高円寺時代

小島一彦

エセー

5,118文字

破滅から遠く離れて20年。中年男の思い出日記。

というわけで、JR中央線高円寺駅に二十一年ぶりに降り立つこととなった。そのころ、再開発がかかるか何かで、駅前では反対署名を盛んにやっていたように憶えているが、バスロータリーや商店街の入り口の雰囲気は当時と全然変わっていない。あとで駅の方を振り返ると、巨大な駅ビルにメジャーなホテルが入っていた。確かに駅ビルは新しくできたようだが、高架下の桃太郎寿司も、マクドナルドやケンタッキーも昔のまま、古書店の都丸も健在だった。私が東京を引き払うとき、このお店にはアパートまで来てもらって、本棚ぎっしり三つ分の本を売ったのだが、結局、結婚資金の足しにもならなかった。二十一年たってそのときの本の売れ残りがもし並んでいたら、という後ろめたい期待感がなくはなかったのだが、幸い定休日。

 

高円寺は私にとっていわゆる今となってはなつかしいばかりの街かというと、むしろ、遠くはなれていることを幸いに、早く忘れてしまおうと思っているのに、ことあるごとに私を引き寄せようとするブラックホールのような街なのである。昨日、二十一年たってどうして急に降りてみようという気になったのか自分でもわからない。

 

まどろっこしい言い方はやめよう。二十数年前、二人の知り合いの死がそこであった。一人は京都の大学時代の友人、いや友人の奥さんといった方がいいかもしれない。大学の教授の一人娘だが、友人と在学中に結婚し、卒業後しばらくして司法試験に合格し、夫婦で東京に出てきていた。亭主の方は、卒業後大学院に進むわけでもなく、予備校で小論文を教えたりしながら、フリーの哲学者をしていた。もちろん収入はろくになかったと思う。そのうち、奥さんの名義であったと思うが、隣の南阿佐ヶ谷に一軒屋を買って、小田急沿線から引っ越してきた。生活力のまったくないお坊ちゃん哲学者の友人は何故か日曜大工の天才で、ぼろぼろの元タバコ屋の二階建てを大改造していた。それこそ最近のテレビ番組みたいだった。そして、改造が完了するころ、夫婦は人生に対する考え方の違いのためか、別居を始めることになった。一軒屋のローンは、もちろん奥さんが自分のワンルームマンションと一緒に払っていた。

 

当時、新高円寺の駅の近くにおいしいそば屋があって、私はよく利用していたのだが、ある日そのそば屋の前で奥さんと、Y子さんというのだが、ばったり出会い、昼食をご一緒しようということになった。弁護士になって一年か二年、亭主と別居して一ヶ月かそこら。Y子さんは、女手一つで子供でもつれて世を渡っている、あの中年キャリア女性たち特有のさばさばした男っぽさを三十前にしてすでに身につけていた。いや、もしかすると自己防衛のための見せ掛けの鷹揚さだったのかもしれない。

別居中の亭主と似たり寄ったりの生産性のない生活をしている私を、こいつには何を言ってももう、という諦めの気持ちで見てくれていた。亭主と同じように生活力もないが、亭主ほどの知能もない平凡な平凡すぎる学生くずれの私をみて、もしかすると、まだ見るからに才気をひらめかせた亭主の方がましと思っていたのかもしれない。実際、東京に来て始めのうち、私は週に三日くらいしか働いていなかった。何もせずにじっとしていればおなかもそう減らないしお金も使わないし。人に会わなければ風呂に入らなくてもかまわない。でも結局人一倍飲まずにはいられないたちだったものだから、そのうち週七日働き、週八日くらい飲み歩くようになっていた。バイタリティーというよりはやけくそだけだった。働いても所詮バイトの稼ぎ。じきにサラ金にも手は出すし、バイトの合間に競馬、競艇、そして酒、酒、酒。サラ金の女子事務員のさげすむような目つきを今でも憶えている。

 

「こないだね、はじめてノミ屋で馬券買ってね、どうってことなかったけど、これが続くと結構怖いことになりそうだよ。やっぱりやめといた方が無難だろうね」

「何言ってんのよ。ひどいわね。わたし、この間から、三里塚でつかまった○○派の若い子の接見続き。みんな勉強家で、マルクスやレーニンの差し入れの依頼ばっかり。普段は活動に忙しいから、拘置所に入って勉強するのかしら。ほんと、いい子たちばっかりよ」

 

それにくらべて今のあんたは、とはもう言う気もしなかったのだろう。Y子さんはもちろん左翼の救援ばかりやっていたわけではなく、大家から立ち退きを迫られた別の友人一家を助け、巨額の立ち退き料をせしめたり、やり手弁護士の一面も持ち合わせていたし、所属する弁護士事務所はマスコミ受けのヤマが得意だった。だが、それからしばらくして、彼女は風邪をこじらせ、一人暮らしのマンションで肺炎の熱にうなされながら、孤独のなかで亡くなった。あまりにもあっけない最期だった。ちなみにその後、各方面からの批判は私の友人である元亭主に集中することとなり、彼はいたたまれず、なんと別のやはりやり手の女性をどこからかつかまえて再婚し、フランスに逃走したまま帰ってこない。そして二〇〇七年十二月、昨日の新聞には亡きY子さんのお父さんである有名なフランス文学者の訃報が大きく掲載されていた。

 

さて、私は新高円寺付近から、再びJRの方に引き返して、商店街をそぞろ歩く。

 

あのころ、とにかく毎晩のように飲み歩いていて、金がなくてもつけで飲める店がたくさんあった。自然に得体の知れない飲み友達が集まるようになっていた。商店街を横に入ってしばらく行くと、一軒屋の文学ママがやってるスナックがあり、文学青年や文学中年たちと文学論を戦わせていた。そして、なんと、常連たちの話では、そのあとママは毎晩最期に残った客と店の中で寝ていたという。たぶん当時もう四十どころか五十も近かったと思うのだが。「久しぶりにゴダールの『勝手にしやがれ』見たけど、最後のベルモンドの『お前なんて最低だぜ(チュ・エ・デグラス)』の一言はあんまりよね」、とママ。当時の私は、うまく会話に参加できなかった。でもどうやら、男たちの一見知的で怪しげな会話は、誰が最後に残るかについての壮絶な駆け引きであったようだ。

 

結局、私がその店の常連になったころには、私より若い会計見習いの某素人画家が亭主気取りで毎晩最後まで居座っていたので、残念なことに私はママと二人でビーチマットの上でそれを楽しむことはなかった。それでも、その店にはとにかく、映画監督、放送作家、評論家、小説家、ただの不良、常習犯罪者といろんなのが集まっていてなかなか面白かった。ところが世の常で、そうこうするうちに、その店も閉められることになる。例の亭主気取りの素人画家が事故で亡くなった田舎の両親から多額の遺産を相続し、高級マンションで自分の母親ほどの年のママと同棲を始めたからだ。

一度、天気がよければ富士山すら見えるそのマンションに遊びに行ったときに、「前使ってたけどいらなくなった」と言って、相変わらず貧乏な私にお古のガスストーブを恵んでくれた。どうやら例の店で使われていたもののようだ。そこから出る赤外線は夜な夜なママとあわれな男たちの肌を照らしていたのだろう。

 

こうして、たまり場のなくなった私たちは、次の河岸を求めて、高円寺村のあちこちをさまよっていた。仲間の一人でMさんという教育映画を作っている人が、沖縄料理屋のママにほれ込んでいるという情報を得た。私たちは早速、その店を新たな拠点とすることに決めた。実は今でもかなり有名な店なのだが、ママには三人の子供がいた。ご主人はさっきの素人画家と違って、かなりちゃんとした絵描きだったそうだが、若くして病気で亡くなっている。長男はもう高校を出ていたと思うが、父親の血を一番濃く引いて、絵が上手なうえ利発で男前だった。よく店を手伝っていたが、私は絵の勉強をきちんとやらせるべきだと思って見ていたのを覚えている。真ん中は女の子で、近くの高校に通っていた。母親似の彫りの深い顔立ちに丸い目がとてもかわいらしかった。そして一番下は小学生の男の子。勉強なんて聞いたこともありませんという顔でアロハを着て商店街を闊歩していた。もう一度繰り返すが、かなり有名な店で、客層もそれなりによく、本来、私たちが毎晩来るようなところではなかった。それにもかかわらず、常識のない私たちはひたすら騒いだりからんだり迷惑をかけまくった。ママは一応、Mさんの友達だからということで大目に見てくれていたが、ときどき、どなられて追い返されたこともなかったわけではない。

 

そんなある日のことだ。まだ少し早い時間だったのか、他に客はだれもいなかった。私たちが暖簾をくぐると、学校帰りでまだ制服姿の娘さんを前に立たせて、ママが目に涙を浮かべながら説教している。

 

「あなたね、お母さんに言いたいことが言えなくて……、そんなあなたの気持ちは良くわかるわ。だから、お母さんだって何も言えない。だから、あなたは何をしてもいいけれど……、でも、○○とか△△みたいな子たちとは絶対につき合っちゃだめ。あなたにはわからないかもしれないけど、おかあさんは知ってる。あの子たちはまともな人間じゃないのよ」

 

そのころ、Mさんとママの関係も日々深まって来ていて、ママ自身の内面の葛藤もただ事ではなかったはずだ。おちついて子供を見る余裕なんかとてもなかっただろう。

また、高校生にもなる子供にとって、死んだ父親のよき理解者とはいえ、母の店の客を新しい父親として受け入れるなんてそう簡単なことではなかっただろう。それから、何ヶ月もたたないころ、娘は、ビルの九階のあるチンピラ男の部屋から飛び降りて死んだ。男の甘い言葉にだまされて家出して、転がり込んではみたものの、男の方は始めからだますつもりでつきあっている。適当にもて遊ばれたあとで裏切られ、絶望の果ての選択。娘が死んだ舗道の電柱には、しばらく高校の友達が赤い花束と一緒に娘が好きだったケンタッキーを供えたりしていた。野良犬や野良猫がやってきておいしそうに食べていく。やりきれない光景だった。

 

ところで、その店は今も健在で、駅の北側の商店街からすぐの、人がすれ違うのも難しそうな路地を入った昔と同じところにある。長男が後をついでいるのか、ママがまだがんばっているのか、確かに気にはなった。入ろうかどうしようかしばらく悩んだすえ、どうしても入ることができなかった。夕食は昼に酢豚定食を食べた後で中華続きだが、薄汚れた中華料理屋の「大陸」に入ることにした。まだ少し早い時間だったが、先客が二名ほど。サービスラーメン三00円、カツどん四五0円はすごい。他のメニューは普通より少し安めくらい。年寄りの店主が一人でやっているようだ。こういう店にはビールやチューハイは似合わない。たぶん、二十数年前、上述の事件の直後のころだと思う。私は、この店で豚天をつまみにコップになみなみと注がれた楊貴妃という四十度くらいの焼酎を立て続けにがぶ飲みしたことがあった。かなり回った。店のおばさんの「あんた、若いのに強いね」と言う声が、頭の後ろからかすかに聞こえた。その夜、それからどこをどう歩いてアパートまでたどり着いたのか、からだのあっちこっちに擦り傷ができていた。さて、この日の壁のメニューに楊貴妃はなかったが、かわりに白乾(パイカル)があったので注文すると、法律の改正かなにかで、もう生産してないらしい。このあいだとっておいた最後の一升びんがなくなったところとのこと。普通の老酒で焼きそばを食べることにした。開店五十年という老店主に、二十年ぶりに来たことを告げると、「憶えていてくださって本当にありがとうございます」と、本当にうれしそうにしてくれた。私はまたその笑顔がうれしくて、うれしくて、でも大事に記憶の片隅にとっておきたかったから、「ありがとう、ご馳走さん」と早々に退散した。本当は、ここでおぼれたかったのかもしれない。

 

さて、唐突だが、以上で私の二十数年ぶりの高円寺探索を終えることにする。帰りの新幹線の中で、早稲田の古本屋で買った白水Uブックスの『インド夜想曲』を読んだ。

 

「インドで失踪する人はたくさんいます。

インドはそのためにあるような国です。」

 

私はまだ当分インドには行くわけにいかないだろう。そのかわり、やたらと手紙が書きたくなった。

2009年9月12日公開

© 2009 小島一彦

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