【1】
――黒い布の上を這って這って、もう何年だろう。
白や、赤や、青や、他諸々の捉えきれない装飾品たちがとうとう見えなくなったと思った、そう、あれ、あの時は、もう何年前なんだ。
神の底の無い鍋に放り投げられたのがもう何年前だ。
海の塊から綺麗って噂の土の玉目掛けて打ち上げられたのは?
朝が逃げたのは?
夜がすっぴん見せたままになったのは?
俺たちが食道の粘膜に揉まれたまま、どうやら胃にも腸にも着かねえことが解って、そんであいつと狼狽したのは……ああ、何十年前だ?
『boundary flag』……ハハハ……“ばうんダリ~ふらっぐ”なんて、カスみたいな、だっせえ名前の船に乗ったのは……名誉とか栄誉とかに飛びついたのは……俺の、若かりし、太陽の子供らしかったあの時代はいったいいつだった!
希望の地ってのはどこだ!? 眼まわしても見えやしねえぞ! そもそも本当にあったんだろうな。望遠鏡からの画像とか言ってたが、安いポルノみたいに出力させたんじゃねえのか。
おい、俺らは星の子じゃなかったのかよ。
星々の欠片と同じ物質を宿すかがやかしい生き物だって、先生……あんた言ったよな。俺は覚えてるぞ! あなたの言うことは大体覚えてる、教えてくれたことがまだ夢に出てきて、夢の中の俺はまだ頷いてやがるんだ、役に立たねえのに。俺たちが星の子供だっていうなら、なんであいつらは何も答えないんだ。同胞だろ?…………同胞なら、迎えに来てくれたって、連絡してくれたっていいじゃねえか。あいつらもそうさ。何年だよ。あとどのくらいなんだ。あとどのくらいで……
「予想は120年と2ヶ月です――」
「うるせえッ! クズ箱が!」
ベッドから飛び起きて、AIの四角い頭に蹴りを入れた。びくともしないから十回くらい蹴ったら、目もない癖に睨んできやがった。ひっくり返した鍋の上に箱置いただけみたいな形のヤツが偉そうに。
気持ち悪いからベッドへ戻ろうとしたら、ブリキロボットが平常心ぶって言ったんだ。
「朝食はご用意いたしますか?」
朝食?……こいついま朝食って言いやがった。馬鹿にしてる。
「……おいクズ。次俺に飯のことを朝飯とか昼飯とか晩飯だとかの名前で言ってみろ。……ハハハハハ! ぶっ壊してやるからなッ! 丁寧ぶってじゃねえ! いまが何時何分なんてもう意味ねえだろ! 時間なんざクソ食らえだ!……なんだ黙ってよお! 俺にはそんなこと出来ねえとおもってんのか!? なめてんだ! そうだ! いつもテメエはそういう眼ェしやがる!」
しゃべる箱はしばらく黙ったままだった。俺の怒鳴り声を、親に叱られた子供みたいに固まって聴いてた。だが、俺が息切れして、言葉が途切れたとたんに、こう言ってきた。俺はそれで頭を抱えたんだ。
「窓は開けますか?」
AIが言うのは、俺の部屋のデスクの上部にひとつだけある、大きい窓のことだ。いまは黒いシャッターで塞がれて外が見えないようにしてる。
AIのヤツは、そのシャッターを開けようかって訊いてるんだ。
外を、見せようかって。
俺は狼狽えて、背中から体温がスゥゥ……って冷えてくみてえにおもって、一気に情けなくなった。
挙げ句には、AIにこう謝ってた。
「わ、悪かった! 違うんだ! 君も知ってるだろう? 俺はもうダメなんだ。ダメになってきてる。許してくれ……謝るよ……悪かった。俺が間違ってたんだ」
「食事をお持ちしますか?」
「あ、ああ……! たのむよ……ありがとう……ありがとう……」
AIは一礼すると部屋を出てった。
許したとも何とも言わないで。
広い部屋には俺ひとりだ。
何年も何年も、こうしてる。
窓も開けずに、AI以外ともしゃべらずに、自身を軟禁し続けてる。
本当は、仲間もいるのに。本当は孤独というわけではないのに、俺は俺を孤独にした。……いや。ホントの加害者はあいつだ。俺は被害者だ――ああ、違う違う違う…………加害者は、やっぱり……そうだ、共犯だ。共犯だった。だから、こうやって閉じこもる以外にない。そうでもなきゃ、どうすりゃよかったんだ。
俺は俺で逃げずにいるんだ。嘘じゃない。本気で逃げるんだったらいくらだって方法があるんだ。ただただ部屋の中にいるだけ真面目だろう? 苦しいだけ真面目だろう……。
任務だって、俺が真面目だから引き受けたんだ。
いつだって損するのはそういう奴だ。
俺が初めから本物のクソ野郎だったら、漂流なんざしてねえし、こんな閉じこもってねえ。無責任に生きてたろうさ。
うなだれてたら、AIが食事をトレーに乗せて戻ってきた。どういう仕組みだったか、こいつの身体にはどんな物だろうとどんな方向にもくっついて、腕が無いのになんでも運べるんだ。いまもトレーが正面に水平に付いてる。そしてデスクの上に置くとスッと身体から離れる。透明なドリンクの水面が微塵も揺れねえ。
代替ベーコン合成エッグ焼き、プラント栽培トマトレタスサラダと人工バターロール……献立でどうやら今日が月曜日だって気付いた。メニューは曜日ごとに決まってるからな。それが正しいのかも既にわかりゃしないが。
ドリンクを飲んでほんの僅かに気分がよくなった。これをたった一口飲むだけで口の中が殺菌されて清潔になって歯を磨く必要がなくなる。物臭な文明の利器だ。味は安い紅茶みたいだ。
食い始めたらAIが珍しく話しかけてきた。いつもは掃除でも始めるのに。そんでその内容に俺はパンを落としたんだ。
「ツァーク様。ファレト様からの伝言です。“久しぶりに会わないか、顔を見せてほしい”と……」
伝言が解らなかったわけじゃない。むしろよくわかった。だが俺は青白い床に落ちた薄茶色のパンに視線を固定したまましばらく返答しなかった。パンの体の半分はテカった表面に微かに白い光を反射して、もう半分はデスクの影に入ってた。影が布団に見えて気分が悪くなる。あいつみたいで…………会おうだって?……どういう風に会えばいいんだよ。ハハハハハ……あいつさては正気に戻ったか。そうか、少なくとも10年、そりゃあお前だってそうなるよな。俺は代わりにイカれ始めてるぞ。あるいはイカれ続けてる。
いや、だが会わねえぞ。俺たちゃ互いに孤独であるべきだ。そうじゃなきゃならねえだろ。道理じゃないか。決まってる。
「おい。ファレトに伝えろ。会わねえって。二度と会うことはない、ってな」
パンを拾って、わざと汚くかじって言った。要件は済んだはずなのに、しかし手振りで“もう行け”とやっても、AIのヤツは何故か出てかねえ。
「なんだ? もういいだろ、行けよ」
「伝言の続きが」
「あ?」
「“自分はもう延命を止めようと思う。だから最後に会いたい”とファレト様は仰っております。いかがなされますか?」
目の前がぐるっと一回転した……ような気がした。恒星が見下してくるあの景色、ヤクじみたカラフルな惑星の横顔をもういっぺん見た気がした。……気付くと俺は食事をひっくり返していて、AIのヤツを蹴り倒して、デスクを持ち上げて箱の身体へ何度も殴りつけてた。頑丈すぎるこいつは壊れるどころかへこみもしなかったし、抵抗する素振りも見せやしなかった。呻き声もあげなかった。声を上げてたのは俺の方だった。けだものみたいな、文明からかけ離れたグロテスクな声。洗浄された膓(はらわた)が煮えて吐きそうだったんだ、だからそうでもしないと放熱出来ない。
いっそ煙でも吐きたかった。部屋を満たすくらいの。
罪を、黒い煙にかえて、俺は俺を此処で燻してしまいたかった。
いや違う。
そういうことを俺はすでに10年以上やってきたはず。これからも閉じ籠り続けて、せめて終点まで行こうって思ってた……なのによ。なのにだ……
「オマエは逃げるってんだな!」
デスクをドアに思い切りぶん投げた。今は爆弾でもいくつか投げたかった。
スイッチに当たったのか、ドアは10年ぶりに開きやがった。“行くしかないだろう”って言ってるようで、俺が出ていくまで、ずっと開けたままにしていそうで、ドアの直上に付いた半透明の黒いセンサーが俺を引っ張って命じているようで、俺はじりじりと、汗をだらだら垂らしながら、外へ向かっていった。
アイツへ……アイツが逃げるってんなら、オレはアイツへ……
ブリキのヤツは、俺が5分かけて身体の全てを部屋から出すと、やっと起き上がって言った。
「いってらっしゃいませ。神の祝福を」
【2】
目眩だ。
10年だかぶりに見た通路がぐるぐるぐるぐる回る。最初に受けた訓練の直後もこんなだった。
眼球は前に行くのを拒否してるが、足は虐待されてる子どもくらい素直に、ファレトのいる談話室へ進んでる。よたよただけどな。ちらほら見える窓のせいで余計にふらつく。もう眺めたくないんだ、いいかげんにしてくれ、吐きそうだ……。
顔を伏せて、壁を手探り歩いてると、突然、ビビッ!……と、指先に何か不快感が走った。慌てて顔を上げると、『遺伝改変室』と書かれたプレートがまず飛び込んできて、すぐに暗い銀色のでけえドアが、視界から脳の処理機能をいっぱいにした。
「アア……!」
――しまった! 一番近づきたくない場所を通るルートをわざわざ選んじまってた! クソが……どうして気づかなかったんだ……胸が苦しい。汚い空気が口に入って身体を巡ってる気分だ。
漏れ出るはずのない、薬品と有機物のまざった、あの科学文明の恥垢のような、神秘を嘲笑うような匂いが、その幻が鼻の中に充満してきて、俺は崩れ落ちつつ鼻を抑えて踠くように逃げた。えずく声が通路に反響して、目眩には涙が混じってきた。こんな有り様なのに部屋に戻らずファレトの方へ進んだんだから、俺はやっぱり真面目なんだ……。
床を這いずって這いずって、談話室の直前で、壁の手すりにつかまってやっと立ち上がれた。身体は30代のままだってのに、動きはまるでよぼよぼの爺さんだった。顔だけはもしかしたら皺だらけかもしれない。醜い老人の顔が若い身体に乗っかってる不気味な男になっているかもしれない。そしたらファレトの奴、どんな反応するだろう。驚くか、ビビるか、落胆するか、それとも無反応か。……どれだっていい。あいつだって、また変わってるかもしれないんだ。…………だから会おうとか言ってきたのか? また変えたからなのか?
俺はしばらく談話室のドアを開けずに、あれこれ考えて、息をととのえた。そしてもうしばらくの間はただただマネキンのように立っていた。そのままホントにマネキンになれたならよかった。しびれを切らしたあいつがドア前の蒼白の人形を見つけたら、さすがに悲鳴を上げるかな。そう考えた時、片側の頬だけつり上がった。すると急に緊張やら悪寒やらがふっと消えた。それだけじゃない。今度は気分がやけに高揚してきて、ふるえてしかたねえ。笑い声だって漏れてくる。ああ、もうだいじょうぶだ。そうだそうだ。あいつをビビらせてやりゃあいい。全部ぶちまけりゃいい。顔が老人だったらいいな、へへへ……。
俺はAIがさっき言ってたことを真似ながら、ドアのボタンを押した。
「ヒヒ……神の祝福を……」
門は開かれた。二人っきりの、荒廃しきったPandemoniumへの門が。
……違うな。ずっと開かれてたんだ。俺たちが罪に染まったときから。
広くもない部屋は色を失ったように壁も床も天井も白かった。窓際と部屋の中央に二つだけ置かれたテーブルまで白い。中央側のテーブルの前のL字型ソファのみ真っ赤で、死体に口紅を塗った風に見えて気味が悪い。
少年くんはそこに脚を組んで座ってやがった。金色の髪が照明の下で光ってる。真っ白くて細いくせに腿がやけに肉付きのいい脚がパンツから伸びてる。青いEXEスーツが肌にぴっちり張りつく薄い上半身に5本の太い灰色のベルトが巻きついてる。
でかい目は閉じて、口はもごもご動いて
る。多分Note-dropを舐めてるんだ。舐めてる間音楽が体内に響く飴玉だ。よくあんなうるさいのが食えるもんだ。
俺は部屋に一歩入ったところから全く動かずに、時折飴玉に押されるファレトの頬肉を眺めてた。そうしてると、自分が思ったよりもはるかに冷静なことに気づいた。むしろファレトを見て落ちついちまってる……情けねえ。クソ野郎だ俺は。もっと苦しむべきだってのに、何を安心してるんだ。俺は奴を見たら罪責をもっと感じなきゃならないし、苦痛を受けなきゃならない。
ため息が出た。
ファレトはそれに気づいてやっと俺に顔を向けた。黄金の目を丸くして驚いてる。やめろよ、天使様みたいにすんのは。
「ツァーク……ああ……来てくれたんだね。えっと…………久しぶりだね」
俺は何も返さずに、ドアのすぐ横で壁に背中を預けて腕を組んだ。震えを隠すための姿勢だった。何でもいいから支えが欲しかった。
なんだよこいつ、何も変わっていやがらねえ。
何にもだ。つまり俺たちはクソのままってことだ。
「もう幾年になるかな……君と最後に話したのは。ボクの記憶が正しければ、ああ……12年と4ヶ月と10日かな…………とにかく嬉しいよツァーク。君はあんまり変わってないし」
「変わってないだと?」
唾を吐いてやろうと思ったが、思いとどまって、唾は喉に押し込んだ。噎せそうになりながら、ファレトに返してやった。
「俺が変わってない? へへ……そりゃあ、閉じ籠る直前のひでえ顔つきと変わってねえって意味か? それとももっと前のまともだった時と比べての話か? ああ? どっちだ?」
「……君は君が思ってるほど悪い顔をしてないよ。いつもいい顔立ちだ。いまだってね」
「そうかい。うれしいね、反吐が出そうだ」
ちくしょう……汗が出てきやがる。こいつの声を聴くたびに、腰の辺りがぞわぞわして、ハハハ……蛆でもわいた方がマシだ。
ソファには、ファレトには近づかねえでおこうと動かずにいたら、あっちの方から来やがった。長い脚を交互にゆっくり前へ出して……腿肉をかすかに揺らしながら……。
「ツァーク。来たということは、ボクがもう延命を止めようとしてるって聴いたんだろう?」
「……ああ。勝手だな……この、坊主」
ファレトはモナリザのような微笑をしてオレを上目遣いで見る。それで俺は目がいたむ。
「俺より先にギブアップか? え? クソ坊主……」
「そう言わないでおくれよ。君も解るだろ。この狭い船で不老長寿は辛い」
「で、俺は置いてきぼりにするって?」
そう言うと、ファレトはシャッターを閉めきった窓へ目を移して露骨に困った顔色になりやがる。短い金髪が俺に向けられる。その後ろめたい感触が思い出されて、オレは天井のライトを急いで見た。光で眼球を焼きたかった。
10秒くらい経って、ファレトは話を再開した。
「……実は、迷ってるんだ。不老を止めるのは簡単さ。もう一度遺伝改変室に行ってしまえばいい。そこで寿命も何も元に戻せばいい。でも、それが出来ないでいるんだ――」
少年くんが俺に向き直る。ゆっくりと、近かった距離をさらに詰める。目を閉じてても匂いで分かるくらい近くにだ。
「――君のことがどうして気になって気になって……生きていたいとも思うんだ」
「……俺のせいで終われないって? オレのせいだって言いたいのか?」
「君のせいだよ……って、言ってしまいたい。そんな言い方をしてみたいよ。まるで……恋人みたいにさ」
脳裏で陶器が割れるような音がした。
身体が強張った気がしたと思ったら、次にオレは、ファレトの頭を片手で力まかせに掴んでた。ファレトは少し顔を歪ませた。もっと歪ませてやろうと力をだんだん強めていった。俺の顔と同じぐらい歪むように。
痛みに耐えてファレトは続ける。
「ボクらは……もうふたりっきりだ……ふたりぼっちで漂ってる…………延命し続けてるのもボクらだけで、それで、ここ10年はそれぞれ孤独で……辛いじゃないか……任務も果たせないならせめて……君とふたりでいたい……」
「……」
「ボトルシップをいくつもつくった。つくってもつくっても、満たされないんだ。船とボトルの間の何もない透明な空間がどんどんいやなものに見えてくるんだ。船の通れないボトルの口もいやみに見える」
「……」
「時計を見るといやになる。君と離れた分だけまわってく。これからもそうだと思うと気が滅入る」
俺は手の力を緩めた。
ただファレトの頭に手を乗せてるだけになった。
「……ボクらの船はもうだめだ。自分で進めない。ボクも同じなんだ。自分だけではもう進めない……」
頷きもせず、目も合わせず、オレは何も返さなかった。そうしてるとファレトも俯いて黙っちまった。それから1分以上互いに口を閉じてた。部屋は外のくそったれな……そう、ごみ以下の宇宙と同じような無音になった。先に音を上げたのはファレトだった。今までのよりさらに聴きたくない話を始めやがった。
「…………子供のボクが任務に付けるのは嬉しかった。天才って呼ばれるのはずっと好きじゃなかったけど、乗組員に選ばれた時、初めて天才でよかったって思えた。訓練は辛かったけど楽しかった。ツァークに初めて会った時だって……は、初めて会った時……」
ファレトは頻りにまばたきを繰り返して、眉間に皺を寄せた。頭痛でもしやがるのか。
「そう……仲良くなれると思った……。みんな信頼できた。みんなとなら新天地に行けるって、行ってからもいい仕事ができるって……でも、こうなってしまった……」
――ああ、そうだ。こうなっちまった。こうなったのは、誰のせいなんだ。泥船を設計したヤツか。科学文明の肉腫のような任務を与えたお偉いさんか。先に逃げ出したあの腐れ仲間どものせいか。誰の、誰のせいだ。誰のせいってことにすれば俺は安心できるんだ。
「少なくとも、もう120年はこのまますごさなくちゃならない。天才が聞いて呆れるよ、何も出来やしない」
俺はファレトに乗せてた手をようやく離した。
残った感触を潰すように手を握りしめた。
そのままファレトを殴りたかった。
そうすれば話の続きを聴かなくてすむし、そうすればこいつも、正気に戻るかもしれない。
「ボクに出来ることがあるとしたら、残ってくれた君を、慰めることくらいだ」
「やめろ」
――ハハハ。とうとう来た。
俺は拳を振り上げて、血走った目玉を見開いた。
「殺すぞ」
ファレトは表情筋ひとつ動かさない。美術品みたいに冷静な顔だ。
煮えたぎる気分だった。
殴らなきゃファレトは話を続ける。なのに腕をこいつへ動かすことがどうしても出来ねえ。だってこいつを殴るってことはつまり……ああ、ヤバい。罪が満ちる。
「ボクに慰められたのが嫌だった?」
「やめろクソガキ」
「……ツァーク。だから閉じ籠ったんだろ?」
「もう喋るな……」
「ボクは君と寝て希望が持てたのに」
「黙れっつってんだクソブス!」
俺は壁を思い切りぶん殴った。衝撃音の後、血が滴った。それでも何度も殴った。血はどんどん溢れて床を汚してく。けがれた罪の液体だ。船が俺の罪で染まっていく。
過去から込み上げてファレトの口から反吐よりキツい悪臭を放ちながら罪がやって来る。
「ボクは君と寝れて幸せだったんだ。慰められてたのはボクの方だった。君となら、この地獄も耐えられるって思った……なのに君は部屋に閉じ籠ってしまって……どうすればいいかわからなかった…………」
「もうやめてくれ……」
「……拒絶されるなら、延命を止める。こんな狭い場所で、ふたりだけなのに、愛した人に拒絶され続けるのは、100年の漂流よりたえられない」
「……」
「…………でも、もし君がまたボクと過ごしてくれるなら、それがいい。君を呼んだのは、それをお願いするためだ」
膝から崩れ落ちる俺の肩に、ファレトは小さい手を乗せる。あったかい手だ。気持ちのいい手だ……その手でしてもらったよな。だからもうその手も罪にけがれた。
「ツァーク。ふたりで生きていこう。ふたりなら出来る。ここにはボクとツァークだけだ。誰もボクたちを邪魔しない。咎められもしない。だからもう悩まないでおくれ。あと120年……気楽に漂流していよう」
気楽?……気楽だと?
悩まないでだと?
咎められないだと?
ああ、どの口が言ってやがる。
どの口に言わせてやがる。
そんなこと……この子に言わせちゃいけねえだろ。
「ツァーク。君と一緒にいたいんだ。ボクをまた見てくれ」
「…………もうやめようぜティファ」
俺の言葉に金髪は黙った。
意味が解らないって顔だ。
ハハハ。
ハハハハハハ。
いい顔じゃねえか。
もっとよくしてやる。
「ツァーク……どうしたんだい……?」
「やめようって言ったんだティファ。もうそんなごっこ遊びやめろよ」
金髪の黄金の目玉がぐりぐりぐりぐり動いてる。
おもしれえ。もっと動けば目玉がポロッと取れるんじゃねえかな。
「…………ティファはボクの母の名前だ。ボクはファレトだよツァーク。おい、しっかりしてくれ」
「ハハハハハハ。ウハハハハハハ! ヒャハハハハハハ!」
おかしくておかしくて、俺は壁をまたぶん殴りながら笑いまくった。
全部言っちまえ。全部ぶちまけてふたりで悶えよう。
「ヒャハハハ……そうさ! ファレトはティファの子どもだ。あんたの子どもだ! ずっと前に死んだ!」
動いていた黄金の目が止まった。華奢な身体も、口も止まった。そうだ。ファレトは、もう昔に止まってしまったんだ。
「ファレトのことは……あんたがよく話してくれた。よく写真も映像も見せてくれた。天才だったって。いい子だったって。かわいかったって。……あんたが船に乗るずっと前に亡くなってしまっただろう…………思い出せよ」
金髪の子ども……ティファは首を静かにゆっくりと横に振った。
だめだ。
俺は話を止めねえし、あんたは思い出さなくちゃならねえんだ。
俺たちが犯した罪を。
この罰はふたりで受けなきゃだめだ。
10年間ずっと俺だけで抱えてきた。
だからいい加減あんたも抱えてくれ。
さっき、一緒にいたいって言ったんだからよ……。
「副船長だけあって、最初こそ頼れた。船がダメになってもなんとかしようとしてた。でも、周りのヤツがどんどん自殺して、あんたも狂ってった。ファレトが生きてるかのように話し始めた。鏡の中の自分をファレトだと思い込んで……最後は自分自身がファレトで、鏡の中のティファは母親だと……クソが……!……そしてあの日だ。俺らが見てない間に遺伝改変室であんたは……自分をファレトにそっくり作り替えちまってた。気づくのが遅かった! 気づいてたら何がなんでも止めてたのに! ああッ! クソッタレだ! 頼れるあんたがそうなったからもう一人絶望して消えたよ!」
「つぁ……ツァーク……」
「その声で俺を呼ぶなクソ女ァ!」
腕を千切れるような勢いで振り払った。するとティファに当たって、いい音がして、最後にガキが倒れてた。
顔を押さえてる。
壁を殴った時に出たオレの血が、思い切りのいい画家がキャンバスに塗った絵の具みてえに、ティファの、子どもの顔にべっとりと付いた……。
「へへへへへ……わかったろう、ティファ。俺は寝ちまったんだ。寝たんだ。お前の……ああ、お前の死んだガキとヤったんだ! お前はその身体で! ファレトとして俺に迫りやがった! 俺はは解っててヤったんだ! 俺たちは死んだガキを犯したんだよクソ女! 俺たちは一緒にいたらだめなんだ! 最低最悪の罪人だ!」
俺は言い切って、部屋を飛び出した。
もう終わった。
全部思い出して正気に戻れば、ティファは生きていけない。そうなりゃ俺が取り残される。それだけは御免だ。オレは巻き込まれたんだ。確かに俺も悪いが、自分の息子を冒涜したティファの方が罪が重いだろ。もうたくさんだ。俺が先に死んでやる。取り残されるのはティファだ。いや、これはむしろ慈悲だ。そもそもあいつが正気に戻る保証はない。俺はが消えてもまた狂って都合よく記憶を変えて生きてく可能性の方が高いだろ。だったらまともなあいつを残した方がいい。俺が消えた方がいい。俺がいたらまた過ちを犯すだけだ!
遺伝改変室に着いて、俺は震える手でパスコードを入れた。ここで俺の寿命を縮めればいい。延命措置が施された身体を変えれば楽に死ねる。みんなもそうやってたんだ。
長いパスコードを入力し終えて、吐き気をおさえながら扉をくぐった。入ってすぐに、邪魔されないよう部屋にロックを掛けた。
暗い銀色だらけの機材がひしめく部屋。
一番大きい制御パネルの直上の壁にはここに似つかわしくない子どもの絵がいくつか貼られてる。乗組員たちの子どもの絵だ。せめて壁だけでも明るくしようってティファが提案して貼ったんだ。小さい時のファレトの絵もある……。
部屋の中央に高さ3m横幅2mの巨大な円柱形のタンクが3つある。あれが遺伝改変機の要だ。パネルを操作して、タンクのひとつに入れば終わりだ。
ついに俺の番だ。
俺はよくやった。
よくたえた。
もう十分償った。
任務は果たせなかったが、それは俺のせいじゃない。
俺が償うべき罪は償いきった。
さあ、終点だ――
――機材をいじろうとタンクの目の前にまできた時、俺は気づいた。
表面が埃まみれで、タンクの中は見えづらかった。
だが、見えた。
俺は固まってた。どのくらいそうしてたかはわからないが、とにかく、真ん中のタンクを見てた。
わけがわからなかった。
ようやく俺は腕が動いた。
ブリキ人形みたいなぎこちなさで、タンク表面の埃を袖で拭いた。
すると、はっきり見えたんだ。
タンクの液に全身浸かって膨らんでグジュグジュになった人間の、その死体が。そんな状態でも俺には誰かわかった。
――ティファだ。
ティファがタンクの中で死んでやがった。
「ひ、ヒャァァッ……!」
俺は今さら腰を抜かした。
あり得ないことが起きてる。
ティファはファレトになったんだ。このタンクにいるはずがない。
ファレトになったのをちゃんと確認した。確認したのは俺だけじゃない。死んじまったあいつも確認した。だから自殺したんじゃねえか!
しかもこの損壊した状態は、ずいぶん前にタンクの中で……
「ああ……ありえねえ……!……どういうことだ……!?」
だって、だって、ティファがここで死んでるなら、それが本当だっていうなら……あいつは?
あの、ファレトは……?
俺がさっきまで話してた、俺が触った、俺がヤったファレトは誰なんだ!?
「ツァーク」
「うわァァァァァ!」
――いる。
扉の向こうにファレトが――いや、誰だ……お前は誰なんだ……?
扉を叩いてるお前は誰なんだ……!?
「ツァーク。ツァーク。出てきてくれ。落ち着いてもう一度話そう。混乱しないでくれ。出てきておくれよ」
「来るな! お、俺の名前を呼ぶな!」
「ツァーク。安心して。大丈夫だ」
「いやだ! 来るな! た、助けてくれ誰か! 誰か! 誰か助けてくれ!」
俺は床を這いずるように部屋の奥へ奥へ逃げた。
あの声から離れたかった。
あの声が聴こえないように叫びまくった。
そうして行き止まりになった。
ここが一番奥だ。
そこは、窓だった。
顔ほどの、小さな窓があった。
今まで避けてた、覗くと気が狂いそうになる景色が見える。
全くの暗黒。
星の影も形もない、虚無の宇宙……。
俺は何度も窓を叩いた。
逃れたくて、何度も何度も何度も何度も……窓はヒビひとつ入ってくれなかった。
もう進めなかった。
「助けて……助けてくれ……メーデー……メーデー……誰か…………遭難、しちまったんだ…………」
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