05 ケイのお母さんのこと
ママに抱かれてうとうとしている。たぶん夕方だ。瞼を刺すオレンジ色の光が暖かい。きっと保育園の帰りなんだろう、ママは僕の身体を小さく揺らしながら歩く。眠りそうになったとき傍をトラックが大きな音で通り過ぎ、僕はその音に眼を醒ます。トラックが走り去った方に身を捩るけど何も見ない。諦めてママを見上げると、ママは僕を見下ろして優しく微笑んでいる――これが僕の一番古い記憶かもしれない。でも、実際にあった出来事なのか、それとも大きくなってから見た家族の写真やママの昔話から勝手に捏造した空想なのかは判然としないけどね。だけど、ママの胸がとても温かかったのは本当だ。
ママは、ずっと働いていてね、毎朝、会社へ行く前に僕を保育園に連れて行き、夕方になって迎えに来てくれた。僕の体が大きくなって抱きかかえるのが辛くなると、自転車を使うようになったから、この思い出は、僕がまだ三つにもなっていない頃じゃないかな。
ケイは自分の母親との思い出を語る。それは私が父親についての決して楽しいとは言い難い、だからといって別に厭うほどでもない、どうでもいい――と、私は思っているのだけれど――昔話をしたからだろう。
ママはね、僕が物心つくかつかないか、そんな頃から休日の度にどこかへ連れて行ってくれた。泊まりがけの旅行も幾度となくした。小さな頃だから、覚えていることは少ないけれど、ママに抱かれていろいろな景色を見た。あれは何、これは何、と、僕の耳元で囁くママの声が好きだった。父親もたいてい同行している筈なんだけど、父のことはあんまり記憶にないんだ……ここはルゥにちょっと似てるね。父だってきっとママと同じように抱きかかえてくれていたんだよ。でもね、覚えてない。保育園の送り迎えだって、ママの都合が悪いときには父親が代わっていたらしい。俺だってときどき迎えに行ったんだけどな――ママのことしか覚えていない僕に寂しそうな顔で漏らしていたことがある。僕に対する愛情が彼になかったわけではなく、僕も彼を拒んでいたわけではない。ただ、僕は父に興味を持っていなかったんだ。彼には申し訳ないんだけど。でも、年端もいかない子供なんだからしかたない。
僕には大きなスケッチブックが一冊与えられていた。大きな、っていうのはその頃の印象で、今見れば、大きくも小さくもないごく普通のお絵描き帳だ。薄手の画用紙が何枚も綴られた、ありふれたやつ。僕が最後の一ページまで描き殴ると、新しいものに取り替えられた。
全部あるんだよ。まだ絵とさえいえない、ぐちゃぐちゃの線で汚されたスケッチブックをママは大切に保管している。宝物のように箱に収めて押し入れの奥にしまってある。赤や青や緑や紫。いろんな色でグルグル引っ掻き回すように描かれた線。赤ばかりを使っているページ。黒ばかり、赤と青、黄色と茶色。白のクレパスだけが塗りつけられているページもあった――描いているとき、僕は何を感じていたんだろうと、錯綜したクレパスの線に自分の幼い意識を探り当てようと思うんだけど、それはやっぱり不可能なんだ。僕はもう、いろいろなことを知りすぎた。知識や概念は、なんでもかんでも区画整理する。適度に区切られた敷地に対して見合った知識を割り当てて、僕が見渡す世界の形を整える。人の成長っていうのは、何もない広大な空き地がだんだん街や都市に変わっていくのと似ている。かつては縦横無尽に駆け巡ることができたのに、舗装道路が整備され、歩く場所が決められる。走る方向が強制される。もう、元には戻せない。幼い僕の豊潤な感性に満たされた意識はすっかり失われ、それを想像することすら能わなくなる。幼い日々の殴り描きこそが僕にとってかけがえない宝石だ。ママはそれを知っているんだ。
あなたはとても変わった子供だったのよ――僕が大人になってから、ママはそれが昨日のことのように笑っていた――絵を描くことに没頭すると、私が横で喋っても聞いていないみたいだった。耳が聞こえなくなったのかって心配するほどだったわ。ぼんやりしているときはいつまでもぼんやりしていた。私にはよくわからなかったけど、何か気に入らないことがあれば突然のように癇癪を起こした。聞き分けのないときは、手が付けられなかった。どんなときも、他人に干渉されるのをとっても厭がっていたみたいね。でも、そんなときは放ってくの。するとね、しばらくして何事もなかったように遊んでいる。
そう。そういう子供だった。
僕はママがいつも横にいたことを覚えている。
スケッチブックにのめり込んでいても、癇癪を起こし泣き叫んでいても、聞こえていなかったわけじゃない。僕はいつもママの声を聞いていた。
ママは僕を「教育」することについてとっても考えていたみたいなんだ。だから、できる限り手をかけた。僕は一人っ子だからね。
手をかけた、といっても甘やかされたわけではないよ。厳しく躾けられたというのも違う。ママは丁度いいところを模索していたんだ。丁度いい教育をして、丁度いい子供に育てる。そして、丁度いい大人になれるよう導く――これについては、成功したとはいえないかもね……ママには申し訳ないけれど。でも、丁度いい分別は持っているつもりだから、きっとママは満足している。
僕の記憶にね、こんな情景が残っているんだ。昼間、窓から日が射していて、僕はリビングに寝そべって絵本を開いている。その横でママも自分の本を読んでいる。ママは会社勤めだったから、日曜日とか祝日のことだと思う。本当にそんなことがあったとすれば、だけどね。これも僕の現実と空想を取り混ぜた虚構かも知れない。
保育園に通っている頃の僕には、たくさんの絵本が与えられていた。全部、ママが選んでいた。まわりの人の評判やいろんなメディアの書評を調べて、その上で、自分でもちゃんと読んで選んでいたそうだ。僕が気に入ってしばらく放さないものもあれば、パラパラと捲っただけで飽きてしまったものもあった。あるいは、買ってきたばかりのときはまるで興味を示さなかったのに、しばらくしてから引っ張り出してきて夢中で眺めていたものもあったらしい。その頃、僕が眺めていた絵本のほとんどは、小さな子供のいる親戚やお母さん仲間に譲ったり、あるいは古本屋に売ってしまったそうだけど、今でも何冊か残っているものがある。僕のお気に入りだった絵本で、汚れてたり破損してたりで、売ることもできないし、人にあげるのも躊躇われる。かといって捨てるのも忍びないから、家の書棚の片隅に入れっぱなしになっている。そして、その横にたぶんその頃ママが読んでいた幼児教育についての本も二、三冊並んでいるんだ。大人になって、書棚の端に寄り添うように並んだ数冊に気がついて、そのときふとリビングの情景を思い出したんだ。
ケイは、母親を巡って滔々と話を続ける。
私はそれを黙って聞いていた。
ふと、彼の声が途切れた。
数秒間の沈黙。
「ルゥ、どうしたのかな」
彼が少年のような瞳で私を見つめていた。私はヘンな顔をしていたに違いない。
ねえ、ケイ――私はそれがどうでもいい、くだらないことだと思っていたけど、聞かずにはいられなかった――あなたはお母さんのこと「ママ」って呼ぶの?
ケイが待ってましたとばかりにニヤリ笑った。
「そうだよ、聞いての通りだ。僕は母をママと呼ぶ。ただし家族の前以外では、ね」
え、どういうこと?
本人や父親、それから親戚の前では「お母さん」、それ以外ではたいてい「ママ」。
その言い分けには、きっと意味があるのよね。
ケイはといえば、疑似餌で魚を釣り上げたような、とても嬉しそうな目をしていた。
「ルゥは、どう感じる?」
「正直に言っていい?」
もちろん。
あなたの口から「ママ」って聞くのは、ちょっと気持ち悪い。
すると彼は顔を歪めるでもなく、それが当然の当然の答えであるかのように頷いた。
――だろう。だから、ママの前では使わない……ねえ、ルゥ。気を落とさないで聞いて欲しい。
え、何?
「実はね、ルゥ。僕はマザコンなんだ」
ケイはそんなことをさらりと言う。
そんなことで、私、気は落とさないけど……。
それはよかった。
だから「ママ」なの?
彼が私を抱き寄せる。
ママという言葉にマザコン属性があるわけではないから、だから、というのはちょっと違うと思うけど、でも、僕にはとてもしっくりくるんだ。ママとの距離を近く感じる。
僕は、ママが大好きなんだ。
僕のママはね、とっても聡明な女性なんだよ。僕が知っているどんな女の人よりも分別があって賢明で、優れていると思ってる。こう言っちゃ悪いんだけど、君よりも遥かにね。君だって愚かではないし、智恵もあれば勘もいい。でもね、きっと僕のママには敵わないんだ。君だけじゃない。世界中探したって誰もいない。勘違いしないで欲しいのは、学歴があるとかIQがとっても高いとか、そういうことじゃないからね。見た目は平凡だし、何か凄い特技があるわけでもない。いたって普通の母親でそそっかしいところとか、ちょっと頼りないところもある。でもね、ママの判断は間違いない。僕にとってはママが絶対なんだよ。
絶対に間違えないの?
間違えないね。もしもね、ママが何か間違ったように見えたとしても、時間が経って振り返ったとき、それは物語の伏線のようなもので、後々ちゃんと意味を持つ。だから、それは正しいんだよ。
詭弁、だわよ、それ。そんな辻褄合わせの物語なんてちょっとした工夫でいくらでも捏造できる……あなたならきっとそんなふうに言い返すんじゃない?
なかなか手厳しいね。でも、その通り。否定しない。他の誰がこんなことを真顔で言ったなら、きっと僕は容赦なく反論するだろうね。屁理屈も大概にしろって白眼を向ける。だから、君はとっても正しい。でも、ルゥ。僕のママについてだけは、その正しさがひらひら紙屑みたいに翻る。
もちろん、私は納得など出来ない――どうして?
僕にとってママは公理だからね。疑う余地なんて、最初から用意されていない。もしね、ママに回収できない誤りがあったとすれば、それは世界の方がなにかを間違えたんだ。
議論なんて無駄ってことね。
そういうことだよ。
ケイは笑って私の頭を撫でる。
とにかくね、僕はママが大好きなんだ。家族だから、実の母親だから愛しているというのとも違う。ただもう大好きなんだ。還暦を越えちゃったけど、やっぱり世界で一番素敵な女性だ。僕は君とママ、どっちをとるって迫られたら、躊躇うことなくママをとる。
それって恋人に宣言するようなこと?
私はケイのママにちょっとだけ嫉妬した。
うん、いい反応だ。
君だから、こんな話をするんだよ。こんな告白、今まで誰にもしたことない。
それは、どうも――それって、あなたの恋人として名誉なことなのかしら?
もちろん。この名誉に浴した女性は、これまで誰もいなかった。君は間違いなくママの次に大事な女性だ。
そうなんだ……一応、ありがとうって言っておくけど、なんだかちっとも嬉しくないわよ。
それは、そうだろうね。
彼が私をぎゅっと抱きしめた。
なんか誤魔化してる?
そうだね。こんな誤魔化し君に通用しないってわかった上での悪足掻きだ。
それじゃあね、例えばだけど。あなたのママが私なんかとは別れなさいって言ったら、ケイは私と別れるの?
なるほど……それはとっても良い質問だと思うよ。
ケイは私の頭をその顎の下に抱え込む。彼の骨張った指が髪を梳く。
結論から言えばね、ルゥ、僕は君と別れない。
でも、あなたのママは絶対的に正しいのでしょ。ママの正しい助言に従わないの?
そうだね……解はふたつある。
ふたつ?
うん……まず、ひとつめ。それはとても単純な解だ。つまりね、僕が常に正しいことを選ぶとは限らない。
――あ……そう、なんだ。
ときには敢えて自ら間違ったことをする。だって、その方が面白いことだってあるんだよ。ママは正しい。君とこのまま付き合っていたら僕に酷い厄災が降りかかるかも知れない。でもね、ルゥ。何年も先の不幸を回避するより、目の前の快楽を選ぶのが本能だ。僕はそれに抗わない。もちろんね、相手が君じゃなくって、もっと凡庸な女性なら、目前の誘惑なんて簡単に捨て去ることができるだろう。ママの助言に従って、すぐにでも別れてしまうかもしれない。でも、君は別だ。君が差し出す料理なら、どんなに猛烈な毒が盛られているとわかっていても僕は食べなきゃいけない。抗えないんだよ。どうしても食べたいと思うのさ。
どうして?
どうしてだろうね。僕は君の中にママとよく似た匂いを感じているのかもしれない。君もひとつの公理なのかな。
でも、ママが私を否定して、ママがあなたの公理なら、私は理に適わない存在よ。相反する公理なんて存在しない。
ルゥ、それは違う。
どう違うの?
比較的初歩的な数学のお話だ。ユークリッド幾何学と非ユークリッド幾何学の違いは大丈夫かな。
一応、理系のケイは文系の私に、ちょっと心配そうな口調で確認する。
うん、たぶん。
ユークリッド幾何学はね、非ユークリッド幾何学と相反しないんだよ。ただ、空間が湾曲していないという特殊な条件が前提に与えられているだけなんだ……ねえ、ルゥ。ベッドで女の子を抱きながらするような話じゃないよね……。
ケイはロマンティストだ。その割に理屈っぽい。そして、理屈っぽい割に感性や直感が思考に優先する。彼はそんな自分にしばしば戸惑うようだ。私はちょっと可笑しくなる。
マザコンを告白したところから、ベッドでするお話じゃないと思うけどな。
それはそうだ。
抱え込まれて顔は見えなかったけど、彼はきっと苦笑いした。
言いたいことはわかったわ。あなたのママも私も、それぞれが特殊性のある公理のひとつってことかしら。
ケイが私の頭を撫でた――よくできました。
だから、ルゥが好きなんだ……僕はママのルールに従った空間に生きている。その空間に君のルールによって広がっている空間が接触している。その接触している点だか線だか面だかが僕なんだ。そして、君の世界はとても甘美な香りに満ちていて、僕はそれを失いたくない。だから、ママが反対してもそれは君と別れる理由にならない。
私はケイの顎から頭を外し、彼の顔を下から見上げる。俯く彼の鼻先があたり、唇が重なる。舌が絡まる。唾液が溶け合う。
それで、もうひとつの解は?
もうひとつの方はちょっと強引かな……ママの考えにはなにかしらの意味があるんだ。ママが君と別れろというなら、そこには必ず意味がある。ただし、どんな意味があるか俄にわからないこともある。ママ自身もまだ理解していないかも知れないんだよ。にもかかわらず、その提言が僕にどんな影響を与えるかを無意識のうちに予測している。つまりね、僕が君と決して別れないことなんて最初から織り込み済みなんだよ。君と別れられないことを僕に自覚させることが意識の水面下で見つけたママの目的なのかも知れない。ママにとってはね、僕の反応を導き出すことが大切で、自分に従わせることではないんだよ。そこから連鎖する出来事が、ポジティブでもネガティブでも結果的にママの言葉を裏付ける――ほらみなさい、だから別れろって言ったのよ。私に従っておけばよかったでしょ――どんな結果であってもママの言葉はいくつもの意味を拾い集めながら最終的には回収される。それは予めの決定事項だから、僕がどんな判断をしようと揺るがないんだ。やっぱり君には詭弁にしか聞こえないだろうね。でも、それは僕にとって屁理屈でもご都合主義でもない。それほどに、僕のママに対する信頼は絶対的なんだ。
私はちょっとばかばかしくなる。
彼のママへの嫉妬さえ、予め用意されていたなんて解釈されそうだ。
その通りだよ、ルゥ。
聡い私を褒めているのか、拗ねる私をなだめているのか、ケイは小さな子供にするように私の頭をいいこいいこする。
僕としてはね、最初の単純な解の方が好みだ。答えはなるべく簡潔な方がいい。こうしてね、君を抱くとき僕はママと君の両方に捕らえられているんだ。身体も意識もふたつに裂けてしまいそうで、それはとっても危なっかしくて面白い。
危なっかしくて、面白い――ケイの口からときどき聞く。
彼にとってはそのふたつが限りなくイコールに近い。
いずれね、君をママに紹介することがあるかも知れない。
ケイ、それ、何気なくプロポーズに聞こえちゃうけど。
そうだね、ルゥがそう感じるなら、たぶん間違っていない。
なんだか無責任だわよ。
そうだよ。僕は無責任だ。
その無責任は、私にとても暖かい。
ママは、きっと君を気に入るよ。そして、君を後継者に任命する。僕を閉じ込めておく公理の後釜、にね。
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