八
彼は随分と甚だ心身に悪しきことを考えていた。その間戦場が変わることはなかった。機関銃を撃つこと・軍服から弾倉を取り出すことの二つが彼のこの戦場での任務であった。
織辺上等兵は題目の関連性からして、必然的に死について熟考せざるを得なかった。幾度も巡らせてきたこの思案に関して自己の最終的な見解が、喉元まで、もう惜しいところまで迫ってきていたから、彼は物凄く歯痒かった。彼は戦場での任務を、腕全体に憶えさせて、脳を存分に、死への見解へ辿り着かせようと孜め始めた。──将帥焉んぞ死んで名誉を得よと云うなり? 名誉とは、一体死ぬることに因って得るものなり乎? ──乃木将軍は好い実例だ。あの将軍は死に対して、畏怖と云うべきか、被支配と云うべきか、兎に角あの爺さんは極限まで死による名誉の会得をおれらに教育している。戦場じゃ条理なんて塵ほどにもないから、死して誉を得ることを良心としていやがる──されど、焉んぞ将帥死すことを望まんとせず? ──考えてみれば、これまで金沢軍曹やピストル兵長が肉弾となって死地へ飛び込むような行為を採ったことがあるだろうか? ──依然死が名誉というのは虚偽であって、吾儕帝国軍人を一切の抵抗を持たせずに速攻として、勝つがために扱うものなり乎! ──石見上等兵を非難する心算はないが彼にはそろそろこの現実に気づいて欲しいものだ──吁、我れ小さき、拙劣たる人間よ! この期に及んで決定的たる大帝軍国主義の事実に辿り着きおきつつ、就中その事実を打ち毀すための力を持ちたらねば! ──至極腹が立つ。乃木将軍以上に、それでどうした、という自身への心情に至極腹が立つのだ。それでもおれは、何か遣ってやろうという意志もない。おれはなるたけ、おれの保身を考慮して、且つ大帝軍国主義の悪辣たる発言をしようとしているのだ。おれの意思であり、意志であることに一切の変わりはないが、それがなんとも、薄弱なことに腹が立つのだ。……
× × ×
永沼中佐らの隊兵が、高架上の塵埃に途切れたとき、織辺上等兵らは銃撃と止めて、再び馬に跨って後を追うように続いた。その先登を織辺上等兵と石見上等兵とで孜めたのである。彼はこの戦場が終結を迎えたとき、それが如何様な結果だとて、己の脳に浮かぶ事案は変わりないだろうと自負していた。しかし、戦争が獰悪なものであり同時に悲惨なものであると十二分に理解はしていたが、それをハッキリと伝達するための機会がなければ信用はつかないのだと彼は覚った。織辺上等兵が、二〇三高地に着く直前までに考えていたのは終戦後の戦友たちとの餐のことである。己が、軍国主義に傷つき、二人の戦友を殺し、死と名誉の関係性に苛まれることなぞ、ほんの微塵も、感じることすら──抑も騎兵として馳走することも──予想もつかなかった。
織辺上等兵はどうしても、軍国主義へ決着をつけたかった。この思想を他の軍兵たちに説く訣でもないが亡き戦友へ向けたせめてもの花向けであった。
露軍が高架上の遠くから砲撃を始めたとき、織辺上等兵らは未だ永沼中佐に追いつけずにいた。
「春馬ァ!」
煤塵と砂煙とで黄色くなった橋の上で彼はひたすらに馬を駆った。予期せずして戦友と逸れた。今己が高架のどちらを向いているかすら明瞭としないほどの、露軍の策の内かは知らないが黄塵であった。彼は成る可く早めに戦友と合流しておきたかった。露軍の居処が、少なくとも右が左のどちらかが解らない以上砲台をぶち毀すことができないから、石見上等兵が自分より前に出たのを微かに見た慥かな記憶を蘇らせて、その記憶を頼りに、居るであろう方向へ向けて荒らげた咾を出したのである。出会す露兵はひたすらに斬った。すぐ傍で、露兵の斃れるような音がしたとき、織辺上等兵の眼にカーキィ色*の軍服が映り込んだ。かと思うと、その軍服を着込んだ男も同じく荒らげた咾を張った。
「兄弟!」彼は馬に乗っていた。
「一体どうなった、永沼中佐は?」
「解らない、黄塵が早く已めば好いのだが──」織辺上等兵は軍服の砂を払った。
「しかしこの塵の中じゃァ中佐もまるで麾下兵の居処が掴めんから……」
石見上等兵がそう呟いたとき、途端に黄色地に三本の赤線が──当に中佐の肩章が──眼に這入り込んできた。
「中佐」織辺上等兵は思わず叫んだ。彼は駆け寄って指示を仰ごうとした。
「中佐、ここに居りましたか。塵と煙とで何もハッキリとしませんが──隊は随分と散ったようですな」
「ああそうだ。しかし僖べ。大体は橋梁を渡っとるぞ」
「そいつは本統ですか」永沼中佐が指差すところを石見上等兵は確認した。
「今し方歩兵たちが橋梁の方へ駆け込んでいるのを見た。露兵もまあ参っているようだから馬を飛ばして……」言下、橋の崩れるような音がした。
「──行こう兄弟。少しでも露兵を減らさなくっちゃならねえ」
二人は露騎兵を斬って馬を奪って飛ばした。橋梁は惜しくも崩れてはいなかったが、それとて馬の這入り易いことは奇遇であった。
織辺上等兵は不思議と、乃木将軍を除こうという気にはならなかった。それを彼は今思った。彼はその理由を解明するよりも先に、どうしてそのような思案が降りかかってきたのか、関連する事案を探そうと必死であった。しかしどうやら、この戦争そのものが乃木将軍への関連性が極めて高いことに気が付いた。
彼は別段、乃木将軍ら死と名誉を紐付ける輩を絶対的な悪と看做して、それに反抗する自分らを絶対的な善としている訣ではない。ただ、徳を以て得たであろう人望をそのような悪行に用いることが赦せないだけである。つまりは、乃木将軍の思想そのものが悪であって、それに反抗する自分らの思想を善としているのである。死して国に恩報いるという行為が本統に国のために必要なものであろうか? 獰悪な戦争のためには同じく獰悪に染まって臨まねばならぬのか。獰悪と対峙するのならば立派な善人として臨まねばなるまい。しかしそうと主張すれば可成らず、彼らは「善人では戦には勝てぬ」と言い張るだろう。戦争そのものが死と同類であるのは当然として、しかしおれら軍人は死ぬために戦場へと脚を運ぶのではあるまい。死して名誉を得、その誉は一体どこへ行くのだ? 死して名誉を成し遂げた偉人は山ほどいる。無論乃木将軍がここまでの人望を抱くようになっては、彼の思想に沿って死んだ偉人もいることだろう。しかし人間の本質は文化的人生を歩むことによって成り立つ。殉死を赫かせた赤穂浪士*や新政府弾圧を受けた会津藩士*といった忠臣の死と名誉は構わない。忠義の死と獰悪の中で強いられた死とはものが違う。乃木将軍は国家の忠臣かもしれないが大石内蔵助*なぞは名誉のために死んだと云えるだろうか? 殉死と戦死の関連性は粒程もないだろう。して見れば将軍の思想はやはり勝つための強じ付けになるだろう。
案の定橋梁の奥には五、六台ほどの砲台が擱かれていた。挺身隊は死に物狂いでこの砲撃を止めなければならなかった。第三軍の砲撃が、偶然弾んだとは云えここまで届いたということは此方から向こうへ撃つことは造作もない。
夜中まで格闘戦が延びた。徒歩での歩兵同士が、騎馬での搏兵戦*へと変わったのである。彼らは風を突いて街道を駆った。刀剣の毀れた者は屍人の軍刀を引った繰って宵闇で、敵味方の判別もままならない中彼らは振るい続けた。
織辺上等兵は左手に手綱を握り右手で軍刀を振るいながら戦場を駆け巡っていた。彼は自身のこの状況を、前漢の李陵*に投影していた。戎衣に己と敵兵との鮮血を滲ませ勇将を喪い帝に見える面目を失くした古の将軍が最後に戈を振るった、北狄匈奴*との浚稽山での夜中戦*が、今の彼の在る状況と殆んど合致していたのである。露騎兵を斬る度に、カーキィ色の軍服に散る黒々しい臙脂の血が、彼の中の、戦友を亡くした不吉の塊に影響した。嗚咽が出た。忌々しい、追憶が甦った。晩冬の月は已に落ちた。長い夜が終わり始めた。同時に仄かに橋梁の欄干を、寒しい陽光が射し始めてもいた。彼らは兎も角も日の昇る前に──馬と人との荒息に因って退いている砂煙の晴れる前に──露軍の砲台を打ち毀さなければならなかった。
燻った鉛球──織辺上等兵は既視感を覚えた。途端に前方にいた露兵数百人が高く舞い上がった。砂煙が晴れた。
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