九月に入って、鶴橋の空気は変わり始めていた。統制の網はまだ緩まないが、市場を歩く進駐軍の顔ぶれに、以前ほどの熱がない。噂では、経済科学局の物価調査班は年内に縮小されるという。統制が終わろうとするとき、統制を出し抜くための知恵もまた、行き場を失う。誰もそれを言葉にはしないが、市場の商いの手つきに、かすかな弛緩が滲み始めていた。
露店の並びも、心なしか間延びして見えた。夏の間じゅう鎬を削っていた品の奪い合いが、九月に入ってから妙に穏やかになった。誰かが値を吊り上げれば誰かが値を崩す、その応酬の速度が落ちている。速度が落ちたのは、闇市そのものが疲れたからか、それとも、辻の紙が疲れたからか。市場の者たちは、後者を疑いながらも、疑っていることを互いに口にしなかった。口にすれば、疲れが本物になってしまう気がしたからである。
その日の夕方、巳代蔵の店先に、四人がまた集まった。
楠木伊佐夫は、控えを閉じてから久しく足が遠のいていたが、この日は珍しく自分から辻に出向いた。「鰊」の字が、この一月ばかり撥ねていないことに気づいたからである。撥ねが止まった意味を、彼はまだ言葉にできずにいた。控えを閉じた日から、彼は貝原の夢を見なくなっていた。夢に出てこなくなった死者を、恋しく思うべきか、安堵すべきか、彼自身にも判断がつかなかった。
高順伊は、圏点の並びを変える実験を、この夏じゅう続けてきた。実験の結果は芳しくない。並びを変えても、点はやはり同じ品に付く。それでも彼女は、実験そのものをやめる気にはなれなかった。夏の終わり、彼女は島の親戚から手紙を受け取っていた。三月の発砲事件このかた、島は総罷業とその弾圧で揺れ続け、海峡の渡り方そのものが以前より難しくなっているという知らせだった。渡る道が細るほど、渡ってきた者の背負う荷は重くなる。彼女はその重さを、圏点という形でこの半年見つめ続けてきたのだと、今さらのように思い当たった。
ジョージ・タムラは、局の縮小の噂を確かめに来ていた。もし調査班が本当になくなるのなら、この市場についての報告書は、彼が書く最後のものになるかもしれない。最後の報告書に、何を書き残すべきか、彼はまだ決めかねていた。数字だけを残すべきか、それとも、数字では残せなかったものについて、初めて言葉を割くべきか。
潟見周三は、七号の反響――空白の頁への反響を、巳代蔵に伝えに来ていた。読者からの投書が、予想外に多く届いていた。多くが、自分にも「済んでいない勘定」があると書いてよこした。潟見は、その投書の束を鞄に入れて持ち歩いていた。読み返すたび、自分が書かなかった記事の分だけ、読者が代わりに書いてくれたような気がして、複雑な満足と、それ以上に複雑な畏れを覚えた。
四人は、示し合わせたわけでもないのに、同じ日の同じ時刻に集まった。四月の晦日にもそうだったように。巳代蔵は湯呑みを四つ並べ、茶を淹れながら、何も訊かなかった。
「表が、動かんようになった」と楠木が口を開いた。「鰊の字が、もう跳ねてません」
「点も、動かんようになりました」と順伊が続けた。「三日上げて落ちる、いう周期が、この一月、崩れとります」
タムラは静かに言った。「局の統計と、市場の紙の乖離率も、横ばいです。これまでは必ず、どちらかが先に動いた。今は、両方とも止まっています」
潟見は投書の束を卓に置いた。「読者は、まだ動いとります。動かんのは紙だけです」
四人の報告が出揃ったとき、巳代蔵は長いこと黙っていた。それから、湯呑みを一つずつ、四人の前に置き直しながら、静かに言った。
「表が止まったんやない。表は、勘定を締めにかかっとるんや」
誰も、その意味を問い返さなかった。問い返せば、答えを聞いてしまう。聞いてしまえば、もう後戻りができない――巳代蔵の以前の忠告を、四人とも、今度こそ骨身に沁みて覚えていたからである。
沈黙の中、順伊が小さく口を開いた。「締める、いうのは、店仕舞いのことですか」
巳代蔵は首を振った。「店仕舞いやない。帳尻合わせる、いうことや。長いこと開けっぱなしにしとった帳面には、いつか帳尻合わせる日ぃが来る。開けっぱなしのままでは、次の帳面が始められへんのや」
次の帳面、という言葉に、四人はそれぞれ違う反応を示した。楠木は控えを握る手に力を込めた。順伊は懐の圏点の記録に触れた。タムラは手帖を開きかけて、閉じた。潟見は投書の束を、そっと鞄の奥へ押し込んだ。次の帳面が何を意味するのか、誰にも分からなかったが、それぞれの持つ紙束が、次の帳面の材料になるかもしれないという予感だけは、四人に共通していた。
夕暮れの光が、市場の焼けトタンの隙間から斜めに差し込み、四人の影を、店先の土間に長く伸ばした。影は四つ、それぞれ別の方向を向いていたが、伸びた先の一点で、かすかに重なり合っていた。誰も、それに気づいていなかった。
巳代蔵だけが、その重なりを見ていた。老人は湯呑みを片付けながら、四つの影が一点に集まる様を、長年見慣れた景色を眺めるような目で見た。生駒の婆さんたちの手に、いくつもの死者の字が降りたように、この市場にもまた、いくつもの影が一点に降りようとしている。婆さんの手は一人分の器であった。この辻の紙は、はたして何人分の器なのか。老人はその問いを、誰にも言わず、胸の内だけに沈めた。
夜、辻の換算表に、これまでにない一行が加わった。日付も、品目名も、比率もない。ただ一行、こう記されていた。
「次より、締めに入る」
――昭和二十二年九月附 換算表(欄外・単独記載)
次より、締めに入る
(品目表記なし・比率表記なし・全筆跡混在)
(本葉、いずれの控にも写しなし)
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