もう、1年経ってしまった。
あまりにも奥のことが身に起こり、消化不良を起こしていた私がようやく筆を執ってみようという心持になった。
SNSで激しい言葉を連ねて、避難をしていたが、文章を書きたいのならば、そんな風に書いてはならなかったのかもしれない。
どれほど、醜い現実も法で裁かれるものも美しさを見つけられる学問が文学のはずだった。
人が、誰かをずっと待ち続ける、部屋を整え、ピアノを買い曲を練習し、詩集をし恵部屋に飾るタペストリーを作り、花を買ってはずっと美しさが持つようにドライフラワーにして飾り、絵の具を買って絵をかき、料理に菓子と、私はずーっと待っていた。
現実は、夫と詐称した男の洗脳にかかり、部屋に盗聴器とカメラをつけられ監視されたうえ、家の近所の若い女といい中になりながら人をじろじろと見る下種な男だとしても、その話はもうこの場ではしない。
寂しくも、奇妙に幸福。何故なら尋ね人がいたからだ。そっと話しかけてくるその子。そのときは優しい子だった。監視されたうえに、女癖が悪く、嫉妬深い病的な男に軟禁状態でも、訪ねてれる子との話が私の心を平穏にしていた。不幸なのに幸せ、彼がついていてくれると(時々様子を見に来ていた)ぐっすりと眠れ私は安心していた。
そう思うと、とても悲しくなってくる。その男からうまく盗聴器の受信機を取り、どうにか私とつながっていた。物語の始まり、最後の結末をかけるかわからない。今日はここまで。
主の祈りが私の心を楽にする。
※この話がある種の物語であることはご理解ください。
"雨も木々もただ落ちつるばかり"へのコメント 0件