グランド・ファッキン・レイルロード(3)

グランド・ファッキン・レイルロード(第3話)

佐川恭一

小説

3,825文字

ベージュのチノパンに我慢汁が染みでることより情けないことってありませんよね。

私は次の山科駅までのわずかな時間眠ろうとしたが、突然四度の銃声が聞こえ飛び起きた。私もよく行く中華料理チェーン店を運営する大企業の社長が射殺されたということが警察官からのテレパシーでわかり、私は近隣で殺人事件が起きたという衝撃的事実に震えに震え、脚が綺麗だなとずっと思っていた隣の女性の太ももを黒のストッキング越しにぐっと掴んで恐怖に耐えていた。痴漢行為だと勘違いされる可能性のあることはもちろん認識していたが、そうすることでしか乗り越えられない種類の恐怖が世界にはあるのだ。女性の顔ははっきりと確認できなかったが、名前は恐らく小島瑠璃子だろう。しかしテレパシーの伝わり方があまりにも微弱で、実は前田敦子であるという可能性もあったし、ほんとうは山本彩であるという可能性も捨てきれなかった。彼女は太ももを触られていることにはまったく抵抗を見せず、むしろ逆に何もわからない私の股間をベージュのチノパンの上から優しく、時に激しくさすりながら言った。あわてた私はチノパンに染みができて周囲から笑われないよう、正面に座っている、数々の最強伝説を残した黒沢という中年親父を凝視し、なんとか興奮を鎮めた。
「あなた、さっき目の前で老人が四人焼き殺されたときには微動だにしなかったくせに、遠くで一人撃ち殺されたことがそんなに恐いのね?」
「は、はい……目の前で起きたことがまるでテレビの向こうのことのように感じられ、テレビで観ていることがまるで目の前の現実のように感じられる、僕にはそういうことがよく起こるんです」
「その感覚は間違っていないわ。もはや現実は過剰に蓄積されあなたたちの認識を窒息させているの。目の前で起きた衝撃的な現実は現実としての鮮度があまりに高く、あなたの中の空白の部分におさまりきらず――なぜならこれまでに経験し体験してきた多くの現実たちが積み重なってあなたの中の少なくない場所を占拠しているから――処理されることなく破棄され、ヴァーチャルへと降格してゆく。逆に、遠くの銃声は現実としての鮮度が低く体積が小さいから、あなたの中に残るスペースにまだおさまることができ、処理対象として見事に生き残ったというわけなのよ」
「ちょっと何言ってるかわかんないんですけど」
「なーぎーさでっ♪ いーちーばんっ♪ かーわーいいーGIRL♪」
「は?」
「あーなーたはー♪ どーのーこをー♪ ゆーびーさすーのー♪」

一瞬何が起きたのかわからなかったが起きたことをありのままに話すと、突然隣の女がNMB48の『ナギイチ』を歌い出し、服を脱ぎあられもない水着姿になっていた。しかしストッキングは穿いたままでそれがとてもいやらしいバニーガールのように見えて、私は触られていないのに思い切り射精してしまいながら、「つまりこの子は山本彩だったんだな」と考えた。しかし『ナギイチ』を歌っているからと言って彼女を山本彩と断定することにはやはり論理的飛躍があり、前田敦子が『ナギイチ』を歌うことはあるだろうし、小島瑠璃子にも同じことが言えるだろう。結局のところ彼女が誰だかさっぱりわからないままだったが、とりあえず私はチノパンに染みができないよう、腰を巧みに動かし精液を一か所に溜めないようにした。まだ山科駅には着かない。再び激しい眠気に襲われ、私は目を閉じた。射精の後はいつも眠くなるのだ……

 

 

何故かなかなか辿り着かなかった山科駅にやっと到着し、ばらばらと入って来た数名の人間の中に香川照之がいたようだったので、私は飛び起きた。もう少し眠っていたかったのだが、香川照之は私と同じ高校から、東大文Ⅰに現役合格したエリートなのだ。起きないわけにはいかなかった。
「よう、ハイゼンベルク永田ディックKフランシス」
「おう、香川」
「お前何してんだよ、こんなところで。さっさと来年度の東大対策を始めろ、そうしないとまた落ちるぜ」
「うるさいな、俺はすぐに頭を切り替えられるほど強い人間じゃないんだ」
「だろうな、頭の切り替えは受験に不可欠な能力だ。特に東大に現役合格するにはな。お前みたいな凡人にはぼうっとしている無駄な時間が多いのさ、小休憩も意志の弱さで伸び放題、当然完成度は落ち受験には間に合わなくなる。お前にはあと一年、もしかしたら二年必要になるかもしれないぜ」
「ご忠告どうも」

彼の歯に衣着せぬ物言いに私は著しく気分を害していた。
「なんだ、ほんとうに浮かない顔だな」
「受験に失敗して、へらへらしてられるかよ。俺だって俺なりに」
「俺なりに?」
「頑張って……」
「アッハハハハハハハハハ! ハァーッハハハハハハハハハ!」

香川がいきなり大声で笑い出したので、車内の人間たちは皆こちらを見た。あんなに激しく人間を笑わせるなんてあいつはどんな面白いことを言ったんだろう、というような顔で。
「お前が頑張っただって? ほんとうに頑張った人間は東大実戦や東大オープンでBやらC判定のまま受験を迎えたりしないはずだぜ。お前は中途半端なんだ。そりゃあ、そこらのフツーの大学を受けるには十分な努力だったかもしれないさ。しかし、東大を受けるには足りなかった。お前はほんとうに全力を出していなかった、そうだろ?」
「いや……」
「お前には悲しむ権利がない。落ち込む権利もない。お前の態度は、ほんとうに頑張った人間に失礼なんだ」

私は押し黙った。腹が立ったが、香川の半端ではない努力量を間近で見ていた私は、彼の言葉に説得力を感じざるをえなかった。彼は高校の休み時間のほとんどすべてを勉強にあてていたし、通学路でもずっと教科書や参考書を読み何度か車に轢かれかけたし、一度はほんとうに轢かれ足の骨を折った。足を折り流血していた香川は、「痛ぇ、痛ぇ」と言いながらも山川の世界史用語集を絶対に放さず、「ディドロ、ダランベール」などと取り憑かれたようにぶつぶつ唱えていた。私はその時、こいつはただの受験馬鹿で、こんな異常な人間が社会に出て通用するはずがない、みなこいつを異常性のために排除するので、こいつは職場で独り浮いて、その能力も実務において全く機能しないだろうと思った。しかし実際に東大模試ですべてA判定を取り、現役合格も勝ち取った彼の目標を確実に達成するための執着心というものは、きっと将来何かを成し遂げるエネルギーの源になるような気が、今の私にはしていた。たとえ周囲からどう思われようと、彼は彼の目標を必ず撃破するだろう。それが個人のための目標になるのか、組織としての目標になるのか、彼が社会性を得られるかどうかのポイントはそこにある。他者との連携というものをした経験がこいつには恐らくなく、社会貢献の欲求や、利他的な思考回路も、こいつの中には恐らくない。今後そこがどう変わっていくのか、または変わらないのかが、香川の社会的ポジションを大きく異なるものにするだろう……
どちらにしろ、こいつには関係がないのかもしれないが。
「なあ、次も東大を受けるのか?」
「たぶん」
「文Ⅰだろうな」
「そのつもりだけど」
「そうか、先に東京で待ってるぜ。俺は、お前を受験に向いているとは思わないし、どこまでも中途半端な人間だと思ってる。だが、お前にはひとを惹き付ける魅力がある。もし東大に合格して官僚になっても、お前はエリートらしくなく、みんなに親しまれるような、そんな良い官僚になるという気がするんだよ。俺はお前をその面でのみ評価している、一緒に東大で昼飯を食える日を待ってるぜ」

香川はそう言い残し、私の返事を待たずに京都駅で降りていった。その駅では誰も、私に関係しそうな人物は乗り込んでこなかった。
私のことを香川は過大評価している。私はただ自分に対する自信のなさのために人当たりがよいように見えているだけだ。それを彼は『ひとを惹き付ける魅力』と勘違いしているのだ。私が他者を誹謗中傷しないのは、自分が誹謗中傷されないためだ。攻撃を受けた人間の、牙を剥く瞬間というのが怖いからで、私は幼稚園に通っていた時から、殴り合いのケンカなどが始まると先生を呼びに行く係だった。自分の属するグループや仲の良い友人が窮地に立たされようと、相手と戦うことをしなかった。
「ハイゼンベルク! お前もやれよ!」

何度も何度もそう言われたものだったが、私の足の向くのは先生という絶対的権力者の方だった。殴れば殴られるから、殴らない。私は、自分が攻撃を受ければ、身体的にもまた精神的にもすぐに崩れ去る弱い人間だということを、幼いころからよく知っているのだ。しかし、時には戦わねばならないときもある。どうしたって人間には避けられない戦いがあり、どんな弱者もそこではプライドを見せるはずなのだが、私の弱さはおそらく、たとえば自分の恋人が道端でチンピラに絡まれ犯されそうになっても、我が子が川で溺れそうになっても、自らが傷つく危険を冒してまでそれらを守ることはない、といった重篤なレベルのもので、これは生まれながらに組み込まれた弱さの遺伝子――卑怯の遺伝子の仕業だろう。この問題を遺伝子のせいにしてしまうあたりも、私の卑怯な傾向性を証明している。

私は両手で頭を抱え、突発性鬱病を食い止めるためにできるだけ明るい歌をくちずさんだ。

 

ナーギーイチーはっきーりーしよーじゃーないかー♪

なーつのー♪ こーいはー♪ だーれとー……だーれとー……

すーるっ♪

 

 

第三章・完

2015年7月3日公開

作品集『グランド・ファッキン・レイルロード』第3話 (全17話)

© 2015 佐川恭一

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