昭和天皇が国民に敗戦の詔勅を伝える玉音放送が流れたあの日から74年目を迎えた2019年8月15日、靖国神社をはじめ都内各所で繰り広げられる政治的喧騒を逃れ、とある不敬なイベントがひっそりと開催された。題して「『戦前不敬発言大全』『戦前反戦発言大全』発刊記念イベント」。会場はアーケード街の地下にある阿佐ヶ谷ロフトA。少し調べてみたところ、これまでに男性器喫食会で保健所のガサ入れが入ったり、東浩紀と彼の出演イベントの観客とのあいだに一悶着あったり、映画『ピース オブ ケイク』のロケ地に使われたりと武勇伝には事欠かない場所であるようだ。中央線沿いの町に特有の猥雑なサブカル消費主義の臭いがプンプンしており、酒の注文を取りに来た男性店員は顔と髪型が岩井俊二によく似ていた。普段は下北沢界隈を根城とする破滅派同人の牧野楠葉も店のアングラな雰囲気に圧倒されている様子だった。

同行した小説家の牧野楠葉。鼻を押さえているのはプライバシー保護のためであり、急に鼻水が出てきたわけではない。

さて、このイベントの主役の話をしよう。彼の名前は髙井ホアン。破滅派ではJuan.Bとして活躍し、はめにゅー記者としてもおなじみの存在である。パラグアイ人の母親と日本人の父親を持つが、彼自身は日本の外に出たことはまだない。破滅派での彼は日本社会における「混血」や「ハーフ」、さらに天皇制を主題とする創作を発表し続けている。そして今年5月、当時24歳にして彼の著書『戦前不敬発言大全』『戦前反戦発言大全』が出版された。戦前の内務省警保局保安課(いわゆる特高警察の総元締め)の内部文書である『特高月報』をはじめとする史料に基づき、戦前から戦中にかけての反戦の言説や不敬発言を収集した労作であり、2冊で1000頁を上回る大著である。全国の大型書店で大々的に売り出され、『図書新聞』や『週刊金曜日』にも書評が掲載された。著者のインタビューも破滅派主宰、高橋文樹によるもの毎日新聞によるものに始まり、今後も目白押しである。目下人気絶頂のJuan.Bあるいは髙井ホアンのエネルギーの源泉がどこにあるのか、イベントで語られた内容に独自のインタビューを交えて探ってみることにしたい。

イベント準備中の髙井ホアン。笑顔がさわやか。

Botの制作から書籍デビューに至るまで

イベントは休憩を挟んだ2部構成で、第1部では主に出版に至るまでの経緯、第2部では古代から現代に至るまでの壮大な不敬発言の歴史が語られた。彼が今回の2冊の本を出す直接のきっかけになったのは、大学1年生だった2013年の夏にツイッター上で作ったBot「戦前の不敬・反戦発言Bot」であるという。高校時代からインターネットで戦前の庶民の不敬発言について断片的に情報に接してきた彼は、その当時そういった発言がまとめられた文献が見当たらないことに気づき、30から40の発言を集めてBotを作成した。自動的にツイートを流すBotという形で不敬発言を紹介した例は他に見られず、自分でやってみようという気軽な動機だったという。このBotよりも先に彼は反天皇制の活動家だった奥崎謙三(1920年-2005年)の発言を紹介するBotを作成していたこともあり、要領は既に心得ていた。

「戦前の不敬・反戦発言Bot」は本人の予想を超える反応があった。約半年後にはフォロワー数が1000人を突破。これは奥崎謙三Botを上回る人気ぶりであったという。そんな中で彼は書籍等で調べた発言を追加したり、フォロワーとのやり取りの中で新しい発言を教えてもらったりなどして内容をさらに充実させていった。ある時、彼は社会評論社が刊行する「思想の海へ」シリーズ第16巻『反天皇制――「非国民」「大逆」「不逞」の思想』を読んで同書をBotで紹介した。その直後に連絡を取ってきたのが当時社会評論社に編集者として勤務していたハマザキカクであった。「はじめまして戦前の不敬発言Botに感銘を受けた者です。これをベースにした本を作りたいと思っています。ご協力いただけないでしょうか」という文面に髙井ホアンは当初、ハマザキが執筆する本に情報提供をする形なのかと誤解し、「自分は専門に取り組んでいる研究者というわけではないが、素人でできる範囲のことであれば力を貸したい」という主旨の謙虚な返答をする。ほどなく自分が本を執筆するのだと説明を受けた彼は大変驚いたという。

「この時、私は大学を卒業すらしていませんでしたからね。一番最初に事務的な反応されると本を作る気がなくなるってハマザキさんは書いていたから、私の返事が人情味があるものだったのでしょう」と彼は振り返る。ハマザキは髙井が『反天皇制』を紹介する以前から「戦前の不敬・反戦発言Bot」に注目していたという。髙井がまだ大学生であるということは知らず、初めての面会でハマザキは彼の若さに仰天することになる。二人はブレインストーミングを重ねて書籍化の企画を膨らませていった。本作りの長い過程のさなか、ハマザキは社会評論社から独立して合同会社パブリブを設立した。『戦前不敬発言大全』と『戦前反戦発言大全』の2冊がパブリブから出版された時には、髙井がハマザキから最初にアプローチされてから4年半の歳月が流れていた。

髙井ホアンの作家デビューに至るまでの経緯は、YouTubeに投稿した動画をきっかけにデビューしたジャスティン・ビーバーのそれと酷似している。どちらの場合も企画の持ち込みやオーディションなどの形でみずから積極的に業界に働きかけることなしに、ツイッターやYouTubeといった身近なオンライン・ツールでの発信を通して業界側に発見してもらうという手段で商業デビューを果たしている。髙井ホアンとジャスティン・ビーバーはどちらも1994年生まれの25歳である。幼少期から日常的にインターネットと接してきた彼らの世代にとってのデビューへの道筋は、ライバルを押しのけて自力で狭き門を突破する従来の登竜門型に代わって、自分の手の届く範囲に触手を広げてチャンスが近寄ってくるのを待つイソギンチャク型が主流になりつつあるのかもしれない。しかし一見お手軽に見えるこのイソギンチャク型デビューは、はたして本当に誰にでも真似のできることなのだろうか? 私は、若き才能の秘密を探るべくインタビューを敢行した。

一対一では絶対誰にも負けないんですよ――髙井ホアンとのインタビュー

イベントに先立つ8月10日の夜、私は別の破滅派同人、大猫と大手町にある読売新聞本社の1階ロビーで髙井ホアンを待っていた。約束の時間はとっくに過ぎていたが、彼はまだ現れていなかった。「産経新聞が近くにあるから間違えたのかな?」「ああ、きっと産経に乗り込んだのかもしれませんね」そんな冗談を交わしながらも、大猫が携帯電話に表示される時刻をしきりに気にしていたことに私は気づいていた。私は大柄な男性を見かけるたびに「あれはホアン君ですかね?」と大猫に訊いた。私はもともと他人の顔を認識するのが苦手だ。普段ネット越しにしか見ない相手となると特に怪しくなる。私の度重なる誤認を大猫はニコニコ笑って受け流してくれた。私たちは二人ともそれぞれ違った形でいつ来るとも知れない彼に対する戸惑いと苛立ちと期待と不安を押し隠していた。彼は本当に来るのだろうか?

20分遅れて到着した彼は、にこやかに手を振りながらロビーに入ってきていきなり私たちと握手をした。彼の柔らかい肉厚な手は温かく、汗で少し湿っていた。そのあと彼は早口でレンタサイクルのパーキングがどうのこうのと弁解の言葉をまくし立て始めた。私は自転車に乗れないので話の内容がよく理解できなかったが、自転車を返す場所を見つけられなかったらしい。君が主人公なんだからもっと悠然としていればいいのに、と私は思ったが何も言わなかった。建物の外に出ると、彼は赤い自転車を物陰からそそくさと引っ張り出してきて私たちは一緒にパーキングエリアを探して返した。

そういえば、彼は事前に「Fujikiさんに合わせますけど、肉が食べたいです」と食事の要望を大猫に伝えていたらしい。年配者に対する配慮のジェスチャーも示しつつ自分の意志ははっきりと伝える。これは大事な処世術である。ただ肉と言ってもいろいろある。暗くなったオフィス街を歩きながら、私は何が食べたいか訊いてみた。「一応何でも食べれますけど、小さいプチプチした魚卵とか……」「とびっことか?」「そうです。アレルギーとかそういうのじゃないんですけど、ただ食感が……」「わかってるよ。苦手なんでしょ」「でも鶏卵はちゃんと食べるんですよ」苦手な食べ物に言い訳は無用である。私たちに対して過剰に気を遣い続ける彼を見て、私は自分が急に年を取ったような気がした。実際、紅顔の青年である彼にしてみれば私や大猫などアンモナイトの化石であろう。結局、私たちはゴーストタウンのように暖簾を下ろした週末の地下街を延々とさまよい歩き、レストラン難民の地獄を味わった末に丸の内のビルの4階にある中華料理店にたどり着いた。以下は、その時に行ったインタビューの内容である。斜体で示した聞き手はFujikiと大猫の二人である。話に力が入ってくると髙井ホアンの一人称は「私」と「俺」で揺れ始めるが、あえて修正せずに残してある。

中華料理店でカクテル「上海の月」を手に悦に浸る髙井ホアン。ちなみに成瀬巳喜男監督による同名の国策映画が1941年に公開されている。

ホアンさんご自身は反天皇制なんですか?

うーん、そう言わざるを得ませんね。でも愛子には同情しています。私が7歳の時に生まれてその生きざまを知ってますから。あの人はそれになりたくてなったわけではないってことはわかっています。途中で不登校にまでなっているんですよ。だが大人になっても内親王であり続けるなら抵抗するしかない。雅子は入ってからいろいろありましたけど、自分の意思で選んでいることは確かなので、あれはもう私の敵の一人ではありますね。

ホアンさんの敵は誰なんですか?

うーん、上皇になった明仁か、徳仁か、既に死んだ裕仁か……。例えば8月15日にデモやっている人たちいるじゃないですか? 89年以前は、裕仁は戦争の時も指導者だったし、戦後も指導者だったという責めようがあったわけです。どんな意味であれ責任は取っていない、取れと言えたわけです。でも代が替わっちゃった。その息子は戦争に関する責任はおそらくないわけですよね。言ってみれば、戦争の責任を取れっていうのはわかりやすい責め方です。戦争から帰ってきた人は裕仁に「お前のせいでこんな目に遭った」って言えますし、戦時中を生きた主婦だって「お前のせいで夫がいなくなった」って言えました。でも平成になってからはそういうことは下火になった。私は平成生まれだから、天皇制の過ちを確信してはいてもそれをどこにぶつけるかは特に難しい問題ですね。ただね、私がそういうことを意識するようになったのは高校時代なんですよ。

じゃあ、高校生のころに何かいろいろ体験をしたと?

まずね、小学校時代にいじめに遭ってたんです。始まったのは小3に入ってから。断続的に5年の初めくらいまで続きました。公立の学校に入って3年くらいしたらグループとかできてくるんでしょうね。特に私をいじめていた相手の主犯格は少年野球クラブにいたから。小4の時とかは私のせいか知りませんけど学級崩壊状態でした。私も職員室とかで問題視されてたんでしょうね。一時期、保健室登校状態だったんです。と言っても一日中とかってわけじゃなくて、「自分の心を見て」とかそういう「優しい」対応を取られるようになって。私も素直にそれに従って。私とは別に完全に保健室登校状態の子どもがいたんですけど、その子と仲良く遊んだりしましたね。

女の子?

男の子です。女の子だったら、違うドラマになるんでしょうけど。小学校時代、男と喧嘩している時は教師は同情しているそぶりを見せたんですよ。お前の気持ちもわかるって顔をして。でも女の子を殴った時は態度が変わりました。

へえ、女の子を!

ある日の帰り道、一緒になって私をからかっていた男の子たちが、追いかける私から逃げて走って行ってしまったあとも、その子は一人で残って自分には手を出せないだろうとばかりにニヤニヤしていたんですよね。「私は女子だから殴れないよね」って顔で。俺はブン殴りましたよ。ポコンだか、ガツンだか知りませんけど「殴るんだよ!」って。そしたら相手はうずくまっちゃって引きつった声で何か言ってるんですね。俺も何かいろいろ訳の分からないこと言ってました。そして気分いいなーって思いながら帰ったんですよ。

翌朝、学校行ったら別室に呼び出されてお説教。そのあと、放課後に親にも電話が行ったんですね。学校でたびたび喧嘩とかしたりして、毎年家庭訪問や二者面談とかもやっていたから両親も察していたと思います。「やられたらやり返せ」って言われていたんですよ。今はポリコレとかいろいろあって受け入れられないでしょうけど、昔ながらの感じで。俺、小3の時点で150センチ弱あったから、一対一では絶対誰にも負けないんですよ。ただ多対一で誰も俺の味方なんかしませんから、7対3の割合ですね。負けが7で勝ちが3。その中に一人女の子がいたってだけで。親はこのことで俺を一切責めなかったですね。

すてきなご両親ですね。

俺が生まれた時には母親が30代後半で高齢出産。母親と同じ誕生日ですよ。昔は普通の親子だったんですけど、今は俺が変則的な生活を送ってますし。無職ですから、建前上は。本のことについて一切親に言ってないんで。この本の作業の後半は無職になった時期にやってるから、何やってるんだとかは言われましたね。いったん隠すとずっと隠さなきゃいけなくなるっていういい例ですね。

本を出したって言えば、きっと喜びますよ。言わなくても、牧野楠葉とかの世代のちょっとうるさい女の子の読者が「ファンです!」って家に押しかけてくるかも。

親父の思想が小林よしのり系なんで。母親のほうは自分より若い女の子が嫌いだって言ってるから、何をしでかすか……。変なところで過保護なんで、俺のやりたいことを邪魔してきたんです。

ホアンさんの初恋はいつですか?

中学ごろですかね。すぐに冷めちゃいましたけど。私そもそも下品な人間だから。放送禁止用語を叫んで帰り道に騒ぐような。私から何らアクションしてないし、向こうからもないですね。中学に入ってからは違う学区から来てた子もいたし、ママチャリをBMXみたいに乗り回してる奴と仲良くなったり、休みに10キロくらい離れたところまで行ったりして、いろいろ楽しいことしましたね。私は中学が一番普通の日本人だったと思いますね。中学のころが一番「非政治的」だったんですよ。

でも私、高校の時はありましたよ、そういう子ができかけたことがあるんです。うまく説明できませんけど、いますよね、クラスに一人くらい。人付き合いに関して過剰に接近してくるような、そういう子に好かれちゃったんですよ。でも俺がその子に向き合ったことはないです。性的にも一切。

どういう女性に性的に魅力を感じるんですか?

考えたことなかったっすね。そうですねー。魅力を感じるとか勃起するとかそういうのはもちろんあるし、いろいろな表現に触れています。ただ俺は思春期の特に後半が滅茶苦茶で、その時期数人の友人以外とは人付き合いが苦手だったんで自分から行かなかった。それに外国人が母親で日の半分はアングロサクソン的でもない外国の文化にドップリだから周囲と話が合わない。カラオケ行っても何も歌えない。俺の青春らしい葛藤は言ってしまえば全部小学校で燃え尽きてる。このカニ玉、本当においしいです。

ホアンさんが創作の中でエロを得意としないのは、そういうところから来てるのかな?

やっぱそうなんじゃないっすかね。学生時代から何もしてないんだから。例えば、高橋文樹さんすごいじゃないですか。高校時代からモテたって。顔もよく、金もあり、頭もよく、って自分で言ってる。でも私はそういう風に輝ける光のハーフじゃないですからね。

私が入ったのは地域で一番環境が悪いって言われてる高校でした。高校時代には教師に「お前ハーフだから古文できないだろ」とか意地悪なこと言われたわけですよ。俺も生意気だったから「先生もスペイン語できないでしょ」とか気が利いているようでいて白けるようなことを言って怒られましたね。そして高校2年に入ってちょっとしたころに、小学校の最初のころ以来会わなくなった母親つながりの知り合いのハーフが自殺したらしいと聞きました。でもそれ聞いた時、私はほとんど忘れてたし、時に強いショックってのはなかったけどだんだん尾を引いてくる。不登校とか学校での問題とか、理由はうすうす聞いてたんです。そのちょっとあとに、私の友人が差別職質を受けたんです。日本国籍なんですけど顔が日本人っぽくないってことで、警官にパスポートを出せって言われたんです。ずっと付きまとわれて、最後は解放されたんですけどね。これら2つの出来事に、自分で考えとしてまとめることはできていなかったけどうすうす感じていたことが結びついたんですね。小学校時代に、説明はできないけど根本的に周囲の日本人と向き合う経験をして、でもそこでは当然答えは出なくて、中学を挟んで、高校時代に政治的になってしまった。診断などはないですが、自分で言うとノイローゼ状態でした。

中学3年ごろからネトウヨが勃興してきた時期で、高校時代には桜井誠とかそういう人が台頭していました。ちょうどその当時、もちろん未成年の身でエロサイトとか読んでたんですけど、創作系のサイトに「人権擁護法案で日本が外国人に支配される」って噂が陰謀論の書かれたページに飛ぶウェブリンク付きで広まっていました。外国人が入ってきてお前らの好きな表現ができなくなるってやつです。私の場合、外国人なのは母親ですけど、自分とは違う視点があると気づいたんですよ。かなりニッチな気づき方ですけど。私は小学校のころを除いては、あからさまに差別をする人はいなかったし、友人ほどひどい目には遭ってない。それはなぜかっていうと、私が偶然誰かの目につかなかったってだけで、ハーフが何かについて発言したらやられてたかもしれない。私自身がひどい体験してたら、別の視点も持てなかったと思うんですね。職質には遭ったことはあります。英語で話しかけてくるみたいな、そういう前提のね。

取材のために準備したサングラスをかけて変顔をする髙井ホアン。異性の話題を振るとミソジニーがちょっぴり顔を出す。

小説を書き始めたのは?

18、高3のころからですね。一番最初のやつが「“誇り”高き人々」。靖国の遊就館をモチーフにしたやつです。2012年に小説家になろうに登録して、2013年に入ってから自分のブログを始めたんです。ペースは遅いけど、そのころに本格的に小説とかを書き始めました。あの時はいろいろ夢みたいなものを持っていたんですね。まだ大学1年でした。埼玉の某大学の人文学科で歴史をやりました。卒論は「カリブ海の奴隷貿易について」。ゼミの先生もすごいいい人だったし、自分自身にとってもすごく役に立ったんですよ。

破滅派に入ったのは2015年の11月、大学3年の21歳の時ですね。もうあちこちで書いてますが、作品を規制されてネット上を放浪した末に出会った。就活に向けての大切な時にそういうことやってたんです。2016年3月に破滅派の9周年パーティーがあってそこへ参加したんです。そこから2016年5月の東京文フリでは店番とかしたりして、現在のような形ではめにゅーと合評会を始めることが決まった時にはその場にいました。それから編集会議にはずっと出ていますね。

最初のころの作品を読み返して自分の成長を感じますか?

感じます。ダラダラ感、状況をセリフで説明しちゃう、登場人物の造型とかですね。地に足ついてないって感じですね。今でもついてないですけど。以前に比べれば褒められるようになったけど、まだまだですね。例えば牧野さんに比べたら……。でも、褒められるために書いてるわけでもないので。

本が出て、今の気分はどうですか?

やっぱ、いいっすよね。本が出る1週間くらい前にハマザキさんと会って、著者献本分をもらいますよね。できあがった本を手に取った瞬間、本当にエネルギーがビリビリって来ましたよ。ハマザキさんから申し出があってから、4年半。破滅派よりも長い。そうです。破滅派に入ってからも黙ってたんです。2016年ごろにはちょっと停滞してたし、就活とかもあったから、特に言うほどのことでもないかなって思って。出版の少し前に高橋さんだけには「本が出る」ってちょっと匂わせたんですけど「はあ?」みたいな感じで。絶対俺のこと信じてない顔だったな(笑)。

これから「Juan.B」と「髙井ホアン」は一つになるんですか?

自分で書いてる記事とかだと今でも併記してますし、どっちの名前にも愛着がありますからね。ただ公募とかに出す時には髙井ホアンになるかもしれません。

公募に出したことあります?

ないです。地元の賞に出そうとしたことあるけど。でもその時も出さなかったし、書き上げなかったんですけど、どうですかね。

これから歴史書を書いていく研究者になるんですか? それとも小説家に?

どっちもやりたいっていうのが本音ですけどね。どっちかやる時はそっちに専念したほうがいいんでしょうけど。と言ってもこの本も破滅派と並行してやってたんですけどね。私にはこういう悩みを話せるような先輩がいないんで、どうなるのかな。今回の本には使わなかったネタも結構あるんで、次回作もやりたいんですけど、ただ実現するかはこれからの自分の活躍しだいですね。

著書を持ちポーズを取る髙井ホアン。「先輩がいない」だって? チキショウめ。多少の傲慢さは許してあげよう。みんな本を買ってくれ!

イベントの話の続き

ああ、そうだ。肝心のイベントの話がまだ途中だった。イベントの開始前、牧野楠葉と私は髙井ホアンの楽屋を訪ねた。終了時刻を確認するためである。牧野と私はイベント終了後にホアンと3人でどこかで飲みなおすつもりだった。編集者のハマザキと雑談をしていた彼は「9時半ごろには終わるでしょう」と言った。7時30分に開始したイベントの第1部は8時20分に終わり、10分間の休憩のあとに第2部へ。妥当な流れである。第1部のあいだ、私と牧野楠葉は「Juan、ちょっと緊張してるね」などといったメモを交換しあいながら彼の少々朴訥とした話に耳を傾けていた。

ところが、第2部の歴史の話題になると髙井ホアンの話しぶりが急転した。興に入った彼は饒舌な口調で天皇家の始祖であるイザナギ・イザナミから語りだし、奈良時代の道教の巨大なペニスと称徳天皇のガバガバの女性器の和合について微に入り細を穿って熱心に解説する。一応「現代までの不敬発言の歴史」という演題が掲げられていたものの、いつまで経っても20世紀にたどり着かない! ようやく近代以降に入っても小林多喜二や奥崎謙三の話が止まらない! あいちトリエンナーレまでは遥か遠くの道のりだった。

「Juan、すごく活気づいている! もう緊張してないみたい」と私は書いて牧野楠葉に見せた。

「でも時間を忘れて話しまくってるから、司会の人は困ってるかも」と牧野はメモで答えた。

そのとおり、舞台上の彼の机の上には小さな時計が載っていたが、その時計はいつの間にかわれわれ観客のほうを向いていた。司会を務める阿佐ヶ谷ロフトAの山崎尚哉はコアな話についていけなくなっているのか、とっくにただの首振り人形と化していた。観客席にいたエロ漫画家の山本夜羽音だけが熱心に話に割って入っていた。山本氏の言葉が援護射撃となり、髙井ホアンはいっそう流暢に語り続ける。何杯かのカクテルが入っていた私は水揚げされたブロブフィッシュのようにしだいに姿勢も思考も崩れていった。たぶん私はここで力尽きるのかもしれない……後進を見守りながら行き倒れになるのも悪くない一生だ……これからも頑張れ、ホアン。君の前途は無限に開かれている……そんなことが脳裏をよぎった私の耳には、奥崎謙三の著書の付録である皇族アイコラ写真が欲しかったのに著者が死んだせいでそれも叶わないと嘆く髙井ホアンの声がかすかに響いていた。

髙井ホアン(右)と司会の山崎尚哉(阿佐ヶ谷ロフトA、左)。卓上の時計の向きに注目!

イベント後のサイン会を含め、すべてが終わった時には11時近くになっていた。トークだけでもたっぷり3時間続いていた。私の脳は既に半分溶けかかっていたが、本の売り子のボランティアはどうにか務めおおせた。しかし他の観客たちは、彼の話に大いに刺激を受けた様子である。表現の自由を主張してツイッター等で活躍している盟友たちも髙井ホアンの応援に駆けつけ、サイン会が終わったあとも気炎を上げていた。

山本夜羽音も、もちろん髙井ホアンを高く評価する一人である。「ホアン君のすばらしいところはね、衝突することを恐れないこと。最近じゃ他者にぶつかっていくことや、異を唱えることはその内容に関係なく和を乱す不謹慎なことって思われてるけど本当はそうじゃないんだよ。そうやって誰も議論をしようとしないから、巧妙な奴だけが得をしている。アメリカみたいに反対の声をあげる者を守ってくれるシステムが日本にはないんだ。でも、そんな中でホアン君は自分のメッセージをまっすぐぶつけてくる。破滅派に出している小説を読んでみてもね、彼はエロをうまく使って自分の主張を力強く伝えているよ。やっぱり今の時代にそれができるのは彼が〈異邦人〉であることによるのだと思う」と彼は熱く語った。

山本夜羽音氏と髙井ホアン。この二人の話は尽きない。

結局、彼は愛すべき好青年

チャーハンやカニ玉など庶民的なメニューにもかかわらずなぜか4万円近くかかった中華料理店からの帰り道、大猫と私は先を歩く髙井ホアンの背中を眺めながら彼の人物評をしていた。年齢を重ねると、未来ある若者の人物評をするくらいしか楽しみがなくなるものである。その若者が自分たち以上に才能とチャンスに恵まれている場合、それは格別に楽しいものになる。

「今日話してみて、やっぱり彼はいい子だって実感しましたよ」と私は大猫に言った。

「本当にいい子。礼儀正しくて」と大猫も同意した。

「親のしつけがちゃんとしてるんでしょうね。彼はいろいろ言ってましたけど、親に愛されて育ったのは間違いないはずです。一人っ子だし」

「そうね。小学生にいじめられたって言っても、変にひねくれてないのは家族の存在があったからでしょう」

大猫の言葉に私もうなずいた。本人の希望によりインタビューからカットした部分の話を聞いた限りでは、それはどこにでもある温かい家庭であるようだった。髙井ホアン自身がそんな家庭を望んでいるかどうかは別にしても。

「確かにそうですね。創作で描く破滅的な内容とは対照的に本人はすごくちゃんとしているし、自分や周りの経験をうまく作家活動に昇華させていると思う」

とりとめもない言葉を散らす合間にも、夜は更けていく。月に1回、破滅派の編集会議で顔を合わせるだけ(しかも私の場合はインターネット経由である)の私たちの評価がどれほど的確なものであるかはわからない。あるいはただの的外れな思い込みに過ぎないのかもしれない。それでも私はJuan.Bあるいは髙井ホアンに対して愛すべき好青年という印象を抱いた。欠点や不器用な部分はもちろんあるし、順風満帆な人生というわけでもない。しかし彼は自分の考えを他者に伝える強い意志を持っている。その意志の強度に比べれば、彼の混血の出自は年齢や食べ物の好き嫌いといったあまたある特徴の一つに過ぎない。

もしあなたが彼についてもっとよく知りたければ、ぜひ彼の著書を読んでみることをお勧めしたい。彼の心はあなたに向かってストレートの剛速球で飛んでくるはずだ。