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「深夜、高層ビルの屋上に立つ少女」はピンぼけ写真と憶測のような物語を伴い、ネットワークに拡散し、多くの人々が知るところとなる。
高層ビルの屋上と少女の組み合わせは、シュルレアリスム的といえなくもない。ロートレアモンの手術台を牽くまでもなく、普段出会わないものを組み合わせれば、これまでにないイメージが発生する。フロイト的に解釈するなら、高層ビルは男性器のシンボルとでもなるだろう。しかし、ブルトンの宣言からも一世紀、フロイトの精神分析に至ってはそれ以上の時間を経た今では、安易なディペイズマンなどちょっとした意外性程度の誰でも受け入れられる面白さのひとつでしかなく、また、性愛的な象徴など古典的すぎて陳腐ですらある。もっとも、陳腐だからこそのポピュラリティー、でもあるのだけれど。だが、この件においてはそれ以上に引きつける本質があるのではないかと考える向きもある。
例えば、高層ビルと少女という概念の問題として。
高層ビルと少女の概念の本質には、共通するものがあるのではないか。偶然を介した意外性ではなく、出会うべき必然なのだ。
高層ビルは地上から離れるための道具である。階をひとつひとつ重ねては、地上から遠ざかる。バベルの塔以来、ピラミッドにしろ、摩天楼にしろ、宇宙エレベータにしろ、地から天へと、届かぬと知りつつ伸ばす人の手だ。人は決して到達することのない天上世界を妄想しながら、一層でも多く階を重ねる。
同じ天を目指すのであれば、建築物でなくてもいいだろう。飛行機、宇宙船、宇宙ステーション。しかし、それらはあまりにも現実的で、視点は天へと伸びてゆかない。地上をただ見下ろすだけだ。彼方に広がる真っ暗な空間はもはや天ではない。私の住む世界の延長がただただとてつもなく大きいことだけを見せつけられる。私達にとっての天は、青空の向こう側、星空の向こう側であらねばならない。蒼空や煌光を視認しながらその彼方に腕を差し出さなければ意味がないのだ。現実において実現できないことにこそ価値がある。
少女はどうだろう。
そもそも少女とは何を指すのか。うら若き女性、未成熟の女性。具体的にはそれで正しいのだろう。だが、それだけだろうか。創作物や舞台に登場する少女の一部は、女性でありながら、その女性性を抑制することで少女としての魅力を発揮しているようだ。少女はジェンダーではなく属性として認識される。そして、それは現実からほど遠い。現実の女性においても、子供時代を離れ、大人になるまでの数年間、肉体的な性別ではなく、概念としての少女性が高まりをみせる。彼女たちが、もっとも観念的な存在になる時期だ。純粋な少女とは、その少女性だけを救い出した幻のような概念だ。
高層ビルも少女もその内側に実現不可能なフィクションを内包する。ビルは高いほど、その存在感とは裏腹にリアリティを失っている。純粋な少女には最初からリアリティが欠けている――だから、両者は出会うべくして出会ったのだ。
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