秋夜

桐崎鶉

小説

3,723文字

「茗荷谷」というタイトルにしようか迷いましたがやめました。第14回ノースアジア大学文学賞に応募していた作品です。

 

 

最初に停まった地上駅で、大きな秋刀魚が乗ってきた。車両が地下から地上へ出、同じ闇でも案外地上のほうが暗く感じるものなんだな、なんてぼんやり思っていたところへあんまり堂々と乗ってきたものだから、その秋刀魚が向かいのシートへ腰掛けるまで、それが秋刀魚であることにすら気付かなかった。

秋刀魚はその平べったい体の片側を正面へ向け、稲光のデフォルメのように窮屈そうに体を折り曲げながら、行儀よくシートへと収まっている。古井戸のようにぽっかりとした黒目と、黄色がかった白目で僕のことを見張っているように見えた(平らな体形と、目の付いている位置を考えると、そんな座り方でなければこちらを見ることも難しかったのだと思う)。電車が動き出し、薄暗いホームが窓の向こうを遠ざかっていっても身じろぐ気配はないから、どうやら自分の意志で尾鰭を使い歩行し、自分の意志で僕たちの向かいを占領したらしい。日曜の夜遅くというだけあって、車両にはほかの乗客はない。隣に座った兄は表情ひとつ変える様子はなく、スマートフォンを操作しながら、こちらも見ずに話しかけてきた。

「親父が、もう遅いから家で寝てくるんでもいいって。どうする?」

「え、明日どうすんの」

「朝いちで出れば余裕だろ。どうせ俺らとじいちゃんばあちゃんしかいないんだし、準備とかは職員さんやってくれるし」

「急に予定変えたら職員さんに迷惑じゃない?」

「別にいいだろ、メシ出してくれるわけじゃないんだから」

「書類は? 明日で間に合うの?」

「間に合うんじゃないの。知らないけど」

普段ならここで、じゃあなんでこんな夜中にわざわざ送り出したんだよ、明日でいいならそう言えよ、なんてぶつくさ文句を言い出しそうなものなのに、今日に限って兄は無表情で、液晶画面へ視線を落としたままでいる。少し間があって、おまえも疲れてんだろ、と呟くのが聞こえた。

少し考えて、父なりに気を遣ったのだろうか、と思った。ただでさえこの数日間ばたばたしていたのに、慣れない場所で、さして親しくもない母方の祖父母とともにひと晩過ごすというのは、僕たち兄弟にとって負担になることだと判断したのかもしれない。だからたいして急ぎでもない「必要な書類」を取ってこいなんて、意味の通らないことを言って僕たちを追い出したのだ。そして兄は、そんな父の考えを薄々察していたのかもしれなかった。僕は一メートルと少し離れた真正面に座る秋刀魚を見つめながら、じゃあ、そうしようかな、と言った。

兄は頷いて、父へ返信しているのか、またスマートフォンをいじくり始めた。手持ち無沙汰になってしまった僕は向かいの秋刀魚の観察へ戻る。車内の白い明かりを全身に浴びて、秋刀魚はその鱗を銀色に光らせ、陸に上がって久しいのか、体はなんとなく乾いているように見えた。尖った口は微かに黄色く、背は偽物みたいに鮮やかな青色をしている。目はまっすぐ僕を見据えたままで、なにか言いたいことでもあるのか、ときどき口と胸鰭が力なく動いた。やっぱり、秋刀魚だ。ずいぶん体長があるらしく、電車が揺れるたび、口の先が網棚へ、今にも突き刺さりそうに見えた。

たぶん、幻覚のようなものなのだろうと思った。秋刀魚が乗ってきてから、生魚独特の生臭さがこちらまで漂ってきているというのに、兄はその臭気にも、それ以前に目の前のシートへ生の秋刀魚が腰掛けていることに対しても、なんら反応を示さない(いくらスマートフォンへ齧りついているにしても、これに気付かないようでは日常生活もままならないだろう)。もの好きなひとが秋刀魚の格好をしているのかとも思ったが、それにしてはにおいが真に迫り過ぎているし、体があまりに平ら過ぎる。そうなればやはり、目の前にいるのはほんものの秋刀魚ということになるけれど、秋刀魚はここまで大きくないだろうし、尾鰭で陸を歩かないだろうし、日曜夜の電車へも乗ってこないだろう。つまりこれは、僕にだけ見えている幻ということになる。

どうしてこんな幻覚を見るのか、心当たりを探そうとした。けれど、どうにも上手く、頭が動いてくれない。さっき兄が言っていたことはあながち間違いではなかったらしく、自分で思っている以上に、僕は疲れているらしかった。脈絡のない考えがぐるぐると脳のなかをまわって、結局なににも突き当たらずに同じ場所へ戻ってくる。視界には相変わらず秋刀魚がいて、こころなしか、僕を責める目をしている気がした。魚の感情なんてわからないけれど、なんとはなしにそう思うのだ。

ぼうっと考えているうちに、もうじき次の駅へ到着する、という車内アナウンスが流れた。兄がふと顔を上げる。やはり顔色ひとつ変えず、けれどどこか疲れた目をした兄の喪服からふわりと線香のにおいがして──そこでようやく、ああ、と思った。

「晩ごはん」

「なに、足りなかったの?」

知らないうちに、声に出していたらしい。兄が怪訝そうな顔でこちらを覗き込んでいる。その顔をしばらく見つめてから、秋刀魚のほうへ視線を戻した。秋刀魚は動かない。僕のことを責めるような目で見ている。

「少しまえ、晩ごはんに秋刀魚が出たでしょ。おぼえてる?」

「……いや」

「もしかしたら兄ちゃんいなかったかも。少なくとも父さんはいなかった。晩ごはんに秋刀魚が出て」

部活動が長引いた日だった。一応、帰る途中で連絡は入れていたのだけれど、家に着いたとき、母はあからさまに機嫌が悪かった。いま思えば、その頃から体調がよくなかったのだろう。遅い、もっと早く連絡しなさい、なんてことを、いつもの母らしからぬ妙に皮肉っぽい口調で言うものだから、僕も少し腹が立っていた。父だってたいてい遅くに帰ってくるのに、兄だってしょちゅう連絡なしに晩ごはんをすっぽかすのに、ちゃんと連絡を入れて、へとへとになりながら勉強も部活もこなしてきた僕が、どうしてこんな言い方をされなければいけないんだろう。

「思ったより僕が遅れて帰ったから、せっかく焼いた秋刀魚が冷めたって、食べ始めても母さんは怒ってた。『せっかくの秋刀魚が』って、やけに秋刀魚を気にするんだ。なんか、おまえのためにつくってやったのに、って言われてるみたいで、すごく苛々して」

ひとりにつき、一尾まるごと用意されていた。魚のことなどなにもわからない僕の目にも大きく見えたから、きっと立派な秋刀魚だったのだろう。けれど別に僕が、秋刀魚が食べたい、とねだったわけではない。むしろどちらかというと苦手だ。身がぱさぱさしているし、骨が多くて食べづらい。疲れていて、そのうえ苛立っているときには尚更だった。

「たぶん、態度に出てたんだと思う。黙って食べてたら、急に母さんが怒鳴ったんだよ」

テレビの音だけが響いていたキッチンが、突然母の怒声でいっぱいになった。食べたくないなら食べなくていい。そんなようなことを言っていたと思う。最初こそ急に大声を上げた母に驚いていたけれど、すぐに僕も腹が立って、なにか言い返したはずだ。内容はおぼえていないけれど、きっと酷いことだった。少なくとも母はもっと怒ったし、きっと傷付いてもいただろう。その証拠に、母は僕が食べていた秋刀魚を皿ごと掴み上げて、ほとんど手の付けられていないそれを、生ごみのごみ箱へ、捨てた。

「そういえば僕、まだ謝ってなかった」

そのあとの記憶はない。きっと有耶無耶のまま不貞寝でもしたのだろう。その少しあとに母さんが倒れるなんて、倒れたきり意識が戻らないだなんて、想像もしなかった。

秋刀魚はやっぱり、責めるような目で僕を見つめている。口が閉じたり開いたりを繰り返すけれど、僕へなにを言っているのかはさっぱりわからない。そのうしろの窓から見える景色が、だんだんと速度を落としていくのを眺めていた。

車両はホームへ入って、間もなく停車しようとしている。人っ子ひとりいない暗い駅だ。きっと月も出ていない。兄が顔を覗き込んできて、僕の名前を呼んだ。

「謝ってないことばっかりなんだ」

兄は少し目を丸くしてから、突然、僕の頭を抱き締めてきた。ヘアーワックスと線香のにおいが鼻いっぱいに広がって、大丈夫、大丈夫だから、なんて、なにが大丈夫なのかわからないのに兄が繰り返している。名前を呼ばれ、おまえが悪いんじゃないよ、違うんだよ、そんなようなことも言っている。どういうわけかだんだん息がしづらくなって、喉の入り口になにかがつかえているみたいに、吸っても吸っても、息苦しくて堪らなくなった。

変な声が口から漏れ出したところで、兄の腕の力が一段と強くなる。体ぜんぶで抱き付いてくるものだから、その重さに耐えきれず、僕は項垂れるように、視線を足元へ下げた。

電車は無事に駅へ着いたらしい。俯いた僕の視線の先を、大きな尾鰭がゆっくりと横切っていった。どうやらここで降りるらしい。引き留めたい、と無性に思って、けれど、話す内容なんてなにも思い浮かばなかった。まともな声も出せないままひたすら息を吸ううちに、その尾鰭は案外乾いた音を立てながら僕の視界から消えてしまって、発車を知らせるメロディが、ぐしゃぐしゃにひずみ始めた世界の向こう側で鳴った。

2021年12月17日公開

© 2021 桐崎鶉

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