III
扉の向こう側で物音がする。何かが動いている音。
それがひとつの契機となって、わたし、が、励起する。
わたし、は、相対的、なのだ。
がさがさ、ごとごと、と、音が大きくなる。近づいてくる。
わたし、は、言葉、で、今をたぐり寄せる。
こんな言葉は、後付けの仮染めだ。たぶん、これは、わたし、の、言葉、ではない。言葉、は、わたし、に、届かない。せいぜい輪郭をぼんやりと浮かび上がらせるだけだ。曖昧な姿でしかない不明瞭な、わたし、を、あたかもそれが真実であるかのように浮かび上がらせ、掬い取る。
わたし、は、ただ、いる。いつでも、どこでも、ただ、いる。いつでもなく、どこでもなく、いる。いないのと区別できないくらいに、いる。
ガタガタと扉が開く。光が射す。
眩しい、と反射的に思う。それがどういうことなのか、わたし、は、知らない。だが、その言葉が、わたし、の、意識の中に形作られる。
言葉は、足りない。
足りない言葉に、わたし、は、身動きできない。行動も、思考も、感覚でさえも規制されてしまう。わたし、は、わたし、という、ひとつの自己に閉じ込められる。いつとなく、どことなく、ただ、いる、だけだったわたし、が、掬い取られて、ここ、に、いる。
開いた扉から射す光の中に、誰かがいた。わたし、ではない、誰かが、わたし、と、なった、わたし、をじっと見つめる。そして、扉を閉める。
少しだけ浴びた光が触媒となったかのように、わたし、の、意識が暴走気味になる。私、が、ここに顕れた理由だとか、目的だとか、たぶん、これまでさんざん考えてきたであろうことが、あらためて問われるけれど、その問いに明確な解答などないし、そんな思考は意識を維持するための道具でしかなく、疑問そのものに、わたし、の、関心などないこともわかっている。ただ、いったん励起し、局所的なアンバランスが生じたなら、それが解消するまで、わたし、は、わたし、でいなければならない。こんなことは幾度となくあったし、これから先、幾度もある。ああ、直線的な時間の経過が煩わしい、と、感じる。だが、こんなふうに思考が始まった時点で、それに抗う術もない。いや、だからこその、この、意識だ。わたし、を、維持するための必須条件だ。たぶん。わたし、は、未来や過去の、わたし、からの影響を受けていることはわかっているけれど、未来の、わたし、や過去の、私、が、この、わたし、に、どう影響しているのかは、この意識では理解の限界を超えている。超えていることを理解するだけでも幾分オーバードライブなのだ。迷走する思考に、それを頼りなく支える言語の揺さぶりに、わたし、は、酔ってしまいそうだ。
そして、ガタガタという物音ともに、再び扉が開いた。
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