XVI
それは歌だった。何も聞こえないけど、歌だったの。
夜が揺らめいていた。大きな塊が夜空をゆがめていた。帳の向こう側で幽霊よろしく虚像と実像が混ざり合った声ならざる声がその歌を紡いでいたの。優しいとか悲しいとか苦しいとか、あらゆる感情を掻き回し、身体を中心に直接響くの。安らぎと不安が混ざり合うことなく渦を描く。
私は目を閉じて、瞼に闇を誘い込む。身体の淵からわき上がるその音楽に耳を澄ます。夜と私の周波数を合わせるように耳を澄ます。私は底のない淵に深く潜ってゆく。息苦しくなるけれど、感覚は研ぎ澄まされてゆくの。小刻みに震える僅かな抑揚を感じわけ、残響ひとかけも逃さないよう追いかける。
歌声は淀みなく透明で、少し冷たくて、気持ちいい。時々温かくて、心が凪いでゆく。ああそうか……思い出したような気がしたの。いつのことだか定かじゃないけど、私は同じ歌声に出会っている。私はどこかで聞いたんだ。意識せずにずっとずっと探していたのかもしれない。記憶に散らばる情景とその歌を重ね合わせてみる。街のざわつき、足音の重なり、駅のホームのよそよそしい灯り、列車の振動。草の匂い、水の流れる音、朝の木漏れ日、遠くに霞む山の端。遠い昔、つい最近、あるいは、未来。どれもしっくりこないけれど、どれも間違っている気がしない。少しだけ足りないの。絡まっていた記憶の糸がほぐれてゆくけど、その端から崩れてゆくみたい。目覚めた直後の夢のように、思い出そうとするほど遠ざかる。
瞼を開くと、輪郭の曖昧な塊が夜空に浮かんでいた。焦点を結ばないその表面は、硬いようで柔らかいようで、蠢く繊毛のように夜を捕まえ、取り込んでいるようにも見える。夜を捕食している。夜空に擬態しながら夜を食べ尽くそうとしている。
ああ、そうか。
私は同じことを繰り返している。たぶん、だけど。何回も、何十回も、何百回も繰り返している。
高層ビルの屋上の、その縁に立ち、定められた場所に身体を預け、私はあらためて腕をさしだしたの。今度は歌の欠片を掌に包み込み、それを餌にして。
早速、食らいついてきた。私の腕に絡みつく。引きずる力に身体が抗う。でも、今度はね、会話するように力のやりとりをするの。深呼吸し、指先に気持ちを集中させて、ゆっくりと引き寄せる。時間をかけて、時間を止めて、じっくりじっくり手繰り寄せる。少しずつ、少しずつ、こちらへ導く。夜の向こう側からぼやけた輪郭があちこちですうっと集まり一本の線に絞り込まれて形を作る。
もう少し、あと、もう少し。
それが大きな鯨に見えたのは、鯨座の方角を見ていたせいかもしれない。あるいは私の深淵に響いていた歌声のせいかもしれない。
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