初秋。
先週からの冷え込みに身体が慣れてくれないのか、今日も今日とて起き抜けから気だるい。布団を頭まで引っ張り上げて昼過ぎまで寝ていたら段々と気分まで落ち込んできてこれまで自分が行った愚にもつかない悪行の数々を後悔したり正当化したり良い所を探そうとしたりして、結局生産性のなさに辟易してベッドから転がり落ち、パンとバナナを喰らって薬を飲んで熱を測ったら平熱だった。身体がだるいなんてことは原因のあるなしを問わず往々にして起こる状態であって、いちいち対応を考えていたらそれこそ人生の無駄遣い、自我縮小再生産の渦ということになって何一つメリットがない。それでも疾しい心を抱えながら仕事もせずに朝起きては窓を開け寒中の東京砂漠を駅へ向かうサラリーマンの姿を見下ろして「へっへっへ、この寒いのにご苦労さんだね」とかアル中時の中島らもみたいな感想をもらすことは能わず、そもそもサラリーマンが道行く時間に起きたことなどここ一月の間を顧みれば一度もなかった。キリ子は一日の半分を寝て過ごしている。もしかしたらライフスタイルは引きこもり小説家に合っているのかも知らん。あとは結果を出すだけだ。そうだ、その意気だ!
とか意気込んでみても身体のだるさは収まらないが熱はないし風邪薬も常備しているから医者などには足を向けず、文章を読む集中力がないため眠くもないのにベッドに取って返し、天井に映り行くミトコンドリアの群れを眺めていたら(涙の海を泳ぐ微生物って見えるよね?(※))手先足先から痺れが始まり一分もしない内に全身まで広がり胸の奥が電気で抉られたかと思うと手ひどい動悸に襲われ、慌てて姿勢を変えようとするも金縛りのごとき状態なため身体はついて来てくれない。冷たい汗だけが背中を伝う。すると頭上にいつかの夜中現れた真っ白な少女が浮かんでおり、時折透き通りながら無表情にキリ子を見下ろす。多分痺れや何やは彼女と繋がっている。ところで無表情はどの感情を内包しているのか考えさせられる。喜怒哀楽のいずれなりや?喜び楽しみを突き詰めて無表情になることは考え辛いのでやはり怒りか哀しみなのだろうか。透明少女のネガティブマインド。そんなことを考えていたら不意に涙が瞼の端から耳へと落ちて、少女はキリ子の魂魄を引き出すでもなく常世へ招き入れることもせず、誰にも気付かれぬ速度で消えていた。身体には痺れの跡と収まらぬ動悸のみが残された。彼女は亡霊なりや。
そこへ母上がやって来て昼食を勧めてくれたので、現実へ復帰するチャンスとばかりに飛びついて神経を隅々まで引き起こし、オーバーフロー気味の心臓を逆利用して爪の先端へと血を巡らせてやる。足の甲の血管が痛む。頑張ってみても身体は重いが少女の消えた今となってはただの体調不良である故問題なし。
母上が運んでくれた食事を取り上げようとすると指が脂汗で滑りスプーンを机の上へ取り落としてしまう。上半身は力なく背もたれに寄りかかる。それを見た母上は頬、額、手先に触れて、異常を感じたのか百十九番に電話、家の前まで救急車を呼びつけると脇の下に身体を入れて支えてくれ、半ば引きずるようにして摂氏一桁台の道路へ連れて行く。救急車の脇には現在進行形のストレッチャーが待ち構えておりベルトはキリ子の胴体を締め付けようと手ぐすねを引いている。するとその傲慢さに腹を立てたのか父上がフライパン一杯のアルコールを持って来てライターで火をつけ、ストレッチャーにぶちまける。ナイロン製のカバーをアルコールが満たし不定形の焚き火が現出する。救急隊員がそのことに気がつかないのか無理矢理ストレッチャーに放り投げられ、ぎゅうぎゅうにベルトを締めようとするもなかなか上手く行かず仕方なくただ乗せた状態のまま救急車の中へ。火だるまのキリ子を搭載すると後方ハッチが勢い良く閉まる。その刹那を縫って父上の投げ込んだ着火装置がキリ子の手に渡る。
救急車が発進するなり怒り狂ってパジャマの火を振り払い辺り構わず点火し始めるが、人手が足りないのか後部には一人の隊員も乗っておらず、車は何一つ問題はないとばかりに冬枯れの道を我が物顔で突き進む。乗用車を止める。信号を無視する。病院のない方角へ速度を上げる。そのうちに室内の炎が窓ガラスの間から漏れ出し、人の命を救う車はさながら火車の様相でどことも知れぬ約束の場所へ加速して行く。後部室内に先ほどの透明少女が現れ微笑む。キリ子は万事順風満帆に進んでいることを知って安心し、魂魄を身体から遊離させ少女の隣に座る。透けた右手に触れればプラズマが走る。
時刻は夕焼けから夕暮れに変わる頃か。師走ともなれば午後の二時から日が傾き始めるものだから、その位置をもって時間を確かめるには他の季節と違ったコツが必要になる。もうすぐ柚子湯の日、と少女が呟く。何も言えないまま頷きを返す。救急車は今や空と同じ色の炎に包まれ走っているのかどうかすら分からない。家々が形作る稜線は既に黒く、空の色と相まって世界の全てが燃え上がっているようにも見える。
※:飛蚊症。
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