01 ケイのこと
ルゥ。
ケイが私の耳元で囀るように囁く。耳朶を撫でる生暖かい吐息と鼓膜を揺らす優しい声に、全身の細胞がふるふると踊り出す。それはとても心地良い。私はその余韻を逃がさないように彼の胸に抱きつく。彼の温もりに、今、この時間に生きていることを実感する。私という個体の存在を確かめる。
少年めいて甲高く、少女のように柔らかい。どこか可愛い彼の声は、目を閉じたならば声変わりのしていない小柄な丸顔の中学一年生だ。大柄で骨張った体躯なんて想像できない。四角い輪郭に薄い唇が裂けた顔だってぜんぜん可愛くない。くるんと丸い瞳は少し愛嬌を感じるけれど、それはしばしば不気味に光る。その囁きはなんだか現実感に欠けている。
彼の声を初めて聞いたとき、私は強い違和感を感じた。腹話術みたいだと思った。誰かが背中の後ろに隠れていて、口パクの彼に合わせて喋っているんじゃないかと疑って、彼の唇の動きと発声にズレがないかと瞬きもせずに凝視していた。
僕の顔に何かついてる?
私はその声ばかりに気を取られ、彼の言葉など頭に入っていなかった。だから、それが私に向けられた台詞だなんてしばらく気がつかなかった。
何かついてる?
え、あ、いえ。
じとりとした眼で軽く睨まれ、彼の奏でる声がやっと言葉になった。それが紛れもなく彼の地声であるとわかった後は、ただ、ただ、気持ち悪いと感じた。
気持ち、悪い。気持ち、悪い。気持ち悪い。
酷いなあ。
彼といくらか親しくなってからその印象を正直に告白すると、わざと苦々しそうな顔をつくって笑ったの――気持ち悪いなんて、思っても言わないものだよ。個性的だとか、せいぜい見かけに合わないとかで止めておくものじゃないの?
だって気持ち悪かったんだもの。
じゃあ、今は?
気持ち悪い。
本当に酷いなあ。僕だって一応は気にしてるんだよ、自分の声のこと。でも、君は正しいよ。君はきわめて正常な感覚の持ち主だ。たぶんね、最初はみんな同じように感じてるのに、しばらく我慢しているうちたいてい慣れてしまうんだ。ヒトの感覚はすぐに順応しちゃうからね。五感ばかりじゃない。幸福にだって不幸にだって慣れてしまう。苦しさにも、痛みにも。何にだって慣れちゃうんだから誰かのおかしな声なんて半日もあればすっかり自然になって、最初に感じた違和感は記憶の片隅にも残らない――君はね、その気持ち悪さを忘れちゃいけない。できればずっと慣れて欲しくないな。
ヘンなことを言う人だ。
ヘンなことを容姿と噛み合わない声で言う、とてもヘンな人だ。
大丈夫、絶対に慣れそうにないから。あ、でも誤解しないでね。声だけならとっても素敵だし、別に容姿がすごく見苦しいってことでもないし。
君はつくづく酷いなあ――嬉しいのか、不愉快なのか判断しにくい笑顔をつくっていた。私はといえば、声優のキャスティングを間違えた出来の悪い吹き替え映画を見ているようで、やっぱり気持ち悪い。でも、それを不愉快だとは感じなかった。
私の感覚も、少しおかしい。
だから、なのかな、だけど、なのかな……こんな不躾な告白を契機にして、私とケイはどんどん親密になる。
ケイと初めて出会った時の、私の彼に対する印象はわりあいはっきり思い出せたのだけれど、それがいつどこで、どんな場所だったのかについては私も彼も記憶にない。ただ、ふたりが学生の頃だったんじゃないかというのが共通した見解だ。
ねえ、本当に覚えないの?
ときどきケイに訊いてみるけれど、彼はいつも違った答えをする。
そうだ、合コンじゃなかったかな?
私、合コンなんて数えるほどしか出てないし。
思い出したよ、どこかの図書館だ!
どこかって、どこよ。
街で僕がナンパした。
それはない。
彼は、いつもニヤニヤ笑う。本当は、覚えているんじゃないかと私は勘ぐる。なぜならケイは嘘をつく。
僕は嘘つきだからね。
ならば、その自己申告も嘘なのかしら?
私がつまらない矛盾を指摘したところで、彼はあっさりそれを飛び越える。
嘘つきのパラドックスなんて、単に次元の問題なんだよ。
次元?
そう、ディメンション。三次元空間で生きている僕らにとって、二次元の世界はあくまで想像の範囲を出ない。四次元なんて想像すらできない。二次元の世界で突然目の前に何かが現れすぐ消えて、また現れてすぐ消える。そんな不連続な怪奇現象も、ただ三次元空間でボールが弾んでいるだけのことかも知れない。同じように四次元世界の自然現象は、三次元でオカルトになる。ロジックだって同じだよ。この空間では矛盾があっても、四次元的、あるいはそれ以上の高次元では赤ん坊でも理解できる程度に整合性があるんだよ。この世界の嘘だって次元が変われば真実になる。だからね、僕らがいつ何処で出会ったかなんて、とても些細なことなんだ。
なにが、だから、なのか、わからないけど。
確かなことは僕らが初めて出会った時、君は僕に対して酷い印象を持ったこと。それがどういう状況だったかは覚えてないけど、君と僕は連絡先の交換をしたこと。結局、電話番号やその他諸々の連絡先も積極的に使われることがなかったんだけど、五年とか六年経って、ふたりが再会するきっかけになった。そして、僕は今、君を抱いている。
運命なんて言わないでよね。
運命なんかじゃないよ。必然とか偶然とか、そんなたいそうなことでもない。四次元だか五次元だかで、君と僕はずっと傍にいたんじゃないのかな。ねえ、ルゥ。そういうことなんだよ。
ケイの詭弁をなんだか気持ち良く感じてしまうのはどうしてだろう。
だからね、間違い電話もあながち間違いなんかじゃなかったんだ。
そうだった。間違い電話だ。
ある日、私の携帯が震えた。
家にいたときだった――休日で在宅していたのか、それとも勤めを辞めて、家で個人的に請け負った仕事している時だったのか、昼間だったのか、夜だったのかその辺りは曖昧だ。
ディスプレイに映った名前に覚えはなかった。だが、名前がはっきり表示されている以上、私のアドレスブックには登録してあるということだ。
ミバウラケイ……って誰?
受信するまで、数秒かかった。
今は忘れてしまっているけれど、一度は知り合った間柄なのだろう。私が忘れているだけで、あっちはちゃんと覚えていて何か用事があってわざわざ連絡を取ろうとしているのかも知れない。覚えていないんだから無視してもよかったのだけど、それに、本当に用事があるなら一度くらい出なくても、再度何かしらの手段を講じて連絡を試みるはず。だが、そういうのはなんだか申し訳なく思ってしまうのだ。だから、つい受信ボタンを押してしまった。
もしもし。
もしもし、ミバウラです。覚えてますか?
ごめんなさい、覚えてません。
先週お目にかかったミバウラです。
えっと、私、先週ミバウラさんという方にお会いした記憶はないのですが。あの、間違い電話ではありませんか?
え、ちょっと待ってください……あ、間違えた……みたいです。アドレス帳、慌てて一列間違えてしまったようです。すみません。でも、僕の携帯に登録してあるのだから、きっとどこかでお会いしてるんですよね……。
そう、ですね。あなたの名前こちらにも出てますから、番号交換したんですね、きっと。
覚えてますか?
覚えてません。
そうですか。
あの、もういいですか?
あ、ごめんなさい。失礼しました。いつどこでお会いしたか、もし、思い出したら教えてください。
はい、思い出したら……。
もちろん、そんな返事は社交辞令だ。ただ、ほんの少しだけ引っかかっていた。電話越しだからけっして明瞭ではなかったけれど、それはどこかで聞いたことがある特徴的な声だった。
だが、二、三日すれば日常にかまけて、そんな間違い電話のことなんて忘れてしまう。一週間も経てば、もう、無かった出来事だ。そして、私の記憶から完全に消去されようとしていた間際、再び震える携帯のディスプレイに「ミバウラケイ」の文字が映って、ふた月か三月前の間違い電話を思い出した。
「君、その時いきなりなんて言ったか覚えてる?」
「忘れた」
「また間違いですか、だって」
ケイによれば、とても不機嫌な口調だったという。
たぶん、不機嫌、というのは嘘だ。嘘でなければケイの勝手な誤解、あるいは記憶の捏造だ。もっとも電話の対応が無愛想、と、友達から指摘されたことは何度もある。だからといって愛想よくしようなんて思わなかった。そもそも電話という道具があんまり好きではない。仕事であってもよほど緊急の用事がなければかけないし、かけたくない。親しい友達――と言っても数はとても限られているが――とつい長電話することはあるけれど、私からかけることは少ない。同じようにかかってきた電話に出るのも煩わしい。電話なんてなければいいと思うこともある。ならば、電子的なネットワークでのデジタルなコミュニケーションや昔ながらに郵送される物質的な手紙がいいのかといば、そうでもない。メッセージ受信のアラートに身構えてしまうし、手紙の封筒を忌まわしく感じる。だって、開封するまでなにが出てくるかわからないじゃない。つまり、直に顔をつきあわせないコミュニケーションがストレスなのだ。相手の顔を見れば、そのときの距離を測ることができる。でも、デジタルにしろアナログにしろ、道具の介在するコミュニケーションはいきなり声が聞こえたり、何の前触れもなく文字の羅列が責めてくる。防御するにも攻撃するにも、私にはある程度のなだらかな距離と時間が必要なのだ。
――間違いじゃないですよ。
ケイからの二度目の電話は、ちゃんと私個人に向けられたものだった。
僕はあの時が君とのファーストコンタクトだと認識している。それまでは、ただのニアミスだからね。
その時の彼の話は捏造脚色するほどにも記憶にないのだけれど、その後の私の行動や彼との会話から推測すれば、内容はだいたいこんな感じだったはずだ。
――たぶん、あなたとはきっと大学時代に一度会っている。特に何かを思い出したわけではないのだけれど、あなたの名前を眺めていて、なんとなくそんな気がしてきた。いつ何処でかは不明。友達グループで遊びに行ったときか、なにかしらの集まりでお会いして、連絡先を交換したんじゃないか。それで、少し話せばあなたも何か思い出してくれるんじゃないかと電話してみた。
「うん、概ねそんな感じだね。それで、君の方から直接会ってみようと言い出したんだ」
どういう流れで私の方からそんな提案をすることになったのか些か疑問がないでもないが否定はしない。むしろじゅうぶんあり得ることだ。私は確かに会ってみたいと思っていたのだ。やっぱり声が気になった。だから、その主の顔を見たかった。
再会(?)には、その電話から二週間ほど後の平日昼間、彼の仕事場近くのカフェが選ばれた。彼が仕事を一時間ほど抜けられるときに待ち合わせをした。つまり、最初の間違い電話の時点ではどうだったのか明らかではないけれど、二度目に彼から電話を受けたとき、私は既に会社を辞めていたということだ。でなければ平日昼間になんて出かけられるはずがない。彼の仕事の時間帯をあえて選んだのは時間制限つきだから。仕事の後とか休日では、引け際を見極めるのが面倒なのだ。厭な相手であろうとそうでなかろうと、自分からそれじゃ失礼と立ち上がるのはちょっとエネルギーがいる。
待ち合わせの場所に間もなく到着といった頃、彼からメッセージが入った。
『僕はもういます。店に入ったら手を振って下さい』
『イヤです。恥ずかしい。普通に電話かけます』
『了解』
――あ、こっちですよ。
こんにちは。ミバウラです。はじめまして……ではないんですよね……。
たぶん……。
彼の顔を直に見て、その声を直に聞いて、かつて抱いた違和感が蘇った。
確かに同じ感覚をいつか味わっている。
挨拶を交わした後、私は息を呑んで彼を見つめていた。
「僕の顔に何かついてる?」
「あ、いえ、何も……」
激しい既視感を感じた。もう少し若い私が、もう少し若い彼をじっと見ている。そして腹話術のような声。
「あの、私……以前に、全く同じやりとりをしたような気がします」
彼のいかめしい顔に薄らと驚きが浮かんだ。
奇遇ですね――いや、奇遇とは違うのか。僕もデジャヴを感じましたよ。
話しているうち、そして彼の声に耳を傾けるうち、彼との初対面の情景が不鮮明ながら瞼に浮かんできた。その時期や場所は全然思い出せないけれど、彼に対する印象と短い会話が次第にはっきりとした形を帯びる。
彼が電話で話していたとおり、たぶんふたりが出会ったのは大学生の頃なのだろう。彼は、その理由を彼はただなんとなく、と言っていたけど、互いの経歴を照らし合わせれば、確かに一番妥当で可能性が高い。それ以前も以降も考えにくかった。
ただし、私たちは大学も違えば専攻も違う。おまけに彼は私より四つ年上だ。普通に考えて接点がない。一年浪人したということだから、私が大学一年生の時、四年生。あるいは彼が院生で、私が二年か三年。だいたいそのあたりだろう。どこかに接点があったのだろうかと考えているうち、私の大学時代の友達に、彼の大学に在籍する彼氏がいたことを辛うじて思い出した。その彼の名前だとか学年だとか専攻だとかを覚えていればもう少しなにかわかったかも知れないけれど、他人の男のプロフィールなんて聞いた傍から忘れるものだ。その彼とミバウラケイがどんな関係かはわからないし、さらにはどういういきさつで私にまで到達したかなんて想像すらできない。限りなく細い線で信頼性にも欠けるのだけれど、結局それくらいしか接点がない。
どんな成り行きでお互い連絡先を交換したのかは未だにわからないままで、きっと思い出すことなどないのだろうなと諦めている。
謎のエンカウント、とケイは笑う。
どっちが敵キャラ?
ノーコメント。
容姿から言えば、あなたの方が順当だけど。
いやいや、敵のモンスターが常にいかつい顔してるとは限らないよ。
私、モンスター?
うん、僕にとっては、最強のボスキャラ。よほど経験値を蓄えて、レアなアイテムいくつも仕込んでおかないと前に出た途端瞬殺されるレベル。
それ、全然嬉しくない。
カフェでの再会をきっかけに、ケイはたびたび私をお茶や食事に誘うようになる。そして、いつの間にか私は彼の恋人に、彼は私の恋人になっていた。
恋に落ちたつもり、ないんだけどな……。
大丈夫だよ。僕は君を熱烈に恋慕してるから、君の分くらい余裕でカバーできる。平均すれば丁度良い感じの相思相愛だ。
その計算、ヘンだわよ。
だからね、計算なんて前提条件をちょっと弄ればどうにでもなる。それに僕は嘘吐きだから、君を騙して錯覚させるくらいわけもない。
私、ケイに騙されてるの?
さて、どうなんだろう。僕は自分自身を一番最初に騙してしまうからね。自分にとって何が本当で、何が嘘なのかなんて区別がつかない。全部本当で、全部嘘。
でも、ルゥ。
彼が耳元で囁く。
君はどうしようもなく僕の恋人なんだ。それが真実であろうと虚妄の戯言であろうと、僕には同じ価値を持つ。
私はその声に騙される。
腹話術のような彼の言葉に体が震える。
そして、彼は私の震える体を抱き寄せる。
直に触れる肌と肌に私は彼のペテンを許す。
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