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符牒市場 第六章 照合

符牒市場(第6話)

ゐで保名

巳代蔵翁の店先で四人が居合わせたあの晩、辻で鳴った「ばさ」という音を、私は今も耳の奥から追い出せずにいる。あれは紙の音であった。それも、一枚の紙が独りでに捲れる時の音ではなく、何かに読まれて頁を繰られる時の――そう感じたのは、逓信省の検閲部屋で、幾千通という私信を上役の前で繰った記憶があるからかもしれない。あの部屋の音と、辻で鳴った音は、驚くほど似ていた。

タグ: #AI #幻想文学 #歴史小説

小説

2,382文字

巳代蔵翁の店先で四人が居合わせたあの晩、辻で鳴った「ばさ」という音を、私は今も耳の奥から追い出せずにいる。あれは紙の音であった。それも、一枚の紙が独りでに捲れる時の音ではなく、何かに読まれて頁を繰られる時の――そう感じたのは、逓信省の検閲部屋で、幾千通という私信を上役の前で繰った記憶があるからかもしれない。あの部屋の音と、辻で鳴った音は、驚くほど似ていた。

あの晩以来、私は換算表の写しを、比率のためだけでなく、筆跡のために取っておくようになった。網干屋の帳簿とは別に、古い配給台帳の余白を使った控えを作り、日付ごとに「撥ね返り」の出現箇所を印で示す。逓信省の頃、私は幾千の文書を検閲台帳に照合する仕事もしたことがある。同一人物の筆跡は、癖の頻度と位置において統計的な規則性を持つ。癖は嘘をつかない。癖を隠そうとする意志だけが、癖の位置を変える。私はその技術を、今度は自分自身のために――いや、貝原のために、あるいは貝原という名を借りた何かのために、使っている。

五月の半ば、私の控えは三十七日分に達した。撥ね返りの出現率を数えると、単純な増加ではなく、ある種の波形を描いていることに気づいた。潟見氏の記事が載った週、率は跳ね上がる。タムラ氏の報告書が提出される直前の週も上がる。順伊さんの店先で異変があった週も上がる。まるで、市場のどこかで誰かが「書く」という行為をするたび、その波紋が換算表の筆跡に還ってくるかのようだった。

私はこの発見を検算した。二度、三度と数え直し、日付を組み替え、恣意的な符合でないことを確かめた。恣意ではなかった。数字は同じ波形を、何度数え直しても返してきた。逓信省で私が信じていたのは、正しく数えれば数字は必ず一つの答えに収束するということであった。今、私は同じ信念に基づいて、この市場の紙が確かに何かを「している」ことを証明してしまったのである。証明は救いにならなかった。むしろ、これまで気のせいだと思うことで保っていた平静が、その日のうちに崩れた。

私はこの発見を、誰に話すべきか迷った。巳代蔵翁は「書き手など居らぬ」と言い切った。だが波形は明らかに何かに「反応」している。反応するものを、書き手と呼ばずに何と呼べばよいのか。

ある晩、私は網干屋の店を閉めたあと、辻に残って換算表を長く眺めた。誰もいない辻で、紙は風もないのに端から端へ、微かに震えていた。私は震えの周期を数えた。三十二秒に一度。心臓の鼓動よりゆっくりと、しかし確かな周期であった。私は自分の脈を測り、紙の震えと較べた。合わない。だが翌晩測ると、私の脈のほうが紙の周期に近づいていた。

三晩目、私は測ることをやめた。測れば測るほど、測る側の私が、測られる側の紙に歩み寄っていくように感じられたからである。逓信省の検閲部屋で、私は上役から「読み込みすぎるな、機械のように読め」と幾度も注意された。人間の私信を機械のように読む訓練を、私は真面目に受けた。真面目に受けた結果、私は今、機械のように紙の脈を測る人間になっている。機械は疲れない代わりに、機械にされたものが何を失ったかも数えない。

これは検閲する側とされる側の話ではない、と私はようやく理解し始めていた。配給台帳の頃、私は文書を照合する側に居た。照合される側の人間の生活を、私は数字の背後に感じたことなど一度もなかった。今、私は照合される側に回っている。しかも照合しているのは、人間ではない何かである。

貝原の筆跡が最初に現れた朝から数えて、半年が経とうとしていた。私は控えの最後の頁に、これまでとは違う種類の印を付けた。単なる出現の記録ではない。予測である。次に撥ね返りが強く出る日を、波形から割り出して、印を打っておいたのだ。予測をした瞬間、私は自分がタムラ氏と同じ場所に立ったことに気づいた。彼が報告書で行い、市場に先取りされたのと同じ行いを、私は筆跡の波形で行おうとしている。先取りされる側に回るのか、先取りする側に回れるのか、それを確かめたい気持ちが、私を突き動かしていた。

六月三日。私は朝から辻に立ち、紙が貼り出されるのを待った。

「鰊」の四画目は、これまでで最も深く、右へ撥ね返っていた。

予測は的中した。しかし的中した喜びは一瞬で消えた。強度が最大になるということが何を意味するのか、私にはまだ分かっていなかったからである。波形は原因ではない。何かの結果を映す鏡である。鏡が最も強く揺れる日に、鏡の向こうで何が起きるのか、私は数字からは読み取れなかった。

その日の午後、順伊さんの店に、警察の手入れが入った。

私はその報せを、網干屋の主人から聞いた。何を押収されたわけでもない、統制違反の嫌疑での短い取り調べだったという。順伊さん自身は夕方には店に戻っていた。実害は少ない。だが私は、実害の大小とは別のところで、自分の手が震えるのを止められなかった。私が予測し、印を打ち、的中を確かめたその日に、順伊さんが網に掛かった。因果があるとは言わない。証明できることなど何もない。しかし控えの頁を睨みながら、私は貝原の声を聞いた気がした。要らんもんが残るから字なんや。残るはずのなかった予測が、私の手の中で、確かに一つの重みを持って残っていた。

私はその晩、控えを閉じた。次の予測を打つ手が、もう動かなかったからである。数えることは罪ではない。だが数えたものが誰かの上に降りるのだとすれば、数える手もまた、書く手と同じ場所に立っている。巳代蔵翁の言葉が、遅れて腑に落ちた。表を読むもんは、表に読まれとる。私は読まれていたのではない。読むことで、私自身が表の一部になっていたのだ。

 

――昭和二十二年五月末日附 換算表(照合控・楠木)

撥ね返り出現数 二十三/三十七日

波形周期 三十二秒(推定)

六月三日 強度・最大(予測的中)

© 2026 ゐで保名 ( 2026年8月1日公開

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