XII
わたし、は、世界と向き合っている。
こんなふうに言えば、わたし、は、あたかも能動であるかのようだ。世界、セカイ。都合のいい響きは全てを包み込み、一切合切ひとつにしてしまうミキサーのような呪文だ。その実、取り込まれ、引きずり込まれた何もかもが差異を無効にされて、個々のありようなど取るに足りなくなる。
それでも、私、は残る。すりつぶされて、限りなく均質になった個々の姿に、無理矢理差異を見出し、取り立てて意味も形もない、私、を私は見出そうとする。そして、世界と対峙するかの如く振る舞ってみる。それは自然な戯れだ。可愛らしい戯れだ。
彼女は、世界に、セカイ、に干渉する。
自覚も、理解も、疑問もなく、その身体に刷り込まれた仮初めの記憶に全てを委ねる。思考と感情と行動に関連はない。思考は言葉に依存し、感情は感覚の投影に過ぎず、行動はただ肉体の反射による。それぞれが勝手に時間を進めているだけだ。そこに連携があるように見えるのなら、それは幻影に過ぎない。彼女に主体などない。それは、わたし、も同様だ。わたし、と、自らを言葉にする、わたし、は、たぶん、わたし、の主体と断定するには、より高度な次元から眺めるより方法はなく、また、それとて、別の、わたし、の視点をもうけるだけで、仮説くらいは立てられるかもしれないけれど、どこまで次元を高めたところで結局同じことを繰り返すばかりなのだ。
夜闇と月光に溶かされたセカイのほころびを彼女は見つけた。
彼女はそのほころびに手をさしのべる。
ほころびを解きほぐす。
その動作によって生じる変化にも気づくことなく、ただ身体の動くまま、夜闇に手をかざし、腕を伸ばし、漂う糸の端に指をかける。引き寄せるようにセカイを縫合する糸を解いてしまう。知覚や思考を置いてきぼりに、セカイの外側をこちら側へと導いて、自らの存在の根拠さえ危うくする。
ねえ。
わたし、は、彼女に呼びかける。
わたし、の、声は届かない。
彼女には聞こえることのない、わたし、の声。
ねえ。
わたし、はね、あなた、と、お話ししたいと思っているの。叶わないことと知っているけど、したい、と思っている。でも、あなた、には、わたし、が、わからない。あなた、の存在と、わたし、の存在は、質が異なるから、直接交わることはできない。ほんとは聞こえているはずなのに、それが誰かの、わたし、の声だと気づくには、もっと時間が必要なのかもしれません。長さとしての時間ではなく、質量としての時間、のことだけど。
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