工場見学

合評会2023年01月応募作品

松尾模糊

小説

3,744文字

ある日、株式会社アボカドカンパニー有する加工場で起こった出来事。合評会テーマ「アボカド」参加作。

アボガドってさ、なんで森のバターって呼ばれてるか、知ってる? 彼女がそう言ったとき、アボガドではなく、アボ「カ」ドである、と強く指摘しておけばよかった。彼女はこれからもアボカドのことを“アボガド”と誰かに指摘されるまで呼び続け、恥をさらし続けてしまうだろう。なんと罪深いことをしてしまったのだ。ところが、彼女にほのかに恋心を抱いていたわたしは、アボガドロ定数というものがあってね、それはつまり……と、あろうことか何となく彼女の間違いを示唆しつつ彼女自身に気づいてもらおう、あわよくば、そのさりげない優しさで彼女をときめかせることも可。と卑しい下心をさらけ出してしまったのだった。彼女の手にはアボカドが両手に二つ、軽く握られていた。わたしはその一つを受け取り、ナイフの刃をでこぼこした皮の面に立てて真っ二つに割る。真ん中の丸い種に刃元を刺して取り除いてから皮を手で剥いていく。アボガドロ定数? 彼女は新たにアボカドを二つ段ボール箱から取り出して、瞼を開いて大きな瞳をのぞかせた。物質量を構成する分子、原子、イオンなどの定数を1mol(モル)とすると、その値は6.02214076×10の23乗、mol-1乗となる。イタリアの科学者アメデオ・アヴォガドにちなんで名づけられたんだよ。と薄茶色の虹彩が映える彼女の瞳に見とれながら恍惚と得意げに口走りつつ、違う……そんなことはどうでもいいんだ。アボカド、これはアボカドなんだと、わたしは心の奥底で叫んでいた。そんなわたしたちを横目に皮をむかれたアボカドたちはベルトコンベアに乗って転がり続ける。それは何に使うの? 彼女の質問に、わたしは手を止めた。アボガドロ定数の使い道? 物質量を計量するために基準が必要になるでしょ? 合っているのか? ふーん……彼女は納得していない表情でアボカドを段ボールから取り出した。まずい! 彼女に不信感を与えている……どうしよう、なんとか信頼を取り戻さなくてはならない。ほら、キログラムっていうのは世界共通で使われているじゃない。たとえば、アボカドは皮や種などを取り除いて人間が食する部位を考えると大体一五〇グラムくらいだと言われているんだよ。それは一・五キロの十分の一であって、その重量をもとに卸値なんかは決まるわけだね。そういう風にさ、原子みたいに質量を物理的に計ることができないものに対してモルっていう単位は有用なんだ。アボガドのカロリーって、お米より高いんだよ。だけど、糖質はめっちゃ低いからダイエットに最適なんだって。醤油かけて食べるとおいしいよね。“アボガド”じゃなくて、ア ボ カ ド ! くっ、また振り出しに戻ってしまった……。へえ、知らなかった。わたしは心の中でかぶりを振った。
男はアボガドを手に取って、切って、皮を剥いていく。森のバターと呼ばれ、極めて高い栄養価を誇る果実。アボガドは野菜っぽいけど、いちおう果実なのです。こっちの質問に答えず、ひたすら己の知識をひけらかす奴、嫌いだなー。女は口にも顔にも出さずにひたすら心を無にしてアボカドを男に渡し続けている。単純に地獄だわ。まじ無いわ。アボカドロ定数? はあ? そんなん一生知らんでも生きていけるわ。まじ何なん? お前はまず自分が食べとるもんのカロリー計算から始めろ。メタボやめろ、マジ。つーか、何歳かしらんけど、こんな糞溜めみたいな工場でへらへらしながらアボガド剥き続けて何しとるん? 終わってんな。あー、ダメだ……なんか別のこと考えよう。これ終わったらセイラちゃんとご飯だわ、はよ終わってほしい。セイラちゃん今なにしてるんやろ? あの子実家太いしな、まだ寝とるんかな? 天蓋付きベッドとかに寝てそう……城じゃん。ウケる! そういえば、セイラちゃんに貸しとった『学ラン太陽』三巻、まだ返してもらってないな。はよ返してくれんかな。太陽光太郎と水星濡れ次郎のハッテン、もう一回読みたいんだけど。金持ちって全然おごってくれんし、金勘定以外はけっこうルーズだったりするんよなあ。あんま金持ちに会ったことないけど。女はそんなことを考えながら、段ボールの中にあった最後の二つを手に取り、冴えない男に手渡した。アボカドはでこぼこした深緑の皮を剥かれて鮮やかな黄緑色の果実を露わにしたまま、ベルトコンベアの上を流れていく。鉄製のトンネルのような機器の入り口から垂れ下がったゴムのビラビラに軽く撫ぜられて暗闇に消える。
あいつら、ずっとしゃべってんな……。工場長はガラス張りになった階下のラインを眺めていた。
「活気があっていいですな!」工場見学に来ている株主の一人が機械音に負けないよう大声で叫んで彼の背中に呼びかけた。工場長は振り返って、マスクとビニールキャップの間からのぞく目を細めて頷いた。なんもわかっとらんな。たまーに現場を見るだけで、自分たちがよき理解者であるようなでけえ面しやがって。腐ったアボカドみてえな奴らだ。なんで俺がお前らの優待と利ザヤのために、こんな無駄な時間をあてなきゃならんのか。工場長は工員に対する苛立ちを引き金に、ずっと抱え込んだ黒い感情をあふれ出させるに任せた。では、直接その活況をお目に見せましょう! 工場長は半ばやけくそに叫んだ。
「おお! いいんですか? 一般立ち入りは禁止されとるでしょう」株主たちはがやがやと顔を見合わせながら遠慮深い様子を見せた。ハッ! 笑わせてくれるな。いまさら遠慮とかすんなや、腐ったアボカドどもが! 工場長はテンションが完全にイカレた様子で肩を震わせて笑うのを堪えていた。いいんですよ、遠慮しないで。ほら、なんたって株主様は神様ですから!
どう軌道修正しようか、悩みつつアボカドをベルトコンベアに乗せてから顔を上げると、彼女の後ろ、緑のペンキがはがれ落ちて錆びついた階段を半透明のビニールキャップとビニール合羽を身に着けた人たちがぞろぞろと下りてくるのが目に入った。先頭は工場長だ。わいわいと騒がしくそれぞれが話していて、わたしは思わず手を止めてしまった。つられるように、彼女も振り返って彼らを眺めた。
「いいんだ! 続けて、続けて!」工場長はビニール手袋に包まれた手のひらを向けて叫んだ。女は段ボールからふたつのアボカドを手に取って、男に手渡した。男は頷いてアボカドの表面に刃を充てた。
「そっちじゃない!」工場長は叫んだ。男は顔を上げた。血走った工場長の目に、腰を引いた男の右手にあったナイフを工場長が奪い取った。ビニール合羽の上、マスク下に覗く頸動脈にナイフの切っ先が突き立てられ、鮮血がベルトコンベアを赤く染める。引き抜かれたナイフを持った工場長は立ち止った株主たちを次々と刺していった。
「腐ったアボカドは処分だ……」工場長のつぶやきを聞いて、女は思った。あ。アボカドだったわ。女は阿鼻叫喚のラインで、手元にあった非常停止ボタンを押した。それから身を翻し、工場長の右手に持たれたナイフの切っ先を回し蹴りで吹っ飛ばした。顔を上げた工場長の顎に左ストレートをめり込ませ、よろめいた工場長の手首をつかんでひねり倒してから首元に左足を引っかけて腕ひしぎ十字を決めた。おい、なにボケっとしてんだ? 警察と救急車よべ! 工場長の右腕を折らんとする彼女を眺めていたわたしは、あ、はい! とスマホを取り出した。あ……あのアボガド……あ、殺人事件です。場所、場所はアボカド加工場です。湾岸にある……そうです。ゴキリと音が響いた。工場長の右腕があらぬ方向へ折れ曲がった。工場長は泡を吹いて白目をむいた。女は息を吐いて立ち上がった。セイラちゃんとの約束間に合うかな? 女はスマホで時間を確かめて更衣室に向かった。洗面台で水栓をひねり、蛇口から出る水を両手ですくった。角の取れた石鹸は全然泡立たない。むかつくほどに。レモンの香りはきつく、人工的だ。女はため息をついて顔を上げる。右半分の顔が引きつっているように感じた。灰色のロッカー扉を開けてハンドバッグからシャネルのNo5を取り出して首回りと手首に振りかけた。ハンガーに掛かったジャケットを手に取って外に出た。パトカーのサイレンがけたたましく響いている。頸動脈を刺された男は助からないだろう。空を見上げると白い月がくっきりと浮かんでいた。今夜は満月か。アボカドってあんなに丸くはないな。もうアボカドはしばらくいいや。次のバイトは何がいいかな。その前に給料出んのか……一抹の不安を抱きつつ、女は停留所にある青いベンチに座ってバスが来るのを待っていた。
セイラはフリルのついた黒い日傘をさして外に出た。今日も良い天気。紫外線は気になるけれど、雨よりはマシかもね。彼女の前に停車した黒いベンツの運転手が後部座席のドアを開けて、セイラは日傘を閉じつつ乗りこむ。すぐさまスマホで株価をチェック。あ、アボカドカンパニーが暴落してるわ。損切するしかないか……まあいいでしょう。それより今日は何を食べましょう? アボカドの入ったカルフォルニアロールなんていいかもしれない。カロリーも低いし。あ、借りてた漫画忘れた。ま、いっか。また次会うときに返せば。セイラを乗せたベンツはゆっくりと庭園を抜けて車道へと出た。空には雲ひとつなく、お出かけ日和だ。

2023年1月21日公開

© 2023 松尾模糊

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"工場見学"へのコメント 13

  • 投稿者 | 2023-01-24 20:10

    実験性に富んでいる。「腰を引いた男の右手にあったナイフを工場長が奪い取った。ビニール合羽の上、マスク下に覗く頸動脈にナイフの切っ先が突き立てられ、鮮血がベルトコンベアを赤く染める」のくだりで、工場長が男性工員をまず刺したのだと勘違いしてしまったため、次の段落の「わたし」が最初誰だかわからなかった。

  • 投稿者 | 2023-01-25 08:19

    血走った工場長の目に、腰を引いた男の右手にあったナイフを工場長が奪い取った。

    この一文を二つに分けてもいいかもです。ちょっと工場長が最初の男を刺したんですよね。

    この小説読んで気づいたのですが、わたし、物語の主人公の行動を、自分の価値観的にアリかナシかでジャッジしてるクセがあります。次々視点人物が変わるので、そのジャッジ癖がめんどくさくなって、それで癖に気付きました。

    これからはジャッジを発動するかしないか選んで読書できそうなので、得るものが大きかったです。

  • 投稿者 | 2023-01-27 08:54

    のみのぴこのような話でした。私の印象。面白かったです。セイラっていう名前だけ腹立つけど。

  • 投稿者 | 2023-01-27 16:17

    おお、この饒舌体と洪水のような知識の氾濫、クセになります。アボガドロ定数の方はアボガドさんなんですね。由来紐解くと近縁の原語を持っているのか、それともオーストラリアとオーストリアみたいにたまたまなのか…

  • 投稿者 | 2023-01-27 21:28

    視点が途中で変わるのが松尾さんの特徴で、違和感を持つ作品もあるんですけど、今回のはとても良かったです。特に冒頭の男の豊富な知識とそれを活かせぬコンプレックスのギャップがいいです。女の方の漫画を返してもらえないボヤキも笑えました。
    それにしてもこの女は超現実路線のアルバイト生活者で立ち回りもできてそこそこ綺麗で金持ちのセイラちゃんと知り合い。殺人事件があったのに警察も待たずに現場をさっさと離れるし、その上シャネルの5番! キャラとして立っています。これからも使ってください。

  • 投稿者 | 2023-01-28 00:27

    そう言えばユリシーズについての連載をなさっていますが、ジョイス風のstream of consciousnessを意識しているのでしょうか。あくまで自分の印象ですが、意識の流れって内面の問題なんかもただの心理に還元してしまう、お前ら全体の部品でしかないんだから思いあがって大層なこと考えないんでいいんだよという大変20世紀的な思想を体現した手法のように思います。21世紀は人間の再発見をしたいですね。知らんけど。

  • 投稿者 | 2023-01-28 05:30

    アボカドを語る上で外せない「アボガド論」から始まり楽しかったです。
    核をえぐり出され、皮も剥がされて実をさらけ出しているアボカドに対して、工場で働く人たちの、はち切れんばかりの内面が覆われているのが印象的でした。
    (結局工場長は爆発しちゃったけど)
    個人的には、この女の子の仕事が段ボールから2個ずつアボカドを取り出して男に渡すだけなのか、というところが気になりました。
    あと読み終わった後に見ると、サムズアップの絵がやたらと怖く感じました。

  • 投稿者 | 2023-01-28 15:56

    視点が流れるように変化していく。最初は戸惑ったが、だんだんと心地よくなっていった。
    クセになる文体。たしかに、どこかジョイスを思い出した

  • ゲスト | 2023-01-28 17:59

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  • 投稿者 | 2023-01-29 20:00

    ドタバタコメディですね。
    女の子の口調がエセ関西弁?みたいなのもお気に入りポイントでした。
    女の視点になった時、空想の台詞部分以外の三人称でもアボガドになってるのはあえてでしょうか?

  • 投稿者 | 2023-01-30 00:02

    なんのこっちゃ小説は嫌いじゃないのですが、視点の移り変りがちょっと読みにくかったかしら。それと『学ラン太陽』をZIPで下さい。

  • 投稿者 | 2023-01-30 10:00

    わざとなんでしょうけど、視点が予告なく切り替わっていくかなり冒険的な文体ですが、これは相当上手くやらないといけないやつですね。ところどころ引っかかって読み直しました。また視点の切り替えではないですが、工場長にナイフを奪われる場面もちょっと混乱しました。
    株主(の娘?)のセイラと格闘女の今後が気になります。

  • 投稿者 | 2023-01-30 11:24

    ちょうど昨夜バイオレンスアクションの最新刊を読んだところだったので、コメディから流れるように暴力が噴出してもすんなり受け止められました。あとデストロ246もオススメです。

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