一
二〇三高地*は一貫して沈黙を保ち続けた。雪を少々冠った、柔らかな、そして厳かで黝い丘陵地帯は、どことなく完璧に近い悲壮を纏っているようだった。それに加えて、辺り一面に拡がる枯死木とそれを見下す曇天とが相俟って、如何にも冬であった。高地の山巓近くに在る鉄条網を塹壕*から見上げる歩兵たちの眼は哀切に充ちていた。厳寒の所為で白い靄が漂っていても、しかしこの丘陵だけは、ハッキリと肉眼で捉えることができた。それはやはり、この丘陵が完璧な悲壮を纏っていただけでなく、完璧な戦争というものの体現を遂げていたからであった。
歩兵第二十八聯隊*の織辺雙六上等兵は、塹壕から二〇三高地山巓附近の堡塁を眺めていた。堡塁と云っても、見えるのはそれを取り囲んでいる鉄条網と・更に一囘り、尾根に沿って拡がり列なっている胸墻*のみである。彼は銃剣を提げて、片脚を木台に乗っけて険しい表情で凝視っと見続けていた。彼がそのような表情で在ったのは、決して幕僚たちが彼の気に障るようなことを仕出かした訣ではなく、単に視力の兇いために眉間に皺を倚せていただけである。──隣で寝轉んでいるのは山田小次郎一等兵である。彼らの属するこの聯隊は今から、山頂東北部へ突撃して堡塁を打ち毀すのである。
「いつまで見ている気だ?」
山田一等兵は馘だけ起こして苦しそうに訊ねた。
「いつまでって──他にすることもないだろう。貴男みたいに寝轉がっているよりかは、戦場を眺めるよりかはずっと暇潰しになる」
「暇潰しか。其奴ァお気楽だな」彼は毒を秘めた厭味ったらしい発言を擲附けた。
「悪かったね、気楽で。それとも何だ? これからの軍に向けて狼狽しろって云うのかい。死んだ同胞たちのために平生通りの元気は見せなきゃ不可ない」
「そうは云わないさ。ロシア人も日本人も軍までの数刻は暇なもんだ。──そう睨むのは好いことだがな。死んだ同胞たちのためにと云うんなら暇潰しとという簡素な言葉として片付けるのは無礼じゃないか」
「そうかい」
織辺上等兵は苦々しい表情で顔を二〇三高地の方へ戻した。平素からの山田一等兵の気質上、どうしてもその後口論になる予感しかないのである。──山はやっぱり黝い。幾度見ても、その荘厳さと険しさは完く失われない。稜線から山襞にかけての黝い布に、これから舞い上がるであろう黄色い砂煙を投影して、感動した沈んだ表情を見せた。おそらく今から厭ほどの晴天となっても、この山はいつまでも黝いんだろうと織辺上等兵は確信を得た。
明治三十七年十一月三十日午前五時のことだった。歩兵第二十八聯隊の金沢丙吾軍曹と江積三郎兵長が早朝に中気霜を吐きながらやって来た。つい最近まで歩兵第二十六聯隊に籍を擱いていたのだが、急遽所属先を変更されたらしく、別段二人が何かしら不祥事を起こした訣ではない。二人は、何やら他の将官らと話し込んでいるようだった。
「なあおい、軍曹の隣に居る驢馬みてェな奴は、一体誰だい?」
織辺上等兵は傍に立っていた石見春馬上等兵にこう訊ねた。
「ん? ──吁、あの、兵長のことかい? 彼奴は江積っていう奴さ。何でも──ほら知ってるだろ? 東京の市ヶ谷*に在る、大商社の御曹司だっつう……」
幼少からの戦友はこっそり指を差してこう云った。織辺上等兵は、大商社の御曹司という言葉を聞いて顔を顰めた。
「へえ。──お坊ちゃんだナ」
彼は有福を毛嫌いしている。全部が全部、悪人ではないのだが、過半は大抵、自分ら庶民とは違うような優雅な挙動をする。否、しようとする。現に江積兵長の評判を聞いてみると、二十六聯隊に居たときは過度に自らの財産力を仄めかしていたという。それが織辺上等兵には滑稽で、害な醜態とでしか見て執れないのである。自分の保身を先ず第一として、それでいて上品さを保とうとする彼らの言動は、すべて幼少からの環境により育まれてきた「己と皆んなと違う」という優越感の所為である。そんな無様な容子で、どうして優美さを保とうとするのか。ただ並を越えた財産を持っているだけで、それが急激なものであるというのに見せびらかして優越に浸る。そう云った行為が、織辺上等兵には甚だ疑問であったと同時に軽蔑であった。自分の出自が庶民であるというもの理由の一つだが、尠くとも己が生まれ変われるのならば、決して有福の地位にだけは就きたくないという矜持があった。
「吁そうだ。ピストル兵長っつう渾名があったぜ。なんでもピストル強盗清水定吉*の物学が大層得意らしい」
「物学か。活動写真でも見たのかな」
「さあな。やっぱり金持の考えていることは理解できんな」
「だな。先ず軍人がやるかね」
「しかし阿吉牛堡の将官らは殉死の劇を見て感動しているぜ*」
「それは殉死の面だろう。第一警官だ。強盗の方じゃただの悪人だぜ、下らない」
織辺上等兵は、江積兵長の面長な皺の剞まれた顔を能く見て、やはりどこか親しみ難い雰囲気を醸し出すのであった。
将官らの軍議の結果、今日六時に山巓へ突撃するものになった。
出撃が一時間弱後ということで、織辺上等兵たちは軍議の首尾を知るとすぐに支度を始めた。そうして塹壕を発った。歩兵全員が、三十年式銃剣*と三十年式歩兵銃*を脊に背負って山道を黙々と歩く容子は、悲壮さの体現を確固たるものにしていた。織辺上等兵が他兵の顔を窺ってみると、皆暗い、悲々たる顔をしているのがハッキリと解った。手の顫え脚の顫えの止まらない者もいた。そこで織辺上等兵は自らを、街道を歩く歩兵隊の一列を物珍しい眼で見物する群衆の一部になって考えた。しかしどう考えても歔欷*の感には至らなかった。彼はその要因を、己が已に軍人という存在になって了ったからだと知って歎息した。
山道には、木は在るが草はなかった。そのために木という幾本もの太い棒から悲哀に充ちた叫声がどことなく聴こえる。織辺上等兵は、もし草が在って木がなかったら自分は何か聴こえただろうかと一考した。おそらく何も聴こえてこない。自分たちの蹠で踏み潰して了うからである。もし草が在って木がなかったら自分は今どんな気分なのだろうかと一考を可試してみたが、もう已に戦場は眼前に迫っていた。彼らは戦場の、五百メートルほど前で歩みを駐めた。将官の命令が下るまで、歩兵たちは列を組んで暫時駐まっていた。その間山田一等兵は他の歩兵たちに「おい知ってるかい。あの長官は二十歳んときに──」「己は知ってるぜ。あの鳳輦供奉*の連中らが一般師団の奴らから金を巻き上げていたってことをな」などと執拗に話しかけて揶揄っている。歩兵たちは苦笑して引いているようだったが、山田一等兵の思惑としては皆の緊張を燮らげたかったのだろうと織辺上等兵は態とらしく溜息を吐いた。その容子が、石見上等兵の眼に止まった。
「どうした兄弟。妙に堅い顔をしているが……」
「別にどうってことはないさ。ただ、なにか口には出せないが、不快な感情を抱いてる」
「え、なんだって。よく解りはしねえが──」
「否、たった今ハッキリした。あれだ──肉弾にだけはなりたくねえなってことさ」織辺上等兵は虚言を吐いた。そしてその不快き感情は最後まで靄っとしていたのだが、とうとう滅切忘れ去って了った。
「そうか。そりゃ己も同感だな」石見上等兵は前を向いた。
× × ×
ひっそり閑とした山道に、九人ほどで一列となった歩兵隊が列んでいる。織辺上等兵はそれを空然*と凝視めた。露軍が今どのような陣で構えているか、抑も日本軍の到来を熟知しているのかすら、歩兵は知らない。ただ将官の意思に随うだけである。織辺上等兵がふと振り返ってみると砲台が数台設置され始めていた。砲台の口はどこまでも落ちる深淵。
ほどなくして、燻った鉛球がぶっ飛んで来た。それが地に落ちる寸前、金沢軍曹の低い咾が山間に響き渡った。
歩兵は皆一斉に銃剣を突きつけながら馳しり出した。その後方を、歩兵銃を構えた数百の歩兵が少しづつ前進するのである。慎重な江積兵長の進言で、歩兵隊三千人を二つの小隊に──しかし織辺上等兵ら第一隊は、まるで捨駒のような兵力差であったが──分けさせた。八百人の歩兵隊は、砲弾の甲斐あって充分進めたようだった。だがそれも、第三攻撃陣地に来て駐められたのであった。
山道が九十九折になったところで、その囘り角で敵の斉射に遭った。織辺上等兵と石見上等兵は、態と遅く馳しっていたから先登の銃撃で咄嗟に木陰に身を蔵した。そこから逐一、見えぬ敵の射つ方へ銃弾を還すのであった。露軍も二人のような行為を想定してか、途中から彼方此方に銃弾を飛ばして来た。
露軍の攻撃が已んだと見えて、二人は勢い能く躍り出た。疾うに露軍兵は去ったらしく、在るのは仲間の屍骸だけだった。
「酷え有様だな」織辺上等兵は口を庇った。
「おい、あれを見ろ」石見上等兵は屍骸の中を指差した。熟視てみると、死屍累々の中に、横倒った山田一等兵の姿が在った。匍匐の姿勢を保っていた山田一等兵は辺りを見巡していた。
「吁云う奴が生き残るんだ」織辺上等兵は嘲笑を交えた笑みを浮かべた。
山田一等兵は、二人の跫音を聞いてすぐに頭を降ろしたが、織辺上等兵の咾が聞こえると笑いながら地面から起き上がった。
「いやァ大成功だ。天才だろ? 丁度前の奴が撃たれたから咄嗟に身を傴めたんだ。そしたら露軍の奴ら、一向に気付かなくってさ。ハハハ」
織辺上等兵は山田一等兵に対する軽蔑の度合いを強めた。、仲間のお蔭で済われたことは僖ばしいことなのだが、この男が、それも笑いながら云うと、「仲間のお蔭で」という事実が「仲間を売った」という事実に成りかねないのである。山田一等兵のその発言という薪が、織辺上等兵の怒りの火の中に焚べられた。
暫くして、江積兵長が駆けつけて来た。聞くところに因ると、歩兵隊が突撃した後に待機兵の中に雑じっていたのだが、耳を劈くような銃声と戦友の悲鳴とがほぼ同時に已んだのを知って急いで来たという。石見上等兵がそのときの容子を訊ねてみたところ、皆粛然たる感じで、流涙する者が殆んどだったらしい。
織辺上等兵は山田一等兵に対する憤りをすっかり忘れて、当時の情景を想像して悲嘆の感に耽っていた。耽る場が、仲間の屍体に囲まれた場だからというのも一つの理由である。しかし、不思議と涙は湧いてこない。それに気付いた織辺上等兵は己を激しく叱責した。大勢の仲間の死が哭くに値しないいう見解が彼を襲った。そんなことはない。ただ、事実が剰りにも残酷だから、感泣の念を盡く枯渇させて了っただけだと何度も自分に云い聞かせた。自分の見解がなんとしても赦し難かったのである。
三人は、待機していた歩兵隊に加わった。金沢軍曹は一度麓附近へ退去し再び追撃をすると命を下した。織辺上等兵はそうだろうなと思っていた。八百人もの歩兵が全滅し、生き残ったのはたった三人である。もしこのまま追撃を再開すると軍曹が云い出したのなら、彼は撲りかかろうと覚悟していたから援かった。
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