左手 (後編)
4
「あなた、お茶飲む?」
いつもどおりに農作業と昼食をすませて居間でくつろいでいると、サトエがこう言ってきた。
「ああ」
すでに立ち上がっている彼女に一瞬だけ顔を向け、すぐにテレビに視線を戻した。画面には、真夏の陽射しを浴びたピッチャーの真剣な顔がアップで映し出されていた。
ツーアウト二・三塁のピンチを見事三振で切り抜け、コマーシャルに切り替わったところで、タイミングよくサトエがお茶を盆にのせて運んできた。
「はい」
画面から目を離し、サトエがちゃぶ台に置いた湯飲みを手に取った。
すぐに飲める程度に温かいほうじ茶を一口すすった。開け放した窓からはセミの鳴き声しか流れてこない。離れたところで回っている扇風機の風を受けながら、ちゃぶ台に置いた湯飲みをながめた。
この誰かの両手を使って作られた湯飲みにも、すっかり慣れてしまった。男のものと思われる大きな両手が水をくむ時の形に組みあわされ、ウルシでしっかりと固められている。サトエの湯飲みは女性の手を使っているらしく、細くて小ぶりだった。湯飲みは飲みやすいように親指が切り取られ、一部を削って小さな飲み口が作られていた。
夏の太陽のように元気な応援が聞こえると、俺の目は再びテレビに戻った。向かいにいるサトエも、黙って画面を見つめている。
試合は中盤から崩れだし、俺とサトエがひいきにしているチームはあきれるほどの大差をつけられた。
「こりゃだめだ」
「そうねえ」
三人目のピッチャーが早々に交代したところで、俺は画面から目を離した。
底に残っていた一口分のほうじ茶を一気に飲み干してちゃぶ台に置くと、サトエはそれを盆にのせた。まだあるらしい自分の湯飲みは残して盆を持って行き、戻ってくるとテレビに目をやった。
俺は見る気をなくしたまま、画面をぼんやりと見ていた。コマーシャルが明けて、四人目のピッチャーが投じた初級はストライクだった。
「茂晴さん」
玄関の引き戸が開き、俺の名前が呼ばれた。
「おお、どうした」
玄関に立っていたのは、近所に住んでいる熊田浩二だった。首をまわして見ているだけのサトエを尻目に、俺は立ち上がって玄関に向かった。
「いや、ちょっと近くまできたもんだから、様子だけ」
浩二は歯の抜けた口を大きく広げて笑った。頭全体がほとんど禿げ上がり、所々にしみの浮き出た顔は、それでも愛嬌たっぷりだった。
「お前また昼間から飲んでんのか」
体からただようアルコールの香りをかぎながら、半ばとがめるように言った。
「さっきまで杉村の家でな。まだ二人いるぞ。松っちゃんに、義彦」
ここから数十メートル行った先にある杉村の家の方向を指差しながら、浩二はたれ目を細めて情けない笑い声をたてた。
「さっき抜けてきたんだけど、一緒に行くか?」
「いや、いい」
何かと理由をつけて人と飲みたがる杉村の顔を思い浮かべながら、俺は首を振った。今日は早めに農作業が終わったのだ。ゆっくり家で過ごしたかった。
「あがっていくか?」
「――いいのか。じゃあちょっとだけ」
浩二は雪駄をぬいで、いそいそと居間に入っていった。
「いらっしゃい。お茶でいいかしら」
サトエは浩二が向かいに座ると同時に席を立ち、湯飲みを片手にさっさと台所に向かった。普段より大きいスリッパの音が抗議の声にも聞こえた。
浩二とは三十年以上のつきあいだったが、サトエはいまだに彼のことが好きになれなかった。基本的に人当たりのいい性格で愛嬌もあるが、酒をはじめとした全般的にだらしないところが、彼女にとってどうしても受け入れられない部分らしい。たまに会っても、サトエは会話らしい会話をほとんどしなかった。
「八月も終わりなのに、まだまだ暑いねえ」
「ああ、今年は特に暑い。畑にもしょっちゅう水をやらないと、すぐに枯れちまう」
取りとめもない会話を交わしているところに、サトエが盆を持ってやってきた。盆の上には、茶菓子をのせた皿と湯飲みが二つずつあった。
「あ、これはどうも」
浩二が笑いながら頭を下げても、サトエはするかしないかの会釈を返しただけだった。
彼の前に湯飲みが置かれる時、サトエの左手が一瞬だけ添えられた。浩二の視線が湯飲みから左手に移ったように見えた――サトエの手首から先がない左手に。
だが、二人とも何も言わなかった。サトエは仕事を終えると、無言で台所に向かった。おそらく浩二が帰るまでは居間によりつかないだろう。
サトエが左手を畑に植えて以来、俺は誰かが彼女の失われた左手を見るたびに、その人が何か言わないかと気になっていた。
だが清美や悠介はもちろん、他の人間も何も言わなかった。
一ヶ月ほど前に畑に植えた左手は順調に育っていた。だが、最初に植えた彼女の左手は枯れてしまい、今は二代目が四株残っている。収穫する時は、彼女の手と全く同じ形をしたそれらから指だけを切り取っていく。天気がよければ、一週間ほどで指はきれいに生えそろった。サトエは切り取った指を唐揚げや煮物にした。味は鶏肉に似ていて、火を通せば骨ごと食べられた。
人間の両手で作られた湯飲みからおいしそうにほうじ茶を飲む浩二を、じっと見つめた。しかし、一向に変わったところはなかった。
湯飲みを置き、浩二は茶菓子の皿を手前に引き寄せた。皿は普通のガラス製で、全体が淡い緑の涼しげな色合いだった。
彼はその上にのっている目玉に、中指の骨で作った爪楊枝を深々と突き刺した。刺さった部分から、葛あんのようにトロリとした透明な液体がたれた。浩二は目玉を口に入れ、ゆっくりとかんだ。
俺は自分の皿にのっている目玉を見つめた。皿には二つの目玉がのっている。一つは血管のほとんど浮いていない健康的な白目を持った、普通の目玉だった。もう一つの方は白目の部分がいぶしたように茶色くなっていて、黒目の場所が真赤に染まっていた。
もう一度浩二の方を見ると、茶色い方の目玉を口に入れようとしているところだった。彼は先ほどと同じ速度で口を動かすと、ほうじ茶で流し込んでしまった。
「なんだ、食べないのか」
自分の分を食べきってしまうと、浩二が俺の皿を見ながら聞いてきた。すでに湯飲みまで空っぽになっていた。
「あ、いや」
俺はあわてて爪楊枝を持ち、白い方の目玉を半分に割った。目玉はゼリーのような弾力で、少し抵抗したあと、すっと切れた。中には先ほど見た透明な液体がつまっていた。それがあっという間に皿に広がると、きれいな真球だった目玉はしわくちゃになってつぶれてしまった。
「ああ、もったいねえ」
からかうような口調で浩二が言った。
「やるよ」
皿をさしだすと、浩二はすぐに手を伸ばしてきた。
「おお、すまんな。酒飲んだあとは甘いもんがほしくてな」
「だから病気になるんだ」
「もう慣れたよ」
笑いながら、浩二が茶色い目玉を食べるところをじっと見つめた。彼はさきほどと同じ調子でそれを口に運んだ。
『おい、よく見ろよ。それは人間の目玉だぞ。それにほら、この湯飲みだって人間の手で作られているじゃないか』
そう言ってやれば、浩二は叫びだすだろうか――彼は頭までアルコールにどっぷりとつかっているせいで、ただ気がついていないだけなのかもしれない。
『こいつは、自分の左手を鎌で切り落として畑に植えたんですよ。ええ、スペースが余っているからって。どういうしかけか、そこから新しい左手が生えてきてね、俺の家ではこいつの指を使った料理を食べているんですよ』
近所の人間にはこう言ってやるか。何か事故にでもあったと思って、遠慮しているのかもしれない。
人と会っている時――ことにサトエが一緒にいる時や、今みたいな状況にいると、こんな考えが頭をよぎる。だが、実際に行動に移す勇気はなかった。これまで平凡に保守的に暮らしてきたのだ。いまさらそれを変えるには経験を積みすぎ、同時にエネルギーが足りなさすぎた。
それに、指や目玉を食ったからといって――そして誰かから切り取ってきた太腿の枕で寝ているからといって――、今のところは何の問題もない。むしろ寝つきの面で言えばよくなったくらいだ。
「すまん、茶もらっていいか」
返事をする前に、浩二は手を伸ばしてきた。俺は何も言わずに彼がほうじ茶を飲む姿をながめていた。それは両手だけが見える透明人間に飲ませてもらっているようにも見えた。
うまそうにほうじ茶をすする浩二を見ているうちに、普段あまり突きつめないようにしているもう一つの考えが浮かんできた。それは、もしかして俺だけがこの状況をおかしいと思っているのでないか、ということだ。
現に悠介や清美はサトエが左手を失っていることに何の疑問も持っていなかったし――スッパリと断ち切られた傷口をなでさえしたのだ――、あの悪趣味極まりない鍋を見て、驚きの声一つもらさなかった。
近所の連中だってそうだ。いくら気を使うといっても、理由くらい聞く人間がいてもおかしくないはずだ。それがないってことは、連れ合いが左手――あるいは鼻だって右足だっていいのかもしれない――を失くすことなど聞くまでもないこと――つまり常識の範疇だということなのだろうか。
「どうしたんだ。黙りこくって」
浩二の声に、ハッと我に返った。
「いや何でもない」
「暑さでぼうっとしたんじゃないか」
ほがらかに笑う浩二につられて、笑ってしまった。
「おっとまだ残ってるな」
浩二は急に笑うのをやめ、爪楊枝を手に取った。彼は俺がつぶした目玉の皮をそれで器用にすくって食べた、
「これ、片づけちまった方がいいよな」
「おいどうしたんだ。そんなにあわてて」
湯飲みと皿を重ねた浩二を見て、どこか違和感を覚えた。普段から落ち着きのないやつだが、彼がこんなことをするのは初めてのことだ。
「いや、サトエさんに迷惑かけちゃいけないと思って」
気にするな、と言う前に、浩二は重ねた食器を持って立ち上がってしまった。居間を出て行こうとする浩二を黙って見送っていたが、彼の後ろ姿を見た時に、思わず口が開いた。
「お前、それ――」
浩二の動きがぴたりと止まった。振り向いた顔には、バツの悪そうな表情が浮かんでいる。
「ああ、こないだ破っちまって、女房にやってもらったんだ」
「――そうか」
まだ『それ』としか言っていないのに、浩二は俺の言いたいことがわかったようだ。そのことに気づいているのかどうか、浩二はいそいそと台所に向かった。
彼の足音を聞きながら、俺は驚きと同時にどこか安心感を覚えていた。
ズボンの尻の部分、右の太腿のつけ根あたりには、つぎがあてられていた。ワッペンに見えないこともないが、やはりあれは耳だったと思う。より正確には右耳だ。それを縫いつけていた白銀の糸は、白髪だろうか。確か浩二の嫁は、真っ白な髪を長く伸ばした髪形だったはずだ。
ほどなくして浩二が戻ってきた。微笑をたたえたようないつもの顔には、どこかほっとした感情が混じっているようにも見える。
俺は浩二とたわいもない雑談を交しながら、先ほど飲み込んだ質問のことを考えていた。『お前、それは嫁さんの耳か?』と聞いたら、こいつはどんな顔をするだろうか。
だが、結局聞くのはやめにした。まだ俺の勘違いという可能性もないわけではない。答えによっては、この小さな安心感を手放すことにもなりかねないのだ。今俺が感じている奇妙な連帯感は、ほどよいぬるま湯につかっているように心地よかった。浩二も同じことを感じているような気がした。
台所から水を流す音が聞こえる。おそらく食器を洗っているのだろう。楽しそうに話す浩二を見ながら、どうしてサトエはこいつのことが好きになれないのだろうと、あらためて不思議に思った。
5
「こんにちは」
「あら、どうも。おでかけ?」
ガレージの入り口でスライド式のシャッターを閉めていた動きを止め、サトエは頭を下げた。足早に近寄ってきたのは、隣に住む山口登美子さんだった。
「ええ、今からちょっと買物に――あら、どうもこんにちは」
外に出て車のドアを閉めたところで、タイミングよく登美子さんが声をかけてきた。
「ああ、これはどうも」
「今日も暑いですねえ」
「ええ、本当に」
型どおりの挨拶をすませると、隣から車のエンジン音が上がった。
やがて左の壁からシャープな形をした車の先が現れ、ガレージの前で止まった。ワインレッドの車体は太陽の光を受けて、炎のように鋭く輝いている。
「あ、どうもこんにちは」
窓ガラス下り、中から康雄くんが顔を出して会釈をした。パリッとしたカラーシャツからのぞく腕には年齢の跡が容赦なく刻みつけられているが、表情から発する雰囲気は定年前とは思えないほど若々しかった。
「それじゃあまた」
登美子さんが小さく頭を下げ、車の後ろを回って助手席に座った。薄い茶色に染めた髪の根元からは、白いものがのぞいていた。
「それじゃあ」
挨拶をする康雄くんと目が合った一瞬、彼の笑顔が少しだけ変わった。それは似たようなものを共有している者だけにわかる、かすかな変化だった。年を経る中で獲得してきた複雑な感情を込めた笑顔はすぐに隠され、窓ガラスが上がってしまうと完全に消えた。
サトエはにこにこと微笑みながら去っていく山口夫婦を見送り、彼らがいなくなると途中だった仕事――ガレージのシャッターを閉めていった。
俺はドアのロックを確認してから玄関に向かい、ドアに鍵を差し込んだ。さっきの康雄くんの笑顔が浮かび、それから登美子さんの顔を思い出した。表皮がなくなり、皮下組織を露出させた彼女の顔を。
登美子さんの顔は絵具で塗ったように綺麗なピンク色に染まり、右頬の中心部は筋繊維まで見えていた。飛び出した眼球は細かい動作まではっきりとわかり、なんだか精巧なロボットを見ているようだった。ただし彼女の唇だけは無事で、そこにはあの車のように濃い赤色の口紅をつけていた。登美子さんの表情にあわせて不可思議に動くピンク色の組織の中、ひときわ目立つ真赤な唇は妙に生々しかった。
昼食はそうめんと、昨日の夕食で残った野菜の煮物だった。煮物には野菜の他に、何本かの指となんだかよくわからない材料が混じっている。だが聞くことはしなかった。歯ごたえのあるクニュクニュとしたそれをニンジンと一緒にかみくだき、米を口にした。
そういえば、箸もいつの間にか変わったようだ。以前は黒い木箸だったのが、白くてなめらかな素材に変わっている。ほうじ茶を一口含み、佃煮を米の上にのせた。すっかり生活の一部になった味を、ゆっくりと咀嚼して飲み込んだ。
昼食後、いつもどおりテレビを見ていると、サトエが居間に入ってきた。ふすまを開ける音でそちらに目をやると、彼女は裁縫箱を取り出しているところだった。
「あなた、これちょっと持ってて」
再び画面に視線が行きかけていた俺を、サトエの声が引きとめた。
ちゃぶ台越しに座った彼女の右手には、畑に植えられているはずの――そして今も順調に育っている――左手が握られていた。
「――持ってるって……」
俺は中途半端に右手を伸ばした格好で聞いた。
「これを縫いつけるあいだ持っててほしいのよ。ほらこっちに来て」
サトエは左手を俺の手にのせ、裁縫箱を開けた。よく事情が飲み込めないまま、俺はのろのろと移動して彼女の横に座った。右手に収まった彼女の手は温かくも冷たくもなく、そのくせやけに柔らかかった。
針山に刺さっているたくさんの針――どうしてあんなに種類が必要なのか不思議でしかたがなかった――の中からすでに白い糸が通っているものを選び、サトエは糸の先を指先で器用にいじった。彼女が手を離すと、そこには糸が丸まってできた小さな玉ができていた。
続けて裁縫箱の引き出しから糸切りバサミを取り出した。それで左手の先――いつか悠介が「つるつるしてるねー」とはしゃいでいた部分の縁に小さな切込みをつけた。サトエはちゃぶ台にハサミを置いて、切込みを親指と人差し指でつまんだ。パリパリと皮膚をはがしているあいだも、サトエは表情を変えなかった。皮膚は切り口にそってきれいにはがれ、その下から骨や血管がのぞいた。畑で切り落とした時と同様、血は一滴も出なかった。
俺は持っているサトエの左手をもう一度見た。こちらの切り口に皮膚は張っておらず、彼女の手首に露出しているものと同じものが見えていた。
「これは畑からとってきたのか」
「そうよ。よく育ってたから」
ということはすでに根の方は取ってしまったようだ。いつそんなことをしたのだろう。別れて作業している時に抜いたのだろうが、全く気がつかなかった。
「ほら、ここにあわせて」
サトエが差しだした切り口に左手を当てるが、どう調節してもわずかにずれている気がした。
「いいわよ。それで」
落ち着いた声に小さく動かしていた手を止めた。今は右側に少しずれているように見える。
直そうかと思った矢先、サトエが針を突き刺した。素早く動かされた針は中をもぐって再び現れた。白かった糸が真赤に染まっていた。それを見た時、少しだけ動揺した。左手がさらにずれたように感じたが、サトエは何も言わずに針仕事を続けた。
「他に植えてた――」
「ちょっと、動くからしゃべらないで」
サトエの声にさえぎられ、俺はしぶしぶ口を閉じた。
柱にかけた時計の音が、テレビの音声よりも大きく聞こえる。セミの声すらも部屋の雰囲気にあわせて声量を落としたような気がした。
手首の裏の中心から始まった作業は俺から見て右回りに進み、ずれているように見える右側の部分まで縫いつけてしまった。不安が開き直りに近い安心に変わり、手の力を緩めたところでサトエがゆっくりと手をひっくり返した。
黙って向かいあっているのが落ち着かず、俺は顔だけをテレビの方に向けた。
テレビでは、さっきまで見ていた年配の俳優がどこかの田舎を訪れる旅番組が続いていた。
リュックを背負い、薄くなった髪を七・三に分けた俳優が、農作業をしていた老婆に話しかけた。カメラの方に振り向いて快活に受け答えをする老婆の右目は大きくえぐれ、ぽっかりと黒い空洞ができている。二人は適当に会話を交わし、画面は次の場面に移った。
俺は再びサトエの左手を見た。針はペースを落とすことなく動き続け、もう半分ほどに達している。
彼女の手は、切り取る前と全く変わっていなかった。やせた手には太い血管が浮き出ていて、縦横に走るしわが皮膚のたるみを強調していた。
新しく生えたはずのものが最初から古いということに、不可思議な面白さを感じた。だがその一方で、もし生えてきたのが彼女の若い頃の手だったら一体どう思っただろうか、という考えが浮かんだ。
右手の親指を少しだけ動かして、サトエの左手をそっとなでた。
「ちょっと、くすぐったいわ」
針を動かす手を止めずに、サトエは笑った。相変わらず冷たくも温かくもないのに、感覚はすでに戻っているようだ。
もう縫い残しは三分の一ほどしかなかった。
サトエの腕に若い女の手がついているところを想像してみたが、どうも上手くいかなかった。それぞれを独立して思い浮かべることができても、それをこうして縫い合わせる段階で、二つのイメージは煙になって消滅した。
左手が再びひっくり返された。最後の四分の一は、あっという間に終わってしまった。
「さあできた」
サトエの声と同時に、左手が急速に体温を取り戻した。熱でもあるんじゃないかと思ってしまうくらい、左手は温かかった。だが、これが彼女の左手の温度だったのかもしれない。ほんの少しだけ緊張しながら、そっと手を離した。左手はぴったりとあわさって、落ちなかった。
サトエは針の先で糸を三度巻き取った。そして俺を見て言った。
「ちょっと手伝ってもらえる?」
彼女の指示にしたがって俺が糸を引っ張り、針が縫い目の根本に達したところで、今度は糸を針に巻きつけた部分に人差し指をのせた。
「いい? 強めに押さえてて」
具合がわからず、不安になりながら人差し指を押しつけた。指先に脈の鼓動を感じた。サトエは人差し指の下から針を抜き取り、糸がピンと張るまで引っ張った。
「いいわよ。ありがと」
指を離すと、そこには小さな玉ができていた。手を縫いつける前にサトエが作ったものの隣に並んでいる。
サトエはハサミで余分な糸を切り、針とハサミを裁縫箱にしまった。右手で裁縫箱を持ち上げ、彼女は左手でふすまを開けた。縫ったばかりなのに、もう自由に使えるようだった。それを見ながら、サトエは左手がない時に家事をどうやっていたのだろうと、今さらながら気になった。だがそれも左手を縫いつけてしまったあとでは、確認のしようがなかった。
「――俺も、植えてみようか」
俺はつぶやくように言った。
「えっ?」
「いや、左手……」
それを聞いたサトエが小さく笑った。これまで数え切れないほど見てきた、彼女特有の落ち着いた笑顔だった。
「痛いわよ」
その言葉に思わず顔を上げた。彼女はこちらに背中を向けている。左手は開いたふすまに添えられていた。
「そうなのか?」
スッと音を立ててふすまが動いていく。
「――ええ、とてもね」
カタッと音を立てて、ふすまが閉まった。
――(了)
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