避難所となった体育館のスピーカーからのくぐもった断続的な声に、人々は耳を傾けている。
「必ず……指示に従ってください……必ず……」
扉などは密閉され、外は見えない。あちこちに敷かれた段ボールの上で色とりどりの毛布や布団を身にまとい不安そうな顔をしている人々の中で、俺はただ周囲を見回していた。どこかに知り合いがいるかいないか、いたとしてそいつは俺に親しくしていたか、いろいろ考えていた。何か悲しいとか嫌とかそういう気持ちは湧かなかった。俺はいつも何かが半歩外れていた。最初に俺に「半歩外れている」といったのは小学校三年生頃の先生だった。それから確かに俺は半歩外れてきた。そして、日常よりも非日常の方に親しみを感じるようになった。俺は中学校の体育祭で、三年間続けて大縄跳びの回し手を任された時が一番楽しかった。あれはあの時期あの場所で確かに俺にしかできない仕事だった。逆に、高校を出て社会に出てからは、まったく良い時間がなかった。でも今はいい時間だ。さっき非日常という言葉を使ったが、もっと平たくいうと、周りが大変な時は、俺は大変じゃないのだ。
その時、また別の声が聞こえてきた。
「えーお知らせします……次は……丸町一丁目から三丁目までの方、居られましたら、窓口までお越し願います、必ず一家お揃いで……」
俺はそれを聞いて飛び上がり、小走りに窓口の方に向かった。体育館のステージ前の脇に、役所の公務員と警官らしき男がいて、何かの名簿を突き合わせているのだった。まばらな列に並び、少し進んで、俺の番が来る。見てみると、警官は知らなかったが、公務員の方は役所で見たことがある顔だった。前に生活保護を受けられないか相談に行ったときに何度か応対していた奴だ。警官がだみ声で聞いてくる。
「あー、お名前生年月日、丸町の、どちらですか。それと家族構成、あ、お一人?」
「片桐ルキオ、九十四年の八月十五日産まれ、丸町二丁目のイッコクハイツ102で、あ、です。あ、えっと、あの、親はいなくて」
俺が日本語を頭の中で組み立てながら話していると、役所の人間が目を細めながら警官に振り向き、勝手に話を進め始めた。
「この人あの、ちょっと知、要支援の人ですね」
「外国人?」
「いや日本国籍ですね」
「あっそう。一人ね、いって」
俺が元いた列の横を通って、体育館の片隅に戻っていたその時、遠くで連続的な銃声がした。体育館がしいんとして、それからもまた銃声が聞こえた。もう近くまで来ているようだった。俺の近くの家族連れの中で赤ん坊が泣き始めた。俺は赤ん坊がいることと、それが泣いていることに、なんだか生きてる心地の適当な安心感を覚えた。しかし周囲を見ると、見るからに迷惑そうな顔をしている人もいた。さっきまであんなにがやがやしていたのに。周囲には何人か知り合いを見たが、積極的に話す理由も無いので、関わらなかった。そもそも避難が遅かったので、外出先で巻き込まれて手遅れになった人も多かったようだ。平日も家にいてよかった。
しばらくして、体育館の前の方から順々に紙が回ってきた。避難所生活のしおりとでもいうような内容だった。いわく、出先機関に従いましょう。いわく、大きな声を出してはいけません。いわく、礼儀正しくしましょう。いわく……どんなときも日本人であることを忘れないようにしましょう。俺は周りをもう一度見た。俺の知る限り、いわゆる「日本人」ではない人の姿は見えなかった。そして俺。俺は日本人だったかな、と少し考えてみて、段々、いろいろな奴の顔が思い浮かんできた。どれも日本人の顔で、そしてどいつも俺をいじめたり馬鹿にしてきたやつだ。俺は時々自分の歩んできた道について考えるが、結論が出ないので、いつも途中でやめていた。しかし今日はすることが無いので時間がある。どこまでもどこまでもどこまでもどこまでも……。
その時、何か虫が鳴くような声が、スピーカーから流れた。
「……回線が途絶しているため、現在のデータを臨時駐屯地に送る必要がありますが、現在私たちはこの場を離れることができません。どなたか……」
どなたか。どなたが、どうしろというのか分からないが、遠くから見ても、その声を発している公務員は何か震えているようだし、警官は背中を向けて何か顔を伏せてるように見える。そして、体育館を埋め尽くすほどではない群衆の中で、どこからも声が上がらない。そして俺は、大縄跳びの回し手をやっていた頃のことを思い出した。俺は静かに立ち上がって、手を振った。公務員が駆け寄ってくるが、おそらく俺の顔がわかると、いったん立ち止まった。たぶん、俺のことが、いろいろな意味で嫌いなんだろう。でも、それとこれは関係ないだろう。荷物を運ぶぐらい、俺にもできる。俺はウーバーイーツの配達員も前やっていた。
「ああ、片桐さん……」
そして俺は、リュックに外付けのUSBやファイルを入れ、おもちゃのような無線機と心もとない地図をもたされ、裏口の前に立った。胡散臭そうな顔をした警官が、震える手でチェーンをはずし、ドアを静かに開けた。
「か、片桐さん。早く。いって。戻ってきたら無線で」
公務員の詰まった声が響く。男だってこれくらいか細い声を出せるんだな、と思いながら、俺はドアをもう少し開けて、外に出た。夕方で、別になんのことは無い風景が広がっていた。俺は体育館の外周を歩いてるうちに、あることを思い出した。あの公務員たちは名前や住所や家族構成のほかにもいろいろ書きこんでいた。俺には何か書いたのか? 俺は昔、通信簿の自由記載欄に、出来る限り穏当な「人格攻撃」が毎年書かれていたのを思い出した。「もうすこしおちつきましょう」「もっとひとのめをみてはなしましょう」「もっと」「もう」、もっと。俺は、誰もいないまま扉の空いた中学校の玄関に上がり込み、そこでファイルを取り出した。べたべた貼られた几帳面な付箋と格闘しながら、自分の情報を見る。マ、丸町、か行。カタギリルキオ。
「ハーフ、ガイジ 要注」
俺は学校の屋上というものにいつか上がってみたかったが閉鎖されていたので、三階の三年生の教室に上がり込んだ。中学校に入るのは久しぶりだ。黒板は消され、机もきれいに並んでいる。俺は、急に腹が立って、片隅の机を蹴とばした。そういえば、俺は小学校や中学校で、何度も喧嘩を見たし、したこともある。だが、机や椅子を持ち上げてガチギレしたことはなかった。そういうことをする奴は何度か見た。同級生に、アキバくんという、全く周囲から尊敬されず、いじられ、そして気に食わぬことがあるといきなり奇声を上げて椅子を振り上げる奴がいた。昔の俺には、いや、俺ですら彼の気持ちは分からなかった。今考えると、俺も彼のようにすべきだった。彼は「そういうことをする奴だ」というレッテルを張られ、そしてそのレッテルのために、最後の尊厳が守られた。俺はそれができなかったから、こんなだめな、どの地点からも半歩ずれ続けた人間になった。そして半歩ずれているというのは、AとB、正常と異常、光と闇、天国と地獄……どちらでもない曖昧な領域で苦しむということだ。俺に「普通の、日本が求める人間像からずれてるよ」と教師が決めてくれた時、俺は更に半歩ずれて、一歩、どころか十歩でも……!
黒板の上に掲示された「正しいことをしよう」と大書されたクラス方針らしき紙が見えた。俺はなんともいえないものが心にあふれて、教卓によじ登ると、それに手をかけてビリビリに破いた。正しいことをした。さらにそのあと、教卓を倒して、チョーク入れをひっくり返し、さらに机をいくつか蹴った。俺に関係ないクラスを荒らしていることは自覚していたが、実のところ、ここに帰ってくる奴はもう少ないだろう。そして俺は窓際に立った。夕焼けが見える。中学は高台に位置したので周りがよく見えて、一軒家や低層アパートだらけの町に、何か人間のなれの果てらしきものがウヨウヨしていた。公園のあたりで、自衛隊の装甲車がひっくり返り、なれの果てが群がっているらしかった。
町を歩くと、明らかになれの果ての手によらない死体があった。つまり、どさくさ紛れに殺された死体だ。それを少し蹴とばして道を開け、俺は町中を叫びまわり、そしてアイフォンから大音量でイタロディスコを流して、その人間のなれの果て達にアピールした。あちこちからよろよろと、ゆっくりと、正気を失って顔色の悪い集団が集まってくる。俺はそいつらと適度な距離を取って、校門に誘導した。俺が開けた校門から、なれの果てが順調に入っていく。そして、俺は無線で大声を上げた。
「お巡りさん! あの! ね! 自衛隊の人が一緒に来てくれました! 食べ物持ってきたって! 正面開けてください! 日本人でよかった! きいいいみいがあよおおお」
「自衛隊が来た!? 分かった! 今開ける! そうか! みなさん、自衛隊が来てくれました! もう大丈夫です」
体育館の中から、割れんばかりの万歳が聞こえた。万歳。何か人間らしい、安堵とかではなく、万歳。俺は校門からぞろぞろと入ってくるなれの果て達をアイフォンの懐中電灯で刺激し、体育館に誘導した。彼らは光や音で誘導できる。だが、それは人間も変わらない。心で考えず、見た目や勇ましい音楽で誘導され……。
俺は体育館にぞろぞろとなれの果てが入っていくのを、急いで飛び込んだ中学校の三階の窓から眺めた。おそらく警官による数発の銃声が響いたが、無意味そうだった。正面から何人か逃げ出そうとしている者も見えたが、案外予測できないなれの果ての動きに取り囲まれて、首や肩に噛みつかれ、いろいろな意味で貪られるのが見えた。いや、俺はなれの果てと呼ぶのはやめることにした。彼らも人間で、そして昔から何かあるたびに切り捨てられレッテルを張られてきた、その極まった形だ。町の方を見て、ふとあるものを見かけた。
よろよろと、明らかに他の同類よりも元気がない、まだ中学生ぐらいだった「それ」が、校門のあたりでまごついていた。すぐには分からなかったが少女らしかった。そして俺は、彼女の顔つきやジャージの色を見てすぐに思い至った。彼女は俺の同類なのだ。こちらの世界に俺がいて、あちらの世界に彼女がいる。ぎこちない動きと生気のない顔で俺を見て、口を歪めて何か唸る。
「う、やぁあ」
俺は何もかもがどうでもよくなり、両手をやや上に広げた。彼女が俺に食いかかってきた時、俺はいろいろなものが壊れてよかったと思った。大体のものは数十年で壊れるのに、日本や日本人という考えや、人間と文明という考えがずっとあり続けるといういかれた考えは納得できない。そして彼女の世界には、そんなものはないのがわかった。これからのせかいはもっとやさしくなるだろう。
黍ノ由 投稿者 | 2023-03-24 11:22
後半ぐいぐい引き込まれました。
『「そういうことをする奴だ」というレッテルを張られ、そしてそのレッテルのために、最後の尊厳が守られた』この一文すごく好きです。
ゾンビ自体が、ある意味死者と生者の間を宙ぶらりんにさまよう存在とも言えますが、そのゾンビ社会においてもさらにハミダシものは作られる。
「社会」という枠組みはどこまでも入れ子状に作られ、そのすべてに両極と宙ぶらりんが生まれるかぎり確かに救いは無さそうにも思えます。
「やさしいせかい」は一個人を世界のすべてにしてしまうことで得られるというニュアンスなのかなと受け取って読んだのですが、見当違いな理解だったらすみません。
大猫 投稿者 | 2023-03-25 14:04
揺るがぬ世界観に安堵しました。ぶっ壊すのが皇居や国会議事堂からグレードアップしていよいよ全世界になってしまった。ゾンビでも風船おじさんでも古い世界を壊すトリガーとなるのですね。
「周りが大変な時は、俺は大変じゃないのだ。」の一文、マイノリティーで生きるってそういうことなんですね。「ハーフ」「外人」「もっと」、さまざまなキーワードが一度内面で咀嚼され消化され、次の行動へ向かっていますね。粗っぽいようで丁寧に描写していると感じました。
これから始まるゾンビの世界に希望が見えます。
曾根崎十三 投稿者 | 2023-03-25 23:38
今回は本当に私好みの作品が多かった。このテーマでアンソロジー作れそう。買います。
すごく良かったです。好みにストライクでした。星5です。
ロマンスがいつ出てくるんだろうと思ってたら良い塩梅で出てきて良かったです。
いじめに疲れて動物を見たところで動物の世界にもいじめはあるし、治安の良い社会に逃げても結局ハミダシ者はどんな社会だろうとどこにでもいて、ハミダシ者からすればそれが希望でもあり絶望でもあるというか。それをゾンビで上手く表現しておられて良かったです。
諏訪靖彦 投稿者 | 2023-03-26 10:19
いつものホアン節、楽しく読ませてもらいました。「君が代」を聞いて安心する人々、最高に狂っている……とも言えないんですよね。片桐さんの逆噴射気持ちよかったです。
松尾模糊 編集者 | 2023-03-26 14:28
強気な語りとは裏腹に、実際の会話がちょっと控えめな感じがリアルでした。私小説風な役所ゾンビ設定も好印象で、最後の君が代を歌い始めるくだりにいつものフアン氏らしさもあり、かつ最後の少女へのまなざしが感動でした。
波野發作 投稿者 | 2023-03-27 00:07
実に文学的な復讐譚で、ゾンビ、パニックを上手く使ってきたなと思い、待って、ロマンスは?と思ったら最後にちゃんと回収していて、なんだろう、今更だけど、めっちゃ腕上げたなあと感嘆。
ヨゴロウザ 投稿者 | 2023-03-27 01:00
エリオットの『荒地』が二十世紀ヨーロッパの同時代的状況を見事に表現してると言われていながらも、作者いわく(額面通り受け取っていいかはわかりませんが)あれはどこまでの当人の個人的な問題を書いただけの詩だったというように、やはり自分の切実なテーマや問題を書いてこそ作品に力強さが生まれるのだろうなあ、とそんな事を思いました。松本竣介の絵もいいですね。
小林TKG 投稿者 | 2023-03-27 09:58
こいつは最高だああ!
平山夢明さんみたいで最高だあああ!
野狐禅の歌みたいで最高だああああ!
退会したユーザー ゲスト | 2023-03-27 19:53
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Fujiki 投稿者 | 2023-03-27 20:36
災害時に差別や偏見が可視化されるのは、関東大震災での朝鮮人虐殺を彷彿とさせる。どんなテーマでも自分に引き寄せてメッセージ性のある物語にできるのはさすが。
諏訪真 投稿者 | 2023-03-27 20:40
暴力でしか解決できないような話を書いといてアレですが、やるせねえですね。。