Twitterでは、外部のサイトと連携して自動的かつ定期的にツイートを行う「Bot」と呼ばれるユーザーが存在する(手動でもBotと称す事もある)。宣伝目的に使われるBotもあれば、Bot管理者の趣味について定期的に発信するBotもある。今回はそんなTwitterのBotの中から、戦前の文学者を扱ったBotを紹介したい。
基準は明治~昭和20年を主に活動した、と言う一点であり、よって戦後も活躍した作家が含まれる場合もある。また、石川啄木や正岡子規など歌人、俳人として有名な人物などは申し訳ないがここでは扱っていない。文豪の説明は大まかに留めているが、更に知りたい人は文豪の名前をクリックするとWikipediaの当該ページに繋がる様にしてあるので興味があれば参考にして頂きたい。。
教科書でもお馴染みの芥川龍之介。夏目漱石に評価された事からキャリアが始まり、多くの作品を執筆した。ほぼ全てが短編であり、中世の古典から題材をとった作品や児童向けに書かれた作品も多い。晩年においても文学のあり方について谷崎潤一郎と論争を行うなど精力的に活動を行ったが、秘書と心中未遂を起すなどした後、「僕の将来に対する唯ぼんやりした不安」により睡眠薬で自殺した。後に親友の菊池寛により文藝春秋社主催の新人文学賞に芥川龍之介の名が付けられ、今や日本で一番有名な純文学の賞となっている。
中学高校の教科書で必ず触れる作家だけあり、Botの数も多い。また、著作権の期限も切れている為か一作品ごとのBotも存在する。
芥川龍之介を総合的に扱っているBotの中で一番目立つのは@Akutagawa_R_Botだろう。
或日の暮方の事である。一人の下人が、羅生門の下で雨やみを待つてゐた。
— 芥川龍之介 (@Akutagawa_R_Bot) September 4, 2016
また、韓国語版のBot@Rynosuke_botも存在し多くのフォロワーを持つ。文学は海を越えるとも言えるし、あるいは語学の勉強に使われているのかも知れない。
学習院中等科から進み札幌農学校へ進学、キリスト教徒になり、新渡戸稲造の教授も受けた。アメリカの名門ハーバード大学にも進むが退学。1907年に帰国後、キリスト教から離れ社会主義やアナーキズムに近付き、一部の活動家に支援も行った。1916年に妻を亡くして以後本格的に小説を書き始める。1923年に人妻波多野秋子と心中した。魯迅に紹介された為中国でも有名なようである。
「恥を知れ」とか言う他からの罵言は自他関係の上においてのことで、真の「恥」は唯自己のみが知るのだ。私達は、少くとも私は、省みて「恥ぢなきもの」であることを求めて止まないのである。
— 有島武郎 (@arishima_bot) September 4, 2016
江戸時代の文学に影響を受けた独自の作風を持ち、幻想文学の先駆者とされる事もある。師の尾崎紅葉を崇拝し、作品にも示されている。重度の潔癖症とそれによる偏食の逸話が多い。
「肝心な事つて何です。」 -「陽炎座」
— 泉鏡花 (@IzumiKyoka) September 7, 2016
戦後は内田百閒と改名したため表記が違う事もあるが、ここでは戦前の名前を用いる。夏目漱石の門弟となり、校正を行った事もある。頑固な性格、鉄道ファン、借金魔、教え子らとの絆など逸話に事欠かず、自身の小説にも生かされている。内田が還暦を迎えた翌年から教え子たちは「摩阿陀会(まあだかい)」、早い話が「まだ死なないのか」と言うユーモラスな催しを開き毎年内田を祝っていた。内田の晩年の日々は黒澤明により彼が撮影した最後の映画として「まあだだよ」として1993年に映画化された。
彼を扱ったBotとして@Hyakken_Uchidaがある。
「君、貧乏と云うものを、そう手軽に考えてはいかん。貧乏と云うのは、立派な一つの身分だ。君如き輩が差し当たりのお金に窮したからと云って、すぐに貧乏人面をしようと云うのは、分を知らざるの甚だしいものだ」【贋作吾輩は猫である・第八】
— 内田百閒bot (@Hyakken_Uchida) March 15, 2016
当初は歌人として活躍する。大正期から昭和初期にかけて、当時の女性としては奔放な生活を送るが周囲からは理解されず、精神が衰弱し入院する事もあった。後に親鸞に影響を受け仏教に救いを求めるようになる。岡本一平と結婚し、後に世界的芸術家として有名になる息子・岡本太郎を産む。1936年より本格的に小説も書くようになるが、1939年に脳溢血で倒れ死去。
はだかの肌をするする撫でられるようなころ合いの酸味に、飯と、玉子のあまみがほろほろに交ったあじわいが丁度舌一ぱいに乗った具合――それをひとつ喰べて仕舞うと体を母に拠りつけたいほど、おいしさと、親しさが、ぬくめた香湯のように子供の身うちに湧いた。『鮨』
— 岡本かの子 (@oka_kanoko_bot) September 6, 2016
20余りの作品を書き分断に認められた矢先、肺結核により若くして死んだ作家。短い人生の中で周囲に大きな影響を与えた。「檸檬」に代表される心理的小説を書いており、また彼の死んだ日は「檸檬忌」と呼ばれる。
@kajii_motojirouは手動で運営されており、梶井基次郎に関するニュースも載せている。梶井の作品を全般的に扱っているBot@Motojiro_Kも存在する。
あんなに執拗かった憂鬱が、そんなものの一顆で紛らされる――或いは不審なことが、逆説的な本当であった。それにしても心という奴は何という不可思議な奴だろう。—『檸檬』
— 梶井基次郎bot (@Motojiro_K) September 7, 2016
日本文学の頂点と言われる人物であり、長い小説家生活の中で、純文学から神秘的な小説、少女向けの小説まで様々な作風を変幻自在に操り「奇術師」「文壇の総理大臣」と呼ばれる。戦前戦後を通して様々な文化活動にも携わっている。また戦時中は山岡荘八らと共に記者として特攻隊も取材しており感慨を受けている。戦前より様々な賞を受けているが、1968年に日本人として始めてノーベル文学賞を受賞し世界にその名を轟かせた。しかし1972年にガス自殺と言う最期を遂げた。長い時間無言で人を凝視する癖があり多くの人の思い出に残っている。
有名な文豪ではあるが芥川ほどBotは多くない。有名なのは@odoriko_botだろう。
色のない白は最も清らかであるとともに、最も多くの色を持っています。『美しい日本の私』
— 川端康成BOT (@odoriko_bot) August 13, 2016
小説家のみならず実業家としての顔も持ち、1923年に私費で「文藝春秋」を創刊し成功する。初の国政普通総選挙が行われた1928年の衆議院議員選挙に立候補するが落選した。1937年には東京市会議員に当選した。戦時中は積極的に国に迎合する態度を取り、後に批判される。戦後、公職追放の解けぬまま死去。アニメで有名な「フランダースの犬」を最初に翻訳し日本に紹介した人物でもある。
残念ながら彼の作品全般を扱ったBotは現時点では存在しないが、変り種のBotがあったので紹介する。@bakentetsugaku
馬券は尚お禅機の如し、容易に悟りがたし、ただ大損をせざるを以て、念とすべし。
— 菊池寛の我が馬券哲学bot (@bakentetsugaku) August 30, 2016
プロレタリア文学者の一人である。シベリア戦争に従軍した際の経験から小説を書き始める。プロレタリア文学の多くは都市の労働者を対象にしていたが黒島の作品は農村を扱っていた。1930年代からは肺病により故郷の小豆島に帰省、特高警察の監視下にあり作品を発表出来ないまま死去した。
軍隊特有な新しい言葉を覚えた。
ける、しゃしくに。──かっぱらうこと。
つる。──いじめること。
太鼓演習、──兵卒を二人向いあって立たせ、お互いに両手で相手の頬を、丁度太鼓を叩くように殴り合いをさせること。
そのほか、いろ/\あった。(入営前後)— 黒島伝治(非公式bot) (@denzibot) September 7, 2016
小泉八雲(パトリック・ラフカディオ・ハーン 1850~1904)
地中海のイギリス領レフカダ島(現在はギリシャ)で生まれる。厳密には日本の文学者と言えないかも知れないが、日本の文化を愛し、古典から様々な話を掘り起こしたと同時に諸外国に紹介した。彼の著作は太平洋戦争時、米軍により日本人の心理を知る資料として使用された。
テテ ポッポー、カカ ポッポー テテ ポッポー カカ ポッポー テテ……。西欧のハトは、こんな鳴き声を持っていない。日本の山鳩の声を初めて耳に聞いて、何かしら心に新しい感懐を覚えぬ人があったら、その人は、この幸福な国に住む資格のない人と言えよう。(『日本の庭』)
— 小泉八雲 (@koizumi_yakumo) May 11, 2011
残念ながら、私には日本に住む資格はないようである。
尾崎紅葉と並び称されて紅露時代と呼ばれる一時代を築いた文豪である。古典から題材を多く取った擬古典主義の代表的作家とされる。また古典の研究者としても活躍した。1937年の第一回文化勲章も受章した。
努力して努力する、それは真のよいものではない。『努力を忘れて努力する』それが真のよいものである。
— 幸田露伴bot (@Koda_Rohan) September 7, 2016
プロレタリア文学の代表として良く名が挙げられる人物であり、地下活動を余儀なくされていた共産党員でもあり、1932年からは潜伏活動を行っていたが、1933年2月にスパイに手引きされた特高警察に検挙され、拷問を受け殺害される。母親思いであり潜伏中も母親に仕送りを行ったと言う。多喜二生誕100周年の2003年頃から更なる再評価が進み、社会不満の高まりとも相成って「蟹工船ブーム」と言う言葉も生まれた。
多喜二の作品全般を扱ったBotは存在しないが、一番有名な作品である「蟹工船」のBot@Crabcanningboatが存在する。
「ん、もう一回だ!」そして、彼等は、立ち上った。――もう一度!
— 蟹工船 (@Crabcanningboat) September 5, 2016
仮名垣魯文に師事し、小説を書き始める。パロディ精神や社会批判溢れる作品を多く書いた。樋口一葉を高く評価した一人でもある。また初期の社会主義運動にも興味を示し、幸徳秋水らと交流した。肺結核により若くして死去。
https://twitter.com/ryokuu_bot/status/773493154452353025
坂口は戦前と戦後の活躍がはっきり分かれているとされるが、戦前として扱う。坂口は多くの作品を生み出したが、長編では未完の作品もある。その作風は広くサスペンスから古典まで多くの題材を扱った。48歳の若さで脳出血により死去した。
坂口安吾を扱ったBotは多いが、@ango_wordsの様に更新を止めているものもあり、現在目立つのは@ango_botだろうか。
本当に人の心を動かすものは、毒に当てられた奴、罰の当つた奴でなければ、書けないものだ。
— 坂口安吾 (@ango_bot) September 6, 2016
旧相馬中村藩主中村家の家令を勤めた名門志賀家に生まれる。学習院に入り順調に進み東京帝大にまで入るが、学生生活では放蕩を尽くし、中退する。内村鑑三に師事しキリスト教に感心をもった時期もあるが最終的に離れる。芥川龍之介に評価され「小説の神様」と称せられる事もあったが、同時に敵対者もあり、太宰治と論争した事もあった。消極的にではあるが戦争協力と見られる動きがあった事や、日本語を廃止しフランス語を公用語にせよと主張していた事もあり、議論の対象となっている。晩年は多くの文学全集の監修を行った。家に古い文学全集がある方は見てみると彼の名前を見つけられるかも知れない。
Botは存在したものの、手動であったらしく更新は止まっている。
https://twitter.com/naoya__shiga/status/398146069818646529
日本における自然主義文学の到達点と呼ばれる。「夜明け前」では維新後の新しい社会に適応できなかった父を題材にし、また、姪と近親相姦の関係にあるなど複雑な近辺の環境は作品にも影響を与えている。最晩年、東条英機による「戦陣訓」の文案作成に参画している。
嗚呼、人種の偏執といふことが無いものなら、『キシネフ』で殺される猶太人(ユダヤじん)もなからうし、西洋で言囃(いひはや)す黄禍の説もなからう。
— 島崎藤村bot (@toson_bot) September 4, 2016
下層社会での生活とそこからの革命の意思を描く小説「地上」など社会小説で一世を風靡し、「精神界の帝王」と自称した。しかし世界革命や宗教改革などと言った事を口走る姿を周囲は理解できず、上流階級の子女との恋愛スキャンダルが原因で出版社からも出入り禁止となり凋落、最後は統合失調症により精神病院に入院し栄養失調で死去した悲劇の作家である。
地上は今一せいに苦しんでゐる。その苦しみは人間の魂をつらねて見えざる大きい力と権威の下にあらしめずに、羊のやうに弱かつた人間の潜み有つ力を火焔のやうに燃えたたせてゐる。肝心なのはその力を認識し、その力の行手を見定め、その力を一身に体感して、その力の使命をみちびく人間でないか。
— 島田清次郎 (@ShimadaSeijiro) September 7, 2016
芥川龍之介と並び、若い世代に認知度が高いであろう人物。何度かの自殺未遂を含むその劇的な人生と最期は多くの人を引き付けている。彼が山崎富栄と玉川上水で心中した日は桜桃忌と呼ばれ、多くのファンが彼を悼む。また彼の作品には故郷である青森津軽が扱われており観光のタネにもなっている。多くの人はまず彼の作品(「走れメロス」など)を中学校の教科書で読んで知るのではないだろうか。
現代でも愛される作家だけあり、多くのBotが存在する。また、漫画「文豪ストレイドッグス」で重要な役割を与えられている為デフォルメされたBotも多い。一番フォロワーが多いのは@osamu_dazaiだろう。
人間は不幸のどん底につき落とされ、ころげ廻りながらも、 いつかしら一縷の希望の糸を手さぐりで捜し当てているものだ。【グッド・バイ】https://t.co/O2kGJsjP0R
— 太宰治bot (@osamu_dazai) September 7, 2016
尾崎紅葉の弟子としてキャリアが始まった。日露戦争時には従軍記者となり、森鴎外に会って心酔している。自然主義文学に目覚め、島崎藤村と共に自然主義の代表格となった。
渠は歩き出した。銃が重い、背嚢が重い、脚が重い、アルミニウム製の金椀が腰の剣に当たってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経をおびただしく刺戟するので、幾度かそれを直してみたが、どうしても鳴る、カタカタと鳴る。もう厭になってしまった。(「一兵卒」冒頭)
— 田山花袋bot (@tayamakatai_bot) September 4, 2016
病弱により、生前世に出た作品は少ないが、死後友人たちの手により遺作として多くの作品が公表された。戦前、日本が支配していたパラオにまで出向き教科書を編纂した事がある。国語教科書で彼の代表作「山月記」に触れた人も多いだろう。また、「文豪ストレイドッグス」の主人公に採用され有名になった。
生きものの生き方ほど面白いものは無い。(悟浄歎異)
— 中島敦bot (@ANakajima_bot) September 7, 2016
戦前を代表する大文豪であり、明治や大正の世相を背景にした名作をいくつも執筆し現代でも広く読まれている。正岡子規との交流、イギリス留学、朝日新聞社勤務などを通して生涯多くの人と交流し、多くの門下生を育てもした。生涯を通して作風は変化しており、晩年には病気もあり独特の心境になっていたという。また海外でも一定の評価を得ている。1984年から2007年まで千円札紙幣の顔であった。
夏目漱石のBotの数は多い。定期的に内容を切り替えるという画期的な運営をしているBot@natume_sousekiも存在する。
「そうですね」
— 夏目漱石bot「吾輩は猫である」 (@natume_souseki) September 6, 2016
夏目漱石を全般的に扱ったBotとしては他に@souseki_antholo、@soseki_も存在する。
西洋の開化(すなわち一般の開化)は内発的であって、日本の現代の開化は外発的である。(現代日本の開化)
— 夏目漱石選文bot (@souseki_antholo) September 7, 2016
鮎の干したのを頂戴。いくらでも食べるものが沢山いる。あれは水へ漬けて半日ばかりグズグズ煮るべきものと思う。如何。
— 夏目漱石bot (@soseki_) August 31, 2016
現在の五千円札に採用されている女性である。近代以降では初の職業女性作家とされる。晩年の一年半に「たけくらべ」に代表される数作を発表し、文壇から絶賛されるが肺結核で死去した。
樋口一葉のBotを名乗るユーザーは多いが、何故か多くは普通のユーザーである。その中で、有名ではないがBot@itiyoubotが存在した。ただし登録数は多くない。
あゝ嫌だ嫌だ嫌だ、何うしたなら人の聲も聞えない物の音もしない、靜かな、靜かな、自分の心も何もぼうつとして物思ひのない處へ行かれるであらう
— 樋口一葉bot (@itiyoubot) August 27, 2016
夏目漱石の門下生である。夏目漱石の長女筆子を巡る、同門の久米正雄との争いが有名になった。元々筆子は松岡に行為を持っていたため為、松岡は無事に筆子と結婚するが、当時世間は久米に同情的であった。後に久米と和解する。宗教を扱った小説を多く書いている。
もののしみを見ると世界地図を思ひ出す。考へて見るとそれも道理だ。世界の陸地といふものが実際一種のしみなのだから。
— 松岡譲bot (@Matsuoka_Yuzuru) September 7, 2016
岩手県出身の小説家、児童文学者、詩人。生前刊行した自著は詩集「春と修羅」と童話集「注文の多い料理店」の2冊であり、生前は周囲及び関係者にしかあまり知られていなかったが、辻潤や佐藤惣之助などが高く評価していた。日蓮宗と国粋主義の複合団体「国柱会」に入会し盛んに活動したが、実家は浄土真宗であり、父親と宗派を巡って対立する事もあった。死後広く知られるようになり、1970年代の筑摩書房による全集の編纂で研究も進んだ。近年は宮沢賢治の思想と全体主義の接近性を指摘する研究もある。
とても有名な童話作家であり、小学校の教科書などかなり早く触れる人も多いからかBotも多い。@meigen_kenji、@kenji_sakuhinは全般的に扱っている。
さあ、切符をしっかり持っておいで。お前はもう夢の鉄道の中でなしに 本当の世界の火やはげしい波の中を 大股にまっすぐあるいて行かなければいけない。天の川のなかでたった一つの ほんとうのその切符を 決しておまえはなくしてはいけない(『銀河鉄道の夜』より)
— 宮沢賢治名言bot (@meigen_kenji) September 4, 2016
「ぼく仕事があるんだ。」「今日は日曜じゃないか。」「いいえ、ぼくには日曜はないんだ。」(ポラーノの広場)
— 宮沢賢治bot (@kenji_sakuhin) September 6, 2016
いくらなんでもそれは困る。
また、「春と修羅」のBot@MiyazawaKenjiもフォロワー数が多く、親しまれている様子が伺える。Botにするとシュールさが溢れる場合もあるのでそのせいかもしれない。
エイト ガムマア イー スイツクス アルフア
— 宮沢賢治 (@MiyazawaKenji) September 7, 2016
Η Γ Ε 6 Α
幕末に生まれ、大正まで生きた大文豪。小説家のみならず官僚、軍医としても勤務しその評価は多岐にわたる。軍医としては「脚気を流行らせた」と言う否定的な評価もあるが議論は続いている。古典から題をとった物、自身のドイツ留学の経験を取り込んだ物など多くの作品を執筆した。文学論として理想主義を掲げ、写実主義を唱えた坪内逍遥と論争した事もあった。晩年は帝国美術院(現在の日本芸術院)に入り研究に没頭した。大の甘党であったり、軍医の経験から潔癖症になる一面もあった。
最早十一時をや過ぎけん、モハビツト、カルヽ街通ひの鐵道馬車の軌道も雪に埋もれ、ブランデンブルゲル門の畔の瓦斯燈は寂しき光を放ちたり。
— 森鴎外全小説bot (@Ougais) September 6, 2016
いかがだったろうか。あなたのお気に入りの作家のBotは存在しただろうか。
残念ながら永井荷風や河上肇、坪内逍遥など、掲載すべきBotが存在しない作家もあったが、それはこれからの発展に期待したい。
この記事が皆さんと文学との更なる出会いのきっかけになれば幸いである。
コメント Facebookコメントが利用できます