僕のモンスター

幾島溫

小説

3,409文字

ライム色の目をしてしっとりした黑い頭を持つ僕のモンスターの話。

僕の心の穴からモンスターが顏を出してがじがじがじがじ穴を喰ひ破つてどんどん擴げるし、勿論それだけぢや物足りなくて美味しさうな獲物を見附けると、暗闇から目を光らせてバッと素早く腕を伸ばして、さう丁度君みたいな子を捕まへて引きずり込まうとするわけ。ところが君を含めて大體殆どみんな僕のモンスターなんかに取つ捕まる程やわぢやないんだよね。美味しさうな獲物程尚更さうで、勘が良いのか體力が在るのかはたまた兩方なのかいづれにせよみんな素早く逃げちやふから、實のところ僕の怪物は一度も狙つた獲物をゲット出來た試しはない。
ところがね時々居るんだよね。自ら食べて下さいつて言ふ人が。爪先から恐る恐る穴に入らうとしたり、頭から突つ込んで行つたりと入り方は千差萬別だけれども。
でもさういふのつて大槪美味しくないみたい。腹ぺ此のモンスターがあの子たちをえいっと押し返す前に心の穴の斷面にある傷がビリッと嫌な痺れ方をするからあーこりゃダメだなつてさすがの僕にも分かるつてもんさ。
そんな時僕はほつとする。此のモンスターにも分別が在つたんだなつて。最後の一線はなんだかんだで守つてるんだなつて。
でもね昔はほんとに酷かつた。
食べられさうなものなら何でも食べようとして居た。あの食慾は凄かつたな。「マズいもの以外全部美味しい」だなんて言つてさもポジティブシンキングつぽく威勢の良いうめき聲を上げて居たけれど。その結果、あいつ惡いモノを詰め込みすぎて吐いちやつた。酷く非道く吐いて半年だか一年だかしくしく泣いてたつけ。
あれに懲りてからはあいつは美食家になつたみた居たよ。とは云へ以前に比べたらだけど。それに關しては僕もちよつと安心してる。やつぱマズいものが通つていく時に心の穴の切り口の乾いてゐない傷にずるるるるつて擦れるあの感じがたまらなく氣持ちが惡い。小さなかさぶたが剥がれて血が滲んで、そしてまたちよつとのことが沁みるやうになつちやふし。ろくなことがないね。
あいつはひとまづ空腹が埋まればご滿悅みた居たけど、こつちとしてはさういふことを繰り返されてたらいい加減身が持たないなつて思つてたんだ。
實を言ふと僕は長い閒、心の穴から腕を伸ばす者の正體が良く分かつてゐなかつたんだ。ひよつとして僕は千手觀音かなんぞの素質があつて二本以上腕があるのかもしれないくらゐに思つてた。つまりテキトー。でも實際のところはあいつのパワーに壓倒されて居ただけなんだよね。弱って居るところから、抗ひ難いエネルギーが湧き出てあつといふ閒に僕を包むんだ。いつも。いつもつていふか、君みたいに美味しさうな獲物を前にした時の「いつも」だけど。
僕があいつを「モンスター」だと認識したのはあいつが初めて吐居た日だつた。それまでは何か居るのかも知れないけれどそれが何なのかまつたく分からなかつたんだから。
普段のあいつは心の穴の裏側にじつと身を潛めて隱れて居るんだけれど、穴のサイズに合ひさうな美味しさうな獲物を見るとあつといふ閒に飛び出して、僕の目を塞いで口を押さへてさうして獲物を引きずり込まうとするものだから、正直僕には何が起きて居るのかちやんと分かつてはゐなかつた。
ただね、穴に觸れた時の感觸だけは分かるんだ。
勿論モンスターが捕食することに成功したことはないのだけれど、何かの拍子に獲物が二の腕くらゐまでズルズルぬぽって入つちやつたりするわけよ。
その時はたまらなく氣持ちがいいんだ。
腰がふはつとして脊髓を甘ったるい髓液が逆向きに驅け拔けていくやうな感じ。いやごめん、髓液ってよく知らないけれど。
だからあの時の僕は內心モンスターのことを應援してた。どーにかなるならーなつちまへーって。でもやつぱさういふのつて良くないよね。表面上は怪物に加擔もノー加擔もしなかつたわけだけど、そのお陰で穴の切り口が傷だらけになつちやつて益々モンスターが住みやすくなつてたみたい。
ばかな僕。
って自分を貶めたいわけぢやない。そんなものは今はいらない。
ぢやなくてね、僕が云いたいことは……。
思ひ出した。
僕があいつの存在を認識した時の話だつたね。あいつの姿を見ることが出來たのはあいつが惡いものを食べ過ぎて、酷く吐いて居た時だつたんだ。いつもなら穴の裏に隱れて獲物を捕らへるチャンスを待つて居るのに、あいつと來たら穴の裏にも何處にも隱れず僕から丸見えの場所でお腹を押さへて子供みたいに泣きながら七顛八倒して居た。
何だこいつ、って思つた。
此樣な奴、僕は知らない、って。
眞つ黑けの姿でさ、眼球がライム色でさ。あ、いや、見ようと思へば本物を見ることは出來るけど、君は顏を見せない方がいい。本當に、絕對に。
その時僕はやっと分かつたんだよね。穴から腕を伸ばして居たのは僕が千手觀音とかだからぢやなくて此奴が腕を出して居たからなんだつて。「まずくなければなんでもおいしー!」つて住めば都みたいな調子の言葉が時々細胞に響くのは、こいつが叫んでたせゐなんだなつて、それも分かつた。
ちくしょーガッテムよくも僕の人生を振り回しやがつて! と思つたけれど蹴ることなんて出來なかつた。だつてモンスターのライム色の瞳は餘りに哀しみを帶びて居たからさ。哀れさうな目つきで僕をちらりと一瞥するとモンスターは目を反らして地面の上を見る。心の穴から流れ續ける鮮血で染まつた地面の上を。
その顏を視て居たら僕も何だか悲しくなつて來ちやつたんだ。でも一回だけ「お前かよ、ばーか」つて輕く頭を叩居たけれど。怪物は「ぐすん」つて云つて鼻水をすすりあげることを返事の代はりにしてたつけ。
その日から僕とモンスターは少しづつ仲良くなつたよ。お互ひの顏を見詰め合つたり、あいつの濕った背中をさすつてやつたり、僕なりにあいつを手なずけようとして居たんだ。だつてあいつが大人しくなつたら、僕の心の穴のカサブタが剥がれ落ちることはもう無くなるだらうからさ。だからまづはあいつと仲良くならうとしたんだよ。
本音を言ふと何れは出て行つて貰ひたいけどさ。ま、出て行くにしても元氣にならなくちや難し居たろつてことでね。それなりに可愛がつて居たんだ。
僕が優しくした甲斐もあつてモンスターは恢復した。恢復したけど、以前よりずつと大人しくなつて心の穴の裏側から顏を覗かせたり、ど眞ん中で晝寢をしたりして僕の前から姿を隱さなくなつたよ。
でもね、やつぱりモンスターはモンスターだよ。
時々衝動が出ちやふみたいなんだよね。例へば君みたいに本當に美味しさうな女の子を見附けると、我慢が出來なくなつて腕を摑んで穴の中へ引きずり込んでむしゃむしゃ食べちゃ居たいんだんつて。さうして君の血肉で身體をデカくして、殘つた君の白い骨で此の心の穴を塞がう、って僕に囁くんだ。
當然僕はそんなの嫌だよ。
噛み碎かれて粉々にされて形を變へた君が、例へ僕の中に居たとしてもそんなの全然嬉しくない。
だつて君は僕とは全く違ふ聲で歌ふから美しいのだし、僕の豫想を裏切る表情で僕の知らないことを話すから樂しいのだし、君の感性は世界をきらめかせる萬華鏡なんだ。そんな君を怪物が消費して仕舞つたらもう、それきり。君は永遠に僕の中から出られずに、君らしい色は此の世から潰えて仕舞ふ。
「あの子の骨で此の穴を塞がう」
それがどんなに甘美な囁きであらうと、僕は斷固として拒絕し續けるよ。僕の傷に君の骨が觸れると、きつと冷ややかで傷口の熱はすぐに引くと思ふ。けれどそんなのは要らない。それに僕は僕の熱や痛痒を感じ續けるのも惡くないつて氣がしてる。だつて此れは僕だけの痛みなのだから。
でもね何かの拍子に例へば僕がひどくくたびれて居る時なんかに、その隙を狙つてモンスターは俊敏に腕を伸ばさうとするんだ。以前ならすぐに視界を遮られて僕は何が何やら分からなくなつて居たけれど、今ならもう大丈夫。あいつの正體が解つたからすんでの所であいつを止められる樣になつたんだ。
でもね、やつぱり時々怖いんだ。
僕はまた何時かあのモンスターに目を塞がれて、身體を奪はれて仕舞ふんぢやないかつて。
本當にイヤだ、いやだ、そんなのは嫌だ……。
僕は此のモンスターが穩やかに暮らすことを願つて居るよ。心の穴の向こうから、ただ僕と君のことを見てゐて欲しい。さうして僕は時々あいつのしっとりした黑い頭を撫でてやる。
きつと、きつと幸せになれると思ふんだ……。
 
 

2024年6月14日公開 (初出 2014/7/31  個人ブログ(現存せず))

© 2024 幾島溫

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