居酒屋『超鳥跳(ちょうちょうちょう)』の座敷で、二古光治は酒の品目を一つずつ眺めながら只々ひとつのことに思いを馳せていた。曰く言い難い不安。それである。もちろん二古が内心でこんなふうに言語化しているわけではない。だから彼を含め世界の誰の心にも耳にもこの言葉が聞かれることはない。
曰く言い難い、とはつまり二古にも正体を掴むことが出来ていないということ。ようするに自分が何に対して不安を抱いているのか分からない。それだったら悩むだけ無駄。そう考えたいが不安は不安。
つまり、ようするに、だから、もちろん、それだったら。接続詞ばかりの文章はかったるいかもしれない。内心で思考する際にもそれは同様。わざわざ文章じみた思考をする必要はない。それでも二古は文章的に思考する。
俺は一体何に対して不安を抱いているのだ。何なのだ、このもやもやは。どうにも分からない。果たして、何が俺の中で引っ掛かっている。やはり、仕事か? しかし仕事は順調だ。それならば人間関係か? いや、それだって問題は特にない。
二古は目の前に並ぶ面々を見る。同じ職場の人間たちだ。
スーパー『タカヤマ』。それが二古の勤め先である。
目の前に座るのは店長の広田。二古は彼女のことを広田女史と内心で呼んでいる。
広田女史はクールだ。寡黙なわけではない。笑顔を見せない。時折ニヤリとする。切れ長の一重。その目で見下ろされ、ニヤリと笑われる。するとすべてを征服されているような感覚を抱く。その感覚が恍惚に似ていることに戸惑う。
広田女史に征服されること。そんなことを望んでいるわけではない。喜んでいるわけでもない。しかし嫌な気分でもない。
これは恐るべき能力だ。二古はそう評価している。周りの従業員たちはどう感じているのだろうか。彼女に征服される感覚に痺れているのか。確認してみる程には、二古は職場の人間に解け込んでいない。
広田女史はエリアマネージャーの悪口を度々口にする。真っ当な意見ではなくてただの悪口だ。馬鹿だのアホだの。エリアマネージャーは果たしてアホなのか。二古にはまだ分からない。
広田女史の右手親指にはリングが光っている。シルバーで幅の広いリング。花柄のような模様が黒くデザインされている。仕事中も着けていて、エリアマネージャーはじめ本部の人間から訪れる度に注意されている。ところが一向に外す素振りを見せない。
何を気を抜いてるの。
広田女史は私生活をイメージさせない。働いている姿しか頭に浮かばせない。
さっさと酒を選びなさい。
もちろん今は制服のエプロン姿ではない。私服。黒い無地のTシャツを着ている。華奢な上腕は白い。一体何歳だったっけ、と二古は頭を悩ます。
二古くん、聞いてるの?
はい?
さっきから広田女史に声を掛けられていたということにようやく気付いた。メニュー表から目を上げ、彼女の顔や周りの同僚を見回してばかりいたもんだから、注文がまったく決まらない。そのことに痺れを切らせたようだ。
「だからさっさと酒を選びなさい」
「失礼しました」
酒の品目を眺めていく。何を飲んだらいいだろうか。もうビールは飽きてしまった。三杯も飲んでしまった。
それにしても、と二古は再び考える。
俺のこの不安な気持ち。得体が知れん。原因不明の不安ほど不気味なものはない。根本原因を潰すことが出来ないのだから。
一年前にこの町に引っ越してきた。新しい職場で働くためだ。俺はそれまでのフリーターから一歩前進、正社員になって今の店舗に配属されたわけである。新たな生活、新たな人生。門出。人生新章。
スタートから順調だったではないか。フリーター時代に重ねていたカードローンだって返済は滞りなく進んでいる。広田女史からの評価も悪くないと踏んでいる。職場の面々と深く仲良しになっているわけではないが、別に仲がこじれているわけでもない。互いに仕事仲間の信頼感を構築して働いている。
それでは一体何が、俺をこう靄みたいなもので包んでいるのか。靄の出どころ。
二古の目は店内の壁に貼られたメニュー表に向く。行儀正しく並んでいる文字たち。品目である。串焼きやらネギ豚やらアスパラコーンやら色々書いてある。別の壁に目を移せばそこには酒の品目が並んでいる。漢字二文字の名前が何の酒を指すのか二古には分からない。メニュー表の紙は黄色く薄汚い。ぼろぼろにやつれている。しかし文字は規則正しく並んでいる。紙に破れたところが見受けられないのは感心すべきところである、と二古は感じる。
よそ見してないで。
座敷席のため、前にも隣にも別のグループのテーブルが並んでいる。二古はそこに座る客たちも眺めていく。
随分と顔を赤くし、必要以上に笑っている者たち。顔が崩れ落ちるぞ。そう心配したくなるほどの笑い顔。なるほど、これが会社員たちの酒の席。なぜなら周りはスーツ姿ばかり。二古は学んだ心境だった。自分が会社員になった今、外からも内からも会社員の心持ちが理解できる。社会人として二古が正式なデビューを飾ったのはこの町に越してきたのと同じ一年前。二古は今二十七歳。つまり二十代前半をフリーターで過ごしていた。
作家志望。それが以前まで彼のアイデンティティとなっていた言葉だ。夢破れ、『タカヤマ』の正社員となった。
夢破れ?
俺は本当に夢に破れたのだろうか。
既に二古の視点はどこも見つめていない。天井と酔客たちの頭の、その中間地点あたりにぼんやり向けられているだけだ。
夢に破れるとはどういうことなのか。二古は分からなくなる。
よそ見してないで、さっさと決めなさいってば。
突然の声に、彼は我に返る。視線を落とせば広田女史と視線がぶつかる。
いつまで悩んでるの。さっさと決めなさいってば。
広田女史は指をさして言う。指は二古が持つメニュー表に向けられている。
二古はまだ少しぼんやりしている。
いつまで悩んでるの、か。彼は広田女史の言葉を脳内で反芻する。もちろんそれは周りにいる同僚含め誰にも聞かれることのない声。二古の内心の声だ。
俺は一体いつまで悩んでいるのか。しっかりせよ。俺よ。
二古は手許のメニューに目を戻す。知らず知らず、握る手に力が入っている。二古自身はそのことに気が付いていない。
「ウイスキーのストレートで」
二古は彼なりに力強い声で言った。
バカじゃないの、ストレートはやめときなさい。どうせ飲み慣れてないでしょ。
広田女史にたしなめられた。
二古はひるんだ。
「ハイボールで」と言い直す。
(了)
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