「解毒」される文学  -その火を絶やさないために-

板宮リョウスケ

エセー

4,923文字

昨今の文学作品に対する不当な風当たりの強さを嘆きつつ、文学が今置かれている状況について真面目に論じてみました。

 昨年10月26日、朝日新聞朝刊に掲載された一通の投書が私に大きな衝撃を与えた。

 投書は「向田作品を批判的に読んでみて」と題された、中学校の国語教科書の定番ともいえる向田邦子の短編小説『字のないはがき』に関するものだった。この作品は戦時中、学童疎開をすることになった小さな妹とその家族がはがきのやり取りをする様子を姉が語るという内容で、女性の視点から書かれた戦争文学として非常に評価が高い作品である。

 投書の内容は作品内に登場する父の今では考えられないほど乱暴で前時代的な態度に「強い違和感」を覚えた、という至極平凡な意見だったのだが、ある文に私は恐怖に近い何かを感じた。それは「(作品内に出てくるような父親像は)昭和の時代には許されていたことかもしれませんが、令和の今、教科書に載せてまで子供たちに父親の姿としてみせる必要があるでしょうか」という一文だ。「必要があるでしょうか」、特にこの一言が心に重くのしかかり、私はその日の受験勉強が手につかなかった。

 そして大学生となった今、この投書と真剣に向き合ってみたところ、これは現在文学が置かれている状況をありありと示唆するものだとふと気が付いた。そこで、ここではこの一文がなぜ強烈なインパクトを持ち得るのか、また作品中の1つの要素の非難に固執する姿勢の背景には何があり、将来どのようなことを引き起こすかもしれないのかについて考察したいと思う。

 

1.暴力的な問いかけ

 

 私が恐怖に近いものを感じたのは、投書が投げかける問いが文学作品に対する暴力とも言えるものだったからだ。この暴力性については、投書の内容を広義の「批評」と捉えると実感しやすくなる。というのも、批評は何も専門家たちの専売特許ではなく私たちも何気なく行っていることで、投書などはその代表的なものだからだ。

 件の投書を批評の一種と捉えたうえで、私が問題だと思うのは投稿者の作品に対する姿勢である。先に引用したように投稿者は作品の内容が時代にそぐわないものだという理由で、『字のないはがき』における父親の描写の「必要性」を疑っている。他の多くの向田作品に見られるのと同様に、この作品では父親の描写が非常に重要な役割を果たしており、父親の存在なくしては話が成立しない。そのため、この問いかけは作品そのものの「必要性」に言及していると考えても過言ではないのだ。また、必要とされることは文学作品が生き残るために最も重要なことであるし、必要とされるものにはやはりそれだけの価値がある。つまり、投稿者は時代に即していないという理由だけで作品の価値に、その存在意義に疑義を呈したのだ。この問いかけはあまりに乱暴ではないだろうか。投書の題名や内容から考えて、投稿者は今日的な観点から「批判的に」作品に切り込みたかったのだろうが、これでは議論を断ち切り作品そのものを否定している点で単なる非難としか言いようがない。

 というのも、文芸批評家の北村紗衣によれば元来批評とは作品の「必要性」などを問うものではなく、「コミュニケーションを生み出し、作品の周りに共同体を作る道具」(批評の教室 P.16)だからだ。ここが誤解されがちなところなのだが、批評は専門家にとっても私たちのような一般読者にとっても対話、議論を創造するものであり、決して作品を非難、否定するためになされる行為ではない。このことはある批評理論の論文集の次のような一節にも明らかである。「本書の読者もまた”理論”を共通言語としつつ他者と交通する、開かれた”理論の共同体”に参加することになるのだ」(日本文学からの批評理論、P.iv)

 こうして本来批評のあるべき姿を考慮してみると、作品を取り巻く共同体の形成を拒絶しているという点でこの問いかけの暴力性が良く分かるだろう。

 

 さらに付け加えれば、「作品の解釈に間違いはない」といった言葉をよく耳にするが、文学作品の批評においては間違いや方向性のねじ曲がった解釈は存在する。代表的なのは、作品の設定を明らかに誤認したまま批評を展開することだが、それと同じくらい致命的であるのは、作品が描こうとしていることではなく描写や設定の細部に気を取られ非常に表面的な指摘をするだけで終わることだ。例えば、ある描写の社会的、または道徳的正しさを問うことに固執すると作品をおかしな方向性で読み進めてしまうといった具合である。こうならないために大切なのは『字のないはがき』における父親像のように、問題があると思われる描写がどのような意図で提示されているのかを「全体との関係や、描写のトーンから判断する」(批評の教室、P.33)ことである。

 そうしないと、投書のように細部に囚われた読み方をしてしまい、挙句の果てに作品を「必要のない」、価値のないものと断定しかねないのだ。

 作品を読み解く際には一つ一つの描写や表現から一定の距離を置かなければ、作品に不当な評価を下すことになるという批評の性質を考慮すると、投書の投稿者が投げかけた疑問がいかに暴力的で文学作品を読み解くうえでフェアなものではないかがより一層分かるだろう。

 

2.  これから文学は生きていけるのか

 

    次に、投書が暗示する現在文学が直面している状況と、そこから垣間見える将来について考えてみよう。

 私は前節で投稿者の提示した疑問について批評のあり方という観点から論じたが、最も重要な論点を避けてきた。それは投稿者の言う「子供たち」に関することである。投稿者としては、大事な子供たちにあんな前時代的な父親の姿を見せたくない、という想いでああした、ある種暴力的な意見を持つに至ったのだろう。しかし、果たしてそれは本当に子供たちのためになるのだろうか。投稿者の作品に対する態度に「安全主義(safetyism)」の観点から迫っていくと、ある大きな問題点が見えてくる。ちなみに安全主義とは強いストレスを与えるものや、不快感を抱かせるものを排除しようとする姿勢のことである。分かりやすい例としては過保護な親やテレビ番組に対する過剰なまでの表現規制の要求などがあり、昨今非常によく見られる傾向である。投書内容からして投稿者も安全主義的な考え方を持っており、作品中の父親像が子供に不快感を与えたり、人格形成に悪影響を及ぼすのを案じたと思われる。これは一見ごく普通の考えだと思えるかもしれないが、よく考えるとかなり異常であることが分かる。投稿者は子供の精神的な「健康」を守るために、『字のないはがき』が持つ戦争文学としての意義を抹殺しようとしているのだ。

 はじめに述べたようにこの作品はあまり多くはない女性作家による戦争文学であり、日本に生きる人間なら絶対に知っておくべき先の戦争の実情が克明に描かれている。またこの作品では学童疎開が取り上げられているため、年齢的に実感しやすい子供たちは大人が思う以上に衝撃をもって作品を受け止める。忘れてはいけない歴史を伝える役割を担っている点で『字のないはがき』が教科書に掲載されていることには計り知れない意義があるのだ。しかしながら投稿者は『字のないはがき』の文学的重要性や、同作品が教科書に掲載される意義よりも子供の精神的潔白さの方を重んじた。この倒錯した優先順位の付け方こそが安全主義の抱える異常性であり、安全主義の風潮が持つ根本的な矛盾を示唆している。

 ではその矛盾とはどのようなものか、例を挙げて考えてみよう。現在も続くウクライナ侵攻の初期に「ロシアに対して核爆弾を使ってみたらどうか」という趣旨の意見が各国のSNSで散見された。これに対し日本では、「被爆国である日本では嫌でも核兵器の恐ろしさを学校やテレビで知ることになるが、世界にはそのようなことを全く知らずに育った人々が一定数いるため、このような過激な意見が出るのだ」といった言説が多く見られた。この言説に証拠はなく吟味が必要なトピックではあるが、私はこれが間違いだとは思わない。何かを知らないことは時として最も危険で、愚かな行動に人間を駆り立てるからだ。この例は極端かもしれないが、この世に存在する不快で不安感を与えるものから目を背け続けた先には、無知な人々が過ちを繰り返すだけの歴史の無限ループが待っているのは確かだ。嫌なものから目を背けるどころか排除しようとする安全主義はこうした状況に陥る危険性を一層高める。つまり、安全主義の徹底の先には、真の安全ではなく過ちの繰り返しが待っているという点で、この姿勢は矛盾の上に成り立っているのである。

 件の投書では前時代的な価値観を子供に見せないようにする姿勢が見られるが、安全主義の矛盾を考慮に入れるとそのようなことを徹底すれば将来的には逆効果になると推測される。一部の文学作品には立派な反面教師としての役割があるのだから、それを利用する方がより良い選択ではなかろうか。

 ここまで考えると、投稿者の提起した疑問は子供のためになど全くなってはいないということが分かる。結局は安全主義に基づいた親のエゴの押し付けだったのかもしれない。そんな考えに基づいて文学を、ひいては芸術を槍玉に上げられては迷惑千万というものだ。

 

 話を戻そう。『字のないはがき』もそうであるように、文学作品は過去の出来事の貴重な資料となり得たり、人間存在を考える上での大きなヒントになったりするものが多い。文学作品は人として生きる私たちの道標となってくれるのだ。文学作品がこうした効用を発揮するためには、多少の不快な表現や差別的描写、気分を害するシーンを含むのはやむを得ないことと言える。なぜなら私たちは誰一人として「綺麗な」存在ではなく、その現実を抉るのが文学だからだ。また、文学作品はある種の不安をも読者に与える。三島由紀夫は文学作品の与える不安について、自身の小説論のなかでこんなことを述べている。「人々は、小説などというものがあるおかげで、それさえなければ無自覚に終わった筈の人生の秘密に対して目をひらかされ、しかもその秘密の根を否応なしに自分の中に発見させられ、無言の告白を強いられ、それだけですめばまだしも、告白を通じていつのまにか社会の外側の荒野へ引きずり出され、自分が今も忠誠を誓っている社会的法則と習俗からはみだしている自分の姿を直視させられ、決定的な『不安』を与えられる。」(小説読本、P.21-22)

 つまり読者は知る由もなかった人生の真実を突きつけられ、不安に打ち震えることになるのだ。確かにこうした不安や不快な表現は遠ざけたくなるものである。だが不安感や不快感を避けることが文学作品の持つ色々な意義に勝ることはありえない。避けたところで肝心の現実は変わらないし、避け続けた先には前述のように無知な人間が過ちを再生産する未来が待っているに過ぎないからだ。そんな無駄なことをするよりは、文学が暴き出す「綺麗」でない世界に立ち向かい、作品に生きる手助けをしてもらう方が余程良いだろう。

 安全主義のような潔癖症的な態度は昨今の流行とも言えるほどだ。今この瞬間にも、見たくないもの、考えたくないものはひたすら排除して「綺麗な」世界に生きられればそれでいいという考えの下に文学がねじ伏せられようとしている。政府による言論統制や検閲は打ち破られたり、抜け道が見つけ出されたりするものだが、こうした姿勢がもし大衆に広まってしまったら(ひょっとしたらもう手遅れかもしれないが)文学作品が生きる道は果たしてどこにあるのだろう。

 そんな中今の私たちにできることはただ一つ、安全主義をはねのけて、解毒された情報になど背を向けて、人間存在に肉薄した文学作品を読み継ぎ残していくことである。連綿と紡がれてきた文学の伝統を今絶やしてはいけない。負けずに読んで、語り合おう。

 将来は私たちの手にかかっている。

【板宮リョウスケ】

 

引用元:批評の教室 北村紗衣著、筑摩書房、2021年

日本文学からの批評理論  高木信 木村朗子 安藤徹 編、笠間書院、2014年

小説読本 三島由紀夫著、中央公論新社、2016年

2022年5月31日公開

© 2022 板宮リョウスケ

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