RUE (2/5)

RUE(第2話)

加藤那奈

小説

15,712文字

彼女の話は彼の腕の中で紡がれてゆきます。たぶん。
次に名前のこと、など。
(2017年)

03 名前のこと

 

私は自分の名前が好きではない――少し違う。それがずっと自分のものに思えない……そんな感じだ。

自分自身の名前を意識したのはいつの頃だろう。

幼稚園に通っている頃に、自分の名前を平仮名で書くことができるようになった。クレヨンでスケッチブックに自分の名前を練習していたことを微かに覚えている。いろいろな色で、ミミズのようにのたくった線の仮名文字を書いていた。音には文字が対応することを理解し始めた頃なのだろう、私は不器用に文字を書き、それをたどたどしく声にした。

でも、私の名前はまだ音だった。音だけ、だった。

私の名前に音と文字がだんだん重なっていった。理屈だとか知識だという以前に、ただ、そういうものだと一致していった。強制的にひとつになった。いつの間にか私の名前は音を従える文字になっていた。

自分の名前を文字として強く意識した時と、その文字が私の名前から乖離し、さらに名前そのものが信じられなくなるきっかけは、あのとき……小学校に入学したときだ。

母が教科書や教材、その他いろいろな持ち物に私の名前を書いたり、名前のシールを貼ったりしていた。全部平仮名だった。それが私の名前の形だと理解はしていたけれど、とても不思議な感じがした。あのくねくねとした線が私の名前。同じ形のくねくねがたくさんある。私がいくつもある。私がいくつもいる。

ああ、これが私の名前なんだな。

でも、どうしてこんなくねくねが私なんだろう。

そんなふうに思い始めると、その平仮名の組み合わせが、私からどんどん離れてゆくように感じて、すごく不安な気持ちになった。そして、耳慣れていた私の名前の音までもが、その平仮名に吸い取られて遠離ってゆくように感じた。

たぶん、それからなのだ。

お嬢ちゃん、お名前は?――その問いに、僅かな戸惑いを感じる――えっと……。

そして、名告った途端、自分が誰か知らない人間になったような気がする。

名前を書くときも同じだ。簡単な平仮名が一瞬だけわからなくなる。漢字になってもそれは同じだった。むしろその感覚が助長されていった。さほど難しい漢字ではないのにたびたび書き損じる。正しく書いても、それでいいのかわからなくなる。

私の名前は、多くの知識の中のひとつにすぎなくなる。

「だから、君は名前で呼ばれるのを嫌う?」

ケイとの親密度合いが増したとき、支障が無い限り私を名前で呼ばないで、と、頼んだのだ。これはケイだけじゃない。過去に付き合ったことのある男性にも、長年親しくしている気心知れた女友達にも同じようにお願いしていた。

「嫌っているわけじゃないのよ。ただ、よそよそしく感じてしまうの」

普通は下の名前で呼び合う方が親しみを感じるものだ。だから、私は年上の彼を下の名前で呼び捨てにする。ケイもまた同じように私の下の名をちゃん付けで呼んでいた。最初のうちはそれでいい。でも、親しくなるにつれてその呼び名がだんだん形を失い、私から剥がれ落ちてゆくように感じるのだ。
――例えばね、イヌって言葉があるでしょう。言葉の意味を忘れたわけではないのにね、「イ」と「ヌ」の音が水と油みたいに分離して、言葉の形が崩れるの。これ、ゲシュタルト崩壊ってやつなのかな。そうして、イヌと呼ばれる動物とも乖離する。それと同じように、自分の名前を声に出したとき、無理矢理くっつけられていた音がばらばらになり、ひとつひとつ私の意識から散らばってゆく。それが自分の名前だと理解はしていても、私の身体から離れてしまう。私は自分の名前が信じられなくなる。それは私の名前のようなふりをしていたけど、本当は違うんじゃないかって。それとも違っているのは私の方なのかな……そんな感じ。そうするとね、世界までもが違って見えてくる。今、この目の前に広がっている風景は確かに見覚えがある。この道を真っ直ぐ行けばどこに行き着くか知っている。でも、まるで初めて訪れた観光地を散策しているような気持ちになってしまう……。

昔、友達にこんな説明をした。

たぶん、ケイにも似たり寄ったりの理由を話したはずだ。

だから本当に親しく思う相手に対して、私は私の名前を捨てることにした。私がちゃんと私でいるために、名前を捨てた。その代わり、君、とか、お前、とか、あなた、あんた――なんでもいいから適当な二人称で呼んでもらうことにした。

でもね、ケイ、本当はもう少し続きがあるんだ。

笑わないで聞いてくれるかな。

ここからはケイだから話したことだ。

もしかすると私はどこか知らない惑星からやって来た異星人で、過去の記憶を封じられているんじゃないのかな。今この姿は仮染めで、本当はもっと違った形の身体があって、何かの理由で……例えば調査とか、例えば実験とか、あるいは刑罰だとか、そんな事情でこの星に送り込まれたのではないのかな……馬鹿な妄想とわかっているけど、小さな頃からずっと同じことを考えている。

だからね、頭のどこかに閉じ込められた私の異星人としての記憶が疼いているの。

名前だって、きっと本当の名前があるんだ。私たちのこの口では発音できない音で、本当の私の名前はできている。だから、この世の名前はこの星の住人に偽装するための偽名でしかない。だから私の心には響かない……。

ケイは、私の妄言に目を細め仏像のような顔をする。

あ、可哀想な人を見る目?

でも、それでいい。私は彼の前だけで、こんな子供っぽい、でも心の奥底にずっと隠してあった私の現実を告白できる。それに、私はこんな妄想をちゃんと妄想として隔離できる程度に理性的だ。

君が異星人なのかどうかは保留にしよう。

ケイはにこりともせず、私を見つめる。

それは、姓名同一障害という奴じゃないのかな。

眉間に皺を寄せ、表情をほんのり険しくし、太い眉をぴくりと動かす彼の顔が虚実を掻き混ぜる。聞き覚えのない病名が私たちの顔の狭間で、ふと、形になる。

え、そんな病気……あるの?

あるかもしれない。

私を見据える目はそのままで、彼の薄い唇が僅かに曲がり横に広がる。

なんだ、冗談か……でも、あながち戯れ言だとも言い切れない。病気かどうかはさておいて、私はずっと違和感を抱えているのだから、きっと正常な感覚ではないのだろう。

それじゃあさ。

何?

僕も君に仮初めの名前をつけてあげよう。それは僕だけの君の名前だ。その名で呼ばれるとき、君は僕だけとの関係になる。君とかお前なんて誰でもないような代名詞よりいいでしょ。

私がいいとも、イヤだとも答える間もなく、ケイは私に背中を向けた。

向こう側でしばらくブツブツ呟いていた。

まあ、いいか。

私はケイの背骨をなぞる。ゴツゴツゴツ。

ブツブツブツ。

ゴツゴツゴツ。

ブツブツブツブツ。

頸椎、胸椎、腰椎……えっと、それから……なんだったかな。

私は彼の背骨の起伏を指先でたどりながら、博物館に飾られていた恐竜の化石や動物の骨の標本を思い出す。かつてそこに命が宿っていたことに想像が追いつかず、何の感慨もなく漠然と眺めている自分になぜだか罪悪感を覚えてしまう。だから、因果応報? 私も遠い未来に化石になって発掘されて、どこかの博物館に飾られて、未来人たちの好奇の眼差しに晒されていたりして。でも、骨だけ飾られるなんて恥ずかしいかな……あ、でも火葬されれば骨なんて粉々か。それはちょっと虚しいかな。

私はケイの背中で遊ぶのにもいい加減飽きて、しかたないのでしがみつく。ケイの胸板はそれほど厚くない。抱きつくのには丁度いい。

私の乳房が彼の背中にぐにゃりと潰れる。

右手を彼の胸に回して鎖骨を撫でる。肋骨をたどる。

例えば今この瞬間、大地を割るような地震が起こって、このビルごと地中に沈んでしまったらどうだろう。助けることも、遺体を掘り出すことも能わなければ、私はケイとふたりで化石になることができるだろうか。何万年もたってから、私たちを見つけた誰かは絡まり合うふたりの骨から何を想像するのだろう。私は男の背中から胸に腕を回し、掌を下腹部に当てている女の骨だ。この小さなビルには私たちと同じように褥を共にする男女が何組もいるはずだ。掌をがっちりと握り合ったり、抱きしめ合ったり。小さく仕切られた部屋の中で、男女の骨が番いできれいに重なり合って埋まっている。それはどこか儀式めいた墳墓のようだ。遠い未来の人々は、この遺跡にどんな意味を見つけるのだろう。そして、私たちにどんな名前を与えてくれるのだろう。

私の右手は肋骨を過ぎてケイのお腹を撫でる。

すると彼はその腕を解いて私の方へと向き直る。

君は何を考えていたのかな?

十万年後の私たち。

へえ、壮大だね。僕なんて、来年のことすら考えられない。

それは違うでしょ。十万年後だから考えられるし、想像できるんだよ。歴史だってそうでしょう。遠い過去ほど想像力を刺激されるじゃない。だいたい十万年なんていう時間は巻物みたいな年表の長さでやっと実感できるかどうかなの。その年表だって、三千年前のすぐ向こうがもう一万年前で、二万年、五万年、十万年ってイカサマみたいなはしょり方してたりするし。どんなに科学を根拠にしながらそんな時代を研究しても、それって虚構の世界を妄想しているのと大差ないのよ。

なかなか面白い見解だ。ネットで呟くといい。きっと世界中の考古学者が狂喜してバッシングしてくれるよ。

それは魅力的な提案だけど止めておく。でもね、虚構を作り出すことは、人にしかできないんだから……たぶん、できないんだから、それはそれで素晴らしいことだと思うんだけど。だからね、私たちも十万年後の考古学者に虚構を創造するきっかけでも与えられたら面白いのになって話。こんな風に抱き合ってね、そのまま骨が化石になったら、私たちにどんなストーリーを与えてくれるかな。陳腐なラブストーリーだとかありふれたミステリーだったら、化けて出て、駄目出ししてやる。あ、でも十万年後に化けて出られるの?

そうだなぁ、ネアンデンタール人の幽霊を見た、なんてのは聞いたことないからな。

ケイはこういうくだらない話に、割合真面目に付き合ってくれる。私は彼のそんなところにも好感を持っている。真面目なくだらない話には、真面目にくだらなく応じるのが礼儀というものだ。そういった点でケイは常に礼儀正しい。

それでね。

あ、名前?

うん、君の名前。発表していいかな。

ちょっと待って。

私は彼にしっかり抱きついた。彼の唇に耳を寄せた。

十秒くらい沈黙があった。そして、彼の唇が私の名前を吐息にのせる。

「サイ=ルゥ」

さい、るう?

サイ=ルゥ。今からこれが僕にとっての君の名前だ。

さい、るぅ、ね……。

どう、気に入ったかな?

そうね。まあまあ。ケイの付けた名前なら私は信頼できる。普段の名前よりも、よほど私らしい音だと思う。

さい、るぅ、さい、るぅ、さい、るぅ――私は繰り返し呟いてみた。七回目くらいで舌に馴染んできた。さい、るぅ、さい、るぅ、さい、るぅ――二十回くらいで身体に染みた。インストール、完了。これは、もう私の名前だ。

えっと……一応、聞いておこうかな。どうして、さい、るぅ、なの?

それにはノーコメント。いや、別に深い理由はない。くだらないことだからわざわざ説明させないで欲しい、というのが本音かな。きっと君もわかってるんじゃないの。

うん、たぶん。

そう、そのたぶん、という曖昧なところで伏せておくのが丁度いいよ。自明だからこその不明、だね。

じゃあ、文字にするとどうなるの?

ケイは私の背中に指を立てた。

私は指の動きに神経を集中する。

C、y、=、R、u、e……「Cy=Rue」。

るぅ、がファミリーネームなの?
いや、合わせてひとつの名前、かな。もっとも「Cy」は、ある画家のファーストネームだけど。アメリカ人の男性で、血筋をたどればどこかからの移民なのかもしれないね。「Rue」はハーブの名称だ。ヘンルーダって言うが本名らしい。ミカン科、虫除けの効果があるらしい。

ケイはいろんなことを知っている。

絵描きの方はたまたま知っていただけ。以前にどこかの美術館で見かけてちょっとばかり興味をもった。でも、僕にハーブの知識なんて全くないよ。つい今さっき、携帯で調べたばかりさ。

私に背中を向けて、ブツブツ言いながらそんなことをしていたのか。

君が背骨を数えていたのも知ってるよ。だから、背骨の数も調べておいた。頸椎七つ、胸椎十二、腰椎五つ。それから仙骨と尾骨、だね。

そうなんだ、ありがとう。それで、そのCyという画家ってどんな絵を描くの?

落書きみたいな絵だ。抽象的な落書き。ポールペンの試し書きみたいな、あるいは、読めない文字の走り書きみたいな感じかな。従軍していたとき、暗号を作っていたそうだよ。彼にとって落書きみたいな作品は、れっきとしたテキストだったのかもしれないね。でも、そんなこと君の名前には関係ないよ。音に綴りを当てただけだからね。

悪くない音だ。

無国籍な感じがいい。彼の綴りはアルファベットだったけど、東洋的な響きもあって漢字を当てることもできそうだ。それに――これは私のイマジネーションが貧困なだけかもしれないけれど――その音から、性別も年齢も容姿も見えないところがとてもいい。

だからね、サイ=ルゥ、これが僕と過ごす間の仮初めの君の名だ。発音できない本当の名前を持った異星人だという君を信じる僕が選んだ、僕に発音できる名だ。だからね、サイ=ルゥ、サイ=ルゥ、親しみを込めてルゥと呼ぼう。僕はこの名で君を束縛するよ。

これは後から気がつくことだけれど、結局名前は名前でしかない。どんなにケイが選んでくれたとしてもやっぱり仮初めの名だ。それが私にぴったり寄り添うことはない。だけど、その名がケイの口から発音されたときだけ、ふわりと私に絡みつく。他の誰かが私に向かってルゥと呼んでも、カレーの材料を探してるのかなと聞き流すのがせいぜいで、絶対に自分のことだとは思わない。ケイの声に彩られたとき、それは初めてたったひとりの私を示す記号になる。

それじゃあ私もあなたに名前をつけてみようかな。

お返し……むしろ仕返し、意趣返し、なのかな、私もケイを束縛する名前をつけてみようと思った。私もケイに倣って背中を向けて、ついでに携帯でいろいろ調べながら考えてみた。ケイは私の背骨を数えていた。なかなかいいのが浮かばない。しばらくして、背中で遊ぶのに飽きたケイが私を後ろから抱きすくめた。体をぴったりくっつけて、掌で軽く乳房を覆った。

ねぇ、ルゥ。一生懸命考えてるところ悪いんだけど、きっと無理だと思う。

ケイが耳元で呟いた。なんとなく、そんな気がしていたところだから、ちょっと悔しかった。

どうしてなのかな。

だって君は僕の名前に、もうすっかり馴染んでいるんじゃないのかな。

うん、そうね……。

それにね、僕もこの名前を気に入ってるんだ。残念だけれど、どんなに知恵を絞ろうと、工夫を凝らそうと、できあがるのはせいぜい気の利いたニックネームだ。僕と僕の名前の間にはまるで隙がないんだよ。僕はケイという名だからこそ僕なんだ。そして。僕だからこそケイなんだ。

ああ、そう……なんだ。

だって僕は地球人だからね――腕に力が入って、私の体をぎゅっと締め付ける。

なんだ、そうか……なぁんだ、そうだね。

ケイ、ケイ、ケイ、ケイ……私は彼の名を口にする。すると私が自ら発音しているのではなく、その名が私の喉を震わせ、舌をうねらせ、唇を動かしているようだった。私はそれが私の意志であるかのように錯覚をする。

愛しているよ、ルゥ。

ルゥ、ルゥ、ルゥ。

ケイ、ケイ、ケイ。

ふたりの名前が溶け合う。

ケイの声は、ケイの体はモウセンゴケの繊毛のように私に絡みつく。私は、私という存在は、今のこの小さな四角い鉄筋コンクリートの宇宙の中でサイ=ルゥという名の何かになって、彼の中へと取り込まれてゆく。ケイ、ケイと呼ぶ私の声はいつの間にか形を失い、湿り気を帯びた吐息になる。私は彼の熱い肉体を感じながら、このまま化石になって地層の深みでずっと抱擁し続ける私たちを想う。

ねえ、ケイ。もし、骨に名前を刻んでおけたら面白いって思わない。あなたの大腿骨に「KEI」って刻む。私は肋骨、ううん、骨盤がいいかな、「Cy=Rue」って。十万年後の考古学者は、石化した骨に刻まれた文字、私たちの名前だってわかってくれるかな。

2025年1月7日公開

作品集『RUE』第2話 (全5話)

© 2025 加藤那奈

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