六
奉天の曠野に臨む幕営の前に、棕櫚縄*で縛を享けた二人の歩哨が連坐して居る。織辺上等兵と石見上等兵は、その歩哨の後ろに軍刀を持って佇んでいた。
「──大莫迦野郎!」
織辺上等兵は遣る瀬無い気持ちで吐き捨てた。彼の軍刀を持つ手は撼えていた。歩哨たちは項垂れて、何も云う気配が見えなかった。織辺上等兵は、未だに眼前の事実を信じることができなかった。
李への訊問が済んだ織辺上等兵は(彼が何か有効な)、金沢軍曹に赦しを得て彼を斬った。最期まで彼は不敵な笑みを消さなかった。彼の血は、冬の曇天下の所為か黒ずんで見えた。
歩兵──項垂れていた二人の歩兵は──佐藤庫之助一等兵と野村昌三九一等兵であった。幕営で待っていた秋山少将は彼らをすぐに捕縛して、こうして連坐させ織辺上等兵らに斬ることを命じたのだ。それが、今から十分前のことである。織辺上等兵は、完く訣が解らなかった。彼は憤然と秋山少将へ訊ねた。少将は、暫し黙りこくっていたのだが、卓に両掌を打ちつけた織辺上等兵の気合いに折れて、彼らが囚えられてから今に至るまでの詳細を話した。
囚えた後に、佐藤一等兵の幕営の抽斗から手記が出てきたらしい。毎晩欠かさず書き留めていたようで、それは士官学校時代から記されていた。少将はその手記を、織辺上等兵に渡した。年季のある古めかしい手記には、一定の温もりが保たれていた。……
「──明治三十七年二月十日。奉天ヨリ妣ノ尺牘有リ。サレド妣ノ手蹟ニ非ズ、蓋シ露ノ兵ト思エリ。妣曰ク露ノ兵ニ囚エラレタリキ。我レガ扶桑ノ兵卒ト有レバ、支那ノ軍ハ即刻我ガ支那家ニ押シ入ッテ荒セリ。妣ハ支那兵ニ因ッテ露ノ幕営ニヤラレキ。我レ、伯瑜ト共ニ、明日奉天ヨリ支那ノ李衛ニ随ッテ、露軍ノ幕営へ向カントス。──」
織辺上等兵はこの手記を、涙の溢れんばかりに、幾度も読み返した。戦友の、何とも息苦しい葛藤の詰まったこの手記から、眼を背けることが出来なかった。己の妣を敵国軍に攫われて、国を裏切るか、妣を無惨にも手放すかという、忌むべき選択を迫った露軍を彼は大いに恨んだ。
軍刀を構えた織辺上等兵には、当然悲嘆哀傷の感が在ったのだが、しかしいざ斬るとなると、ふと彼の頭顱の中に、この二人が日帝を裏切って露軍に従いたのだという怨恨のようなものが芽生えてきた。妣親が敵軍に囚えられたとあれば、慥かに心が揺らぐだろうが、彼らは一度でも上官らにこの状況を説いただろうか? 秋山少将からそのような話は少しも耳にしていない。となると、この二人を斬ることに何ら異はない。ましてや抵抗を生むことなども、ない。そう思うと、彼の手の撼えは徐々に消え失せていった。が、再び項垂れた戦友の素形を眼にすると、やはり葛藤に雑じった悲哀の咾が洩れ始めた。石見上等兵は、軍刀を構えもせずに、事態の困惑と戦友に対する猜疑心とで硬直呆然としていた。金沢軍曹やピストル兵長、そして幾人かの騎兵までもが、二人が今から為すことを偉業とするかのように、未だか未だかと、時折欠伸をしながら始終鑑賞していた(口惜しいことに、金沢軍曹はこの二人の歩哨の行動を、単に露軍へ裏切ったとだけ説明したのである)。秋山少将は、織辺上等兵の行動から心情を悟ったのか、重々しい表情で眺めていた。織辺上等兵は金沢軍曹らに憎悪を燃やしたかったのだが、その方へ心情を向けている遑などなかった。
この日、二人の歩兵が、枯れた曠野の上で、褪せた血を散らして死んだ。
× × ×
曠野は、ただ暴力的な風采をして広がっていた。
「──これでもお前は、死ぬことが名誉だと云えるかい?」
「愚問だな。しかし彼らの死は、間違いなく、名誉だったろうに……」
石見上等兵はいつもの飄々とした表情を、些っとも見せなかった。戦友たちの死が、二人をまるきり変えて了ったのだった。
「意固地野郎め」織辺上等兵は冷笑した。しかしそれは、妙に煖まったものであった。
「ただ──」
石見上等兵は徐ろに口を開いた。
「将軍も勿体はもう癪だぜ」
「──好い決心だ」
織辺上等兵は微笑した。
× × ×
夙に、彼我の砲弾が奉天の曠野を巡った。織辺上等兵と石見上等兵の二人は、折角幕営で空き壜に醴を注いで酌をとっていたのだが、砲音に吃驚して天幕を飛び出してみれば、已に軍曹とピストル兵長が騎卒共々喚び起こして列べている最中だった。
「厭な時分におっ始めやがるな」織辺上等兵は愚痴を零した。
「──何だったかな、今のおれの心持云々を弁じたいんだが、こう、彿語*であったんだが……アで始まったんだ。兄弟、もしや知ってるか」
「アンニュイ*、じゃなかったか。彿語なんだろう。こうっと、懈怠いときに用いるやつだった気がするぜ」
「そうだ、そのアンニュイに──この戦争じゃ士卒は皆んなアンニュイに塗れ了ってる。おれらがいくら日帝だ何だと威張ったって露国はデケえんだ。騎馬なんて、尚更だ。そんな戦じゃ皆んなああなる。もう年紀も代わって、徒に士も喪って──それでも将官らの云う日本魂を保つのさ。それも、已むを得ずにだぜ。将軍の称賛を享けれるのなら背に腹は代えられぬからな。将軍の御前となれば帝国軍人を演じ遣がるがいざどっか行っ了えば土壁に倚って喋舌ってなんとやら。加えて当の将軍方は狂人愚人のそれだ。支那との戦は巧くいったが今度はそうは行かないぜ。そろそろ連中も辟易する頃になってきた」
「成る可く、早くそうなって欲しかったんだがな」
織辺上等兵はそう云って眼を凝らした。
「──ありゃ駄目だ。些っとも当たってねえ」
彼は今にも、戎馬を駆って戦場に躍り出そうな権幕を見せた。その権幕は、酷く懐かしい(同時に酷く忌々しい)二〇三高地で塹壕の中から遠望したときの表情だった。
彼は依然やはり死を大いに奨励する将校を心中で詛っている。しかし、「彼奴らの死は、間違いなく、名誉だったろうに……」という戦友の言葉もまた彼を詛っている。石見上等兵は将軍の勿体はもう癪だと云った。して見れば、それは、彼の中の名誉の形であった将軍の下知が、今では信用の欠片もない失われた名誉の形になったと云える。日露戦前から軍国主義に対してそのような態度を採っていた織辺上等兵の見解に、ようやっと石見上等兵が追いついた容子である。とは云え、石見上等兵が完全なる非軍国主義へ成っていないと彼は思っている。その根拠こそが死と名誉の結び付きであった。織辺上等兵から見た将軍の素形は、朝食で存分に書生を扱き使っておいて、食べる時分となってから全部を捨てろという最悪な主人と合致している。存分に士卒を鼓舞させておいて、いざ戦うときになって全部を玉砕させるのである。この思考は、一旦非軍国主義者に成ってみないと到底理解が逐いつかないだろうと織辺上等兵は踏んでいる。だからこそ、彼は歎くのである。皆んながひたすらに、帝国軍人の鑑である老将軍に好感触を与えることで必死だというのならば、己はどこまでも、この集団の思想に逆行ってやろうと決心した。……
× × ×
露軍右翼の動きにはだいぶ苦戦を強いられた。奉天の橋梁を跨った形で軍を布いているのである。それに沿って此方も軍を横並べに布いた。秋山支隊の攻撃位置は露軍の大予備軍が充てられていた鴨緑江軍*とは対であったから然程心配はいらなかったのだが、露軍右翼包囲策戦の最中に右翼の危機が本軍に露呈した。そのために、クロパトキン大将が鴨緑江軍に充てていた大予備軍をそのまま右翼側の援軍として遣してきたのである。大軍を迎撃するために在る砲弾は──先程から大した効果を発揮しなかった理由は──満州厳寒に因って凍てついた奉天の大地の所為だった。二十八珊榴弾砲もカノン砲*も撥かれた。九百門もの巨砲は完く意味を成さなかった。
織辺上等兵と石見上等兵は、今から秋山支隊と共に馬を馳らせ露軍後方へ囘る予定だったのだが、直前に少将に喚び出された。二人は幕営の中に這入った。眼の前にはあのときと同じ、髯の濃い男が合わない椅子に坐って待っていた。
「永沼挺身隊*に入れ」
一言目に少将が云った。織辺上等兵は少将の口調からして、決して自分たちが好ましくないという、厭悪の思考結果ではないと確信した。
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