梨園

野原 海明

小説

1,532文字

夢。

おれはまだ高崎に棲んでいて、そこで仕事をしている。多くの故郷の友人がそうであるように。故郷は湯船のように心地よく、そこに身を浸していれば外の世界はただ旅をするためだけの土地となる。母親のつくる毎朝毎晩の食事を当たり前のように食べ、毎日そこへ帰っていく。

おれの職場は榛名町の果樹園のなかにある施設で、そこでは社会に適応できない子供達が避難するように身を潜めている。極度の鬱病、拒食症、自傷癖。彼らの世話をするのが仕事だ。毎朝車を運転して、その白壁の施設へ向かう。

母親は先月脳卒中で倒れたが、処置が早かったためどうにか意識を取り戻し、先々週から退院して自宅療養している。少しずつ農園でのパートの仕事も始めていた。それでもまだ、もとの暮らしは戻っては来ない。

その日は朝から、運転中に二件も着信があった。ここ最近そんな緊急の電話と言えば、母の容態が悪化したことくらいか。施設の駐車場に着いてから、慌てて母の携帯に電話をする。出ない。落ち着け、落ち着けと言い聞かし、着信を見る。一件は覚えのない番号、もう一件はJR山手線管轄事務室から。山手線? 留守電を聞く。どうやら施設の子供の一人が飛び込み未遂をしたらしい。賠償金の手続きについて録音されていた。もう一件は、助けに入った施設のスタッフが掛けてきたものだった。怪我はしたものの大事には至らず済んだようだ。

保健室へ向かう。怪我をした本人はすでに病院に輸送されたようだ。パートタイムで働いている、いかにもおふくろさん、といった印象のスタッフが、血で汚れた腕を流しで洗っているところだった。

それにしても、母が電話に出ないことが気にかかった。

昼休み、母の様子を見に行く。母がパートをしているのは、施設からやや下ったところにある梨園だった。

駐車場に父の軽トラが停まっている。荷台に母が寝かされている。

「どうした?」

母は薄目を開けて問う。よほどこちらの方がそう訊きたい。

「朝電話したけど、出なかったから。別にたいした用事じゃない」

「お母さん、どうも体調、だめみたい。明日は病院に行かなくちゃね」

青白い顔をして目を閉じる。

運転席では父親が、何かをいつものように大声でしゃべっている。何を言っているのかは毎度のことながらよくわからない。

「明日は朝ご飯、作れないから」

「いいよ、そんなこと」

そろそろ職場に戻らなくてはならない。父の元に母を置いていくのが心配でならない。こんなときにだって、父の相手をしなくてはならないのか。おれは不憫でならない。口惜しくてしかたない。

母の顔には生気がない。そのまま薄くなって消えていきそうに見える。今度こそ本当に、駄目なのかもしれない、と思う。

いや一度、息を吹き返してくれたのだから、と自分に言い聞かせる。もう一度話ができただけ、いいじゃないか。

軽トラの脇を去る。去り際に、母の姿を目に焼き付けようとしている。もう二度と、生きている母には会えないような予感がしていた。

 

目が覚める。

現実の母は、倒れてから二週間後にそのまま死んだ。

一度も話をすることはできなかった。

母が死んだ後すぐ、似たような夢を何度も見た。どうにか意識を取り戻し、退院してきた母。青白い顔で、ゾンビのようにスローな動きで、父親の為に食事をつくる。奴隷みたいに。その姿をみる度、退院できて本当に良かったのだろうか? と、夢の中でおれは悩み続ける。いや、あのまますっぱり逝ってしまうことが、母の最期の救いであったのではないか? と。

母にとって家とは牢獄とさして変わらないものだったろう。永遠に食事を作り続けなくてはならない役。出掛ける度に「帰りたくない」と呟いた。おれは最期まで、父のもとから母をさらうことができなかった。死んでもなお。

2013年5月3日公開

© 2013 野原 海明

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