月の夜だった。
「しおり!」
部屋の空気が止まった。
「『しおり』って言った?今。ねえ、今しおりって言った?言ったよね」
誰。それ。誰とまちがえた?すみれは驚愕と不信を露にする。
要は否定を、否定の言葉だけを繰り返す。強調する。違う、違う。なにが違うんだ。青白い蛍光灯のもとでの、そんなやりとり。
「おれの中で、『しおり』と『すみれ』って、ごっちゃになる時あるんだ」
言い訳?だとしたら下手すぎて、馬鹿にしてるとさえ取れるんだけど。すみれは呆れが混ざり始めた声を出すが、
「ほんとに。ちっちゃいころから」
要は真顔だ。真剣に続ける。
「すみれの押し花の栞があって」
すみれの、押し花の、栞。すみれはそれを頭の中に描き出してみる。本に挟むあれね。しかし要のその言葉の趣旨はまったくもって分からない。だから、彼の薄い色の瞳を見てその先を促す。
「親戚のおばさんが、くれたんだ。妹に」
はあ。すみれは頭の中で頷く、そして問う。で?
「おれには、クローバーのやつだった」
そう言えば、要はなんか黄緑って感じがするな。草色のシャツをよく着ているからか。すみれは妙な部分で腑に落ちた。それから、母親の顔が浮かんだ。唐草のような刺繍の施された手提げと、漫画のような鮮やかな花のプリントがされた手提げ。ピアノのバッグ、どっちがいい、すみれちゃん。母親の細く垂れ下がった目じり。強いオーラが出てた。すみれは諦観の気持ちで指差した、緑の葉っぱを。すみれちゃんは粋ね、オトナのセンスね。母親の目じりはもっと下がった。
「そのクローバーをどうしたっての。要は本なんて読まないでしょ、漫画本にでも挟んで使った?」
すみれは意図した以上に冷たい声の出ている自分に気づくが、それに構いはしない。
「いや。使えなくなっちまった」
「なんで」
「分解しちゃったんだ。三枚におろした」
すみれは目を瞑った。その下ろす様をイメージするために。まずフィルムのようなものをぺらんとめくって、台紙に張り付いたクローバーを摘んでぺロっと剥がす。たぶんそれは、乾ききってる。かさかさなんだろう。匂いは?するのかな……想像に要の声がぽつりと被さる。
「食べられるかな、と思って」
子供らしいというか男児らしいというか。すみれはため息をついた。ああ、そう言えば、なんの話してたんだっけ。
「まずい、て思って、その瞬間、我に返って。手元の三枚下ろしを冷静に見た。かわいそうになった」
すみれは、まぶたの裏に幼い要の姿を思い浮かべた。想像の中の幼少の彼は、鉢の張った、肩幅の割りに大きめの頭をしていた。それは首にかけてきゅっと締まって、頼りない肩につながっている。らっきょう。すみれはその頭部からそれを連想する。そんな不安定なバランスの少年が、自らのバラした無残な栞の姿を見て、愕然としている。思わずふっと唇の両端を上げたすみれは、しかしそれを咳払いで誤魔化した。かろうじて。
「妹のスミレのやつは、けっこう活躍してたんだよ。それこそ漫画の中に挟まって」
要は、一時は部屋を飛び出さんばかりの勢いを見せたすみれの腰がクッションに沈められたのを認めたからなのか、柔和な表情を見せ、壁に背をもたせかける。
要よりさらに幼い妹に愛用されていた押し花の栞。すみれは、自分のマークだと言って、菫の花、のつもりのものを数多く描いていた幼き日を思い返した。
「そのスミレの栞を見るたび、なんか罪悪感みたいのが、せり上がってきてさ。インプットされた。スミレ⇔栞、てのが」
言い終わると要は胡坐をかいたまま背筋を伸ばし、すみれの灰色がかった目を見た。まっすぐに。
すみれが、やおら要の肩を押しその体を壁に押し付けた。そしてそのまま乗りかかり全身を使ってぐいぐい押す。
「なんだよ、おい」
笑みとの境界に近い悲鳴をあげる要。
「いたいいたいいたいいたい。背骨、ゴリゴリしてるって」
「押し花の気持ち、分かれええ」
カーテンの隙間から、部屋の明かりと、男女の叫びと、笑いが、漏れ出していた。
月も笑っていたか。
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