往来は表通りに比べて嘘のように少なくなる。あなたはそれを知っていた。むしろたいていの会社が休暇をとるこの時期に炎天下り裏道をふらふら歩く者など滅多に見かけない。いつもは道沿いに停車して、積み荷や人を下ろしたり乗せたりしながら走り出すトラックやバンやどこかの会社の営業車もほとんどいない。表通りの喧噪からは別世界と見紛うくらい隔絶されてかえって不気味に感じるほどだった。しばらく歩けば地下鉄の一番外れた入口に辿り着くだろう。そして再び人にあふれかえった改札口や駅のホームに飛び込んでゆくことになる。そんなことを想像して、あなたは些か滅入ってしまう。用も済んだのだから時間を気にすることもない。さっきまで急ぎ足だったのは人混みを早く抜けたい一心であって、時間に追われていたわけではない。だからこの際喫茶店にでも入ってちょっと一休みしてゆこうか、クーラーに体を冷やし、アイスコーヒーで喉を潤してゆこうかとあなたは考えた。曖昧な記憶をたぐりビルの隙間に挟まる鄙びた喫茶店を二軒見つけ出したけれど、多くのオフィスが休業している期間に合わせているようで、どちらも扉に夏期休暇中の張り紙をひらひらさせていた。

しかたないな。

どうしようもない。

落胆しながら傍らに見つけた自動販売機から無糖と大きく印刷された缶入りアイスコーヒーを購入し、別段涼しくもないビルの日陰でゴクリと飲んだ。

あなたは、ほんの僅かだけれど清々しい気分になった。

缶コーヒーを飲み干して、空き缶を自動販売機の脇に並んだ専用のゴミ箱に放り込み、再び直射日光に身を晒さねばならぬことを忌々しく思い、中には手帳くらいしか入っていない薄っぺらなショルダーバッグを日除け代わりに頭にかざし、さて、と、歩き出したときだった。いつくか先のいかにも古いビルの軒先に、飲食店めいた立て看板がひとつ出ていることに気がついた。

何だろう――喫茶店ならラッキーとばかりに近づくと、そこには「ギャラリーM」と銘がある――ギャラリー……画廊か――看板には、小さな絵はがきが一枚、ただ、セロテープでぺたりと貼り付けられていた。はがきには、漫画のような少女の顔が描かれていた。たぶん、こんな絵が飾ってあるのだろう。だが、それが誰の何という絵なのかなどの説明は一切なかった。

この街の裏通りには、画廊がたくさんあることはよく知られている。路面に構えている画廊もあるけれど、その多くはビルの奥にひっそりと収まっているらしい。美術とはあまり縁がないあなたの知識に於いて、画廊とは、画家が展覧会を開き、美術作品を取引する店である。それも、たぶん、高額で。一般人にはあまり縁がない。普通のお店のように、目立つ看板も、過剰な宣伝も必要ないのだろう。関心がなければこの街に百を超えるギャラリーがあることなどちっともわからない。たまに訪れる用向きがあり、表通りと裏通りでは街の様子が随分違うことをよく知っているあなたでも、どこにどんな画廊があるのかなんて全く知らない。看板は見たことがあっても、それを見かけた場所などうろ覚えの喫茶店よりも記憶にない。暑さにうんざりしているあなたにとって、ギャラリーなる場が喫茶店以上に価値があるとは思えない。だから、そのまま立ち去ろうとした。

立ち去ろうとした、のだけれど。

ちょっとした気紛れだったのか。

まさに、魔がさした、というやつなのか。

それとも何かが気になったのか。

目立たないとはいえ、こんなふうに看板を出しているのだから営業しているのだろう、そして少しは来客を期待しているのだろう。高額な商品を扱っているのなら、きっと宝飾店と同じようなものだ。来店した者が必ず取引相手になるわけではないのだろうし、まあ、見るくらいならいいだろう。それに美術品を扱っているのだから、ほどよく冷房が効いているんじゃないか……あなたはふとそんな考えを巡らせていた。
冷房はとても魅力的だ。

ちょうど喫茶店での休息を諦めたところだ。その代わりに少しだけ涼ませていただこうか……うだるような暑さの中を汗びっしょりになって歩いてきたそのカラダには、しばしの時間クールダウンが必要だ。熱中症対策、熱中症対策……。

あなたは突然の思いつきに言い訳をしていた。

だから、まあ、少し覗いてみようか、と、たまにはこんなこともいいだろう、と、あなたは、その古ぼけたビルに入った。エントランスの色あせた壁や所々に染みついた汚れから、ビルはきっと築四十年、あるいは五十年に手が届くのではないかと想像した。

壁にテナントの表札がはめ込まれていた。

いくつも会社の名前が並んでいたが、人の出入りもなく、ひっそりした様子から、このビルもほとんどの会社が夏期休業中なのだろう。
目的の「ギャラリーM」はBF2となっている。

小さなエントランスを見回すと、奥にエレベーターがあり、乗り込んでみる。古びたビルとは不釣り合いにエレベーターの内側だけは真新しい。ボタンが並ぶステンレスのパネルは鏡のようだ。上から程良く冷気を吐き出す空調にあなたはほっと息をつく。ただ困ったことにBF1までしかボタンがない。そもそも画廊なんてどうでもいいんだから、涼しいエレベーターの箱の中でしばらく過ごして帰ろうかとも思ったけれど、それはちょっと貧乏臭くて、大人げなくて、気が引ける。あなたはとりあえず地下一階に降りた。蛍光灯の青白い灯りが灰色の廊下をうら寂しく照らしていた。そして、廊下の奥の突き当たりには明るく照明された入口らしきものがある。
それが目的の場所なのだろうか、いやでも、ここは地下一階で、目的地は地下二階のはず……とにかく、まあ、いいだろう、とあなたは奥へと進んでいった。

地下一階にも画廊がふたつ並んでいた。だが、やっぱり夏休みなのだろう。どちらもスチールの扉で閉ざされている。ただ、廊下の壁面には美術館のポスターが貼ってある。他のギャラリーのフライヤーやDMも壁を埋め尽くすように掲示されていて少しばかり文化の香りがしていた。

辿り着いた廊下の端はショーウィンドウのようにガラスで仕切られていた。白擦りの文字で「gallery M」とある。
ここだ。

近づくと、ガラス扉が自動で開き、ほんのりとした冷気があなたを中へと誘う。そこは小部屋のようになっていて、階下へ通じる螺旋階段だけがあった。下から程良く冷えた空気と明るい光が湧き上がっている。足下から伝わる涼しげな空気が心地良かった。

へえ。

変わった造りだ、と、あなたは思った。

スチールの白光りする螺旋階段がとても魅力的に映った。古いビルに封じ込められたモダンな階段は二十世紀のSF映画のセットのようで、巨大な宇宙船の艦橋にでも繋がっていそうだ。

冷たい手すりがあなたの手に気持ち良く馴染む。階段に足を下ろす。あなたは螺旋に導かれながら――あとから考えると不思議なほどに――全く躊躇うことなく、吸い込まれるように降りていった。カン、カンと、足音が響く。足下には白い空間が広がっていて、光の中に包まれてゆくようだった。あなたは少し目眩を覚えた。

カン、カン、カン……。

天井高は三メートル以上ありそうだ。

壁は真っ白に塗られていた。床も――僅かに灰みがかっているけれど――ほとんど白だ。あなたは、その空間を広いと感じた。

そして、壁には巨大な少女の肖像が六点、展示されていた。

あなたは、何かに促されるように部屋の中央に立ち、彼女たちを見渡した。

そして、拘束された。

2025年2月3日公開

作品集『少女の肖像』第1話 (全3話)

© 2025 加藤那奈

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