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旅順 六

旅順(第6話)

鷹埜狩月

一人の兵卒を取り巻く玉砕と名誉、戦友の死。戦争という獰悪な存在に漬け込んだ帝国主義に抗い続ける一人の兵卒を取り巻く苦悩と葛藤を描いた大作。

※第五十八回新潮新人賞

小説

3,349文字

     六

 

 奉天の曠野こうやに臨む幕営の前に、棕櫚縄しゅろなわ*で縛ばくを享うけた二人の歩哨ほしょうが連坐れんざして居る。織辺上等兵と石見上等兵は、その歩哨の後ろに軍刀を持って佇たたずんでいた。
「──大莫迦野郎ばかやろう!」
 織辺上等兵は遣やる瀬せ無い気持ちで吐き捨てた。彼の軍刀を持つ手は撼ふるえていた。歩哨たちは項垂うなだれて、何も云う気配が見えなかった。織辺上等兵は、未だに眼前の事実を信じることができなかった。
 李への訊問じんもんが済んだ織辺上等兵は(彼が何か有効な)、金沢軍曹に赦ゆるしを得て彼を斬った。最期まで彼は不敵な笑みを消さなかった。彼の血は、冬の曇天下の所為せいか黒ずんで見えた。
 歩兵──項垂れていた二人の歩兵は──佐藤庫之助くらのすけ一等兵と野村昌三九しょうさく一等兵であった。幕営で待っていた秋山少将は彼らをすぐに捕縛して、こうして連坐させ織辺上等兵らに斬ることを命じたのだ。それが、今から十分前のことである。織辺上等兵は、完く訣わけが解らなかった。彼は憤然ふんぜんと秋山少将へ訊ねた。少将は、暫しばし黙りこくっていたのだが、卓に両掌りょうてを打ちつけた織辺上等兵の気合いに折れて、彼らが囚とらえられてから今に至るまでの詳細を話した。
 囚えた後に、佐藤一等兵の幕営の抽斗ひきだしから手記が出てきたらしい。毎晩欠かさず書き留めていたようで、それは士官学校しかんがっこう時代から記されていた。少将はその手記を、織辺上等兵に渡した。年季ねんきのある古めかしい手記には、一定の温もりが保たれていた。……
「──明治三十七年二月十日。奉天ヨリ妣ハハノ尺牘セキトク有リ。サレド妣ノ手蹟テニ非ズ、蓋ケダシ露ノ兵ト思エリ。妣曰ク露ノ兵ニ囚エラレタリキ。我レガ扶桑フソウノ兵卒ト有レバ、支那シナノ軍ハ即刻我ガ支那家ニ押シ入ッテ荒セリ。妣ハ支那兵ニ因ヨッテ露ノ幕営ニヤラレキ。我レ、伯瑜ハクユト共ニ、明日奉天ヨリ支那ノ李衛リエイニ随シタガッテ、露軍ノ幕営へ向カントス。──」
 織辺上等兵はこの手記を、涙の溢れんばかりに、幾度いくたびも読み返した。戦友の、何とも息苦しい葛藤の詰まったこの手記から、眼を背けることが出来なかった。己の妣を敵国軍に攫さらわれて、国を裏切るか、妣を無惨にも手放すかという、忌むべき選択を迫った露軍を彼は大いに恨んだ。
 軍刀を構えた織辺上等兵には、当然悲嘆ひたん哀傷あいしょうの感が在ったのだが、しかしいざ斬るとなると、ふと彼の頭顱あたまの中に、この二人が日帝を裏切って露軍に従ついたのだという怨恨のようなものが芽生えてきた。妣親が敵軍に囚えられたとあれば、慥たしかに心が揺らぐだろうが、彼らは一度でも上官らにこの状況を説いただろうか? 秋山少将からそのような話は少しも耳にしていない。となると、この二人を斬ることに何ら異はない。ましてや抵抗を生むことなども、ない。そう思うと、彼の手の撼えは徐々に消え失せていった。が、再び項垂れた戦友の素形すがたを眼にすると、やはり葛藤に雑じった悲哀の咾こえが洩もれ始めた。石見上等兵は、軍刀を構えもせずに、事態の困惑と戦友に対する猜疑心さいぎしんとで硬直こうちょく呆然ぼうぜんとしていた。金沢軍曹やピストル兵長、そして幾人いくたりかの騎兵までもが、二人が今から為なすことを偉業とするかのように、未だか未だかと、時折欠伸あくびをしながら始終鑑賞していた(口惜くやしいことに、金沢軍曹はこの二人の歩哨の行動を、単に露軍へ裏切ったとだけ説明したのである)。秋山少将は、織辺上等兵の行動から心情を悟ったのか、重々しい表情で眺めていた。織辺上等兵は金沢軍曹らに憎悪を燃やしたかったのだが、その方へ心情を向けている遑いとまなどなかった。


 この日、二人の歩兵が、枯れた曠野の上で、褪あせた血を散らして死んだ。

 

     ×     ×     ×

 

 曠野は、ただ暴力的な風采ふうさいをして広がっていた。
「──これでもお前は、死ぬことが名誉だと云えるかい?」
「愚問だな。しかし彼らの死は、間違いなく、名誉だったろうに……」
 石見上等兵はいつもの飄々とした表情を、些っとも見せなかった。戦友たちの死が、二人をまるきり変えて了ったのだった。
「意固地野郎いこじやろうめ」織辺上等兵は冷笑した。しかしそれは、妙に煖あたたまったものであった。
「ただ──」
 石見上等兵は徐ろに口を開いた。
「将軍も勿体もったいはもう癪しゃくだぜ」
「──好い決心だ」
 織辺上等兵は微笑した。

 

     ×     ×     ×

 

 夙つとに、彼我ひがの砲弾が奉天の曠野を巡った。織辺上等兵と石見上等兵の二人は、折角幕営で空あき壜びんに醴あまざけを注いで酌をとっていたのだが、砲音に吃驚びっくりして天幕を飛び出してみれば、已すでに軍曹とピストル兵長が騎卒共々喚よび起こして列べている最中だった。
「厭いやな時分におっ始めやがるな」織辺上等兵は愚痴ぐちを零こぼした。
「──何だったかな、今のおれの心持こころもち云々うんぬんを弁じたいんだが、こう、彿語*であったんだが……アで始まったんだ。兄弟、もしや知ってるか」
「アンニュイ*、じゃなかったか。彿語なんだろう。こうっと、懈怠けだるいときに用いるやつだった気がするぜ」
「そうだ、そのアンニュイに──この戦争じゃ士卒しそつは皆んなアンニュイに塗れ了ちまってる。おれらがいくら日帝だ何だと威張いばったって露国はデケえんだ。騎馬なんて、尚更なおさらだ。そんな戦じゃ皆んなああなる。もう年紀としも代わって、徒いたずらに士も喪うしなって──それでも将官らの云う日本魂やまとだましいを保つのさ。それも、已やむを得ずにだぜ。将軍の称賛を享うけれるのなら背に腹は代えられぬからな。将軍の御前ごぜんとなれば帝国軍人を演じ遣やがるがいざどっか行っ了ちまえば土壁つちかべに倚よって喋舌しゃべってなんとやら。加えて当の将軍方は狂人きょうじん愚人ぐじんのそれだ。支那しなとの戦は巧うまくいったが今度はそうは行かないぜ。そろそろ連中も辟易へきえきする頃になってきた」
「成なる可べく、早くそうなって欲しかったんだがな」
 織辺上等兵はそう云って眼を凝らした。
「──ありゃ駄目だ。些ちっとも当たってねえ」
 彼は今にも、戎馬じゅうばを駆って戦場に躍おどり出そうな権幕けんまくを見せた。その権幕は、酷く懐かしい(同時に酷く忌々いまいましい)二〇三高地で塹壕の中から遠望したときの表情だった。

 彼は依然やはり死を大いに奨励する将校を心中で詛のろっている。しかし、「彼奴らの死は、間違いなく、名誉だったろうに……」という戦友の言葉もまた彼を詛っている。石見上等兵は将軍の勿体はもう癪だと云った。して見れば、それは、彼の中の名誉の形であった将軍の下知げちが、今では信用の欠片かけらもない失われた名誉の形になったと云える。日露戦前から軍国主義に対してそのような態度を採っていた織辺上等兵の見解けんかいに、ようやっと石見上等兵が追いついた容子ようすである。とは云え、石見上等兵が完全なる非軍国主義へ成っていないと彼は思っている。その根拠こそが死と名誉の結び付きであった。織辺上等兵から見た将軍の素形すがたは、朝食で存分に書生を扱こき使っておいて、食べる時分となってから全部を捨てろという最悪な主人と合致している。存分に士卒を鼓舞させておいて、いざ戦うときになって全部を玉砕ぎょくさいさせるのである。この思考は、一旦非軍国主義者に成ってみないと到底理解が逐おいつかないだろうと織辺上等兵は踏んでいる。だからこそ、彼は歎なげくのである。皆んながひたすらに、帝国軍人の鑑かがみである老将軍に好感触を与えることで必死だというのならば、己はどこまでも、この集団の思想に逆行さからってやろうと決心した。……

 

     ×     ×     ×

 

 露軍右翼の動きにはだいぶ苦戦を強いられた。奉天の橋梁きょうりょうを跨った形で軍を布しいているのである。それに沿って此方も軍を横並べに布いた。秋山支隊の攻撃位置は露軍の大予備軍が充あてられていた鴨緑江軍おうりょくこうぐん*とは対であったから然程さほど心配はいらなかったのだが、露軍右翼包囲策戦の最中に右翼の危機が本軍に露呈ろていした。そのために、クロパトキン大将が鴨緑江軍に充てていた大予備軍をそのまま右翼側の援軍として遣よこしてきたのである。大軍を迎撃するために在る砲弾は──先程から大した効果を発揮しなかった理由は──満州厳寒に因よって凍てついた奉天の大地の所為だった。二十八珊サンチ榴弾砲りゅうだんほうもカノン砲*も撥はじかれた。九百門もんもの巨砲きょほうは完まったく意味を成さなかった。
 織辺上等兵と石見上等兵は、今から秋山支隊と共に馬を馳らせ露軍後方へ囘まわる予定だったのだが、直前に少将に喚び出された。二人は幕営の中に這入はいった。眼の前にはあのときと同じ、髯の濃い男が合わない椅子に坐って待っていた。
「永沼ながぬま挺身隊ていしんたい*に入れ」
 一言目に少将が云った。織辺上等兵は少将の口調からして、決して自分たちが好ましくないという、厭悪えんおの思考結果ではないと確信した。

© 2026 鷹埜狩月 ( 2026年10月2日公開 )

作品集『旅順』最終話 (全6話)

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