「暗い話になるけど、私と君、どっちが先に死ぬだろうね?」
息も絶え絶え、彼女は呟いた。目は虚ろで、俺の事が見えているのかも解らない。肌は薄紅色。そんな赤い肌を這うように、赤黒い血管の色が透けて見える。
「どうだろう……。このままじゃ、えーこかな?」
「どうしてそう思う?」
「だって、顔色が真っ赤だよ」
「そう言う君こそ、真っ赤だよ」
言われて気がついた。確かに指先が赤く変色している。それに酷く寒い。息苦しいので肺いっぱいに空気を吸い込んだが、不浄なものが体に入り込んで、余計に気分が悪くなった。
「あと、どれ位だろう……」
「さぁね……。もしかしたら死なないかもしれない」
「それって失敗って事?」
「さぁ? ……もし、失敗したら、えーこはどうする?」
彼女は微笑んだ。口角がゆっくりと持ち上がり、柔らかな曲線を描く。
「せっかく生き残ったんだから、もう少し生きてみようかな……。なんてね。失敗しても、またすぐに死ぬわ」
「そう……」
「どうしたの? 今更怖くなったの?」
「別に怖くない……ただ」
「ただ?」
「せっかくえーこと会えたのに、これでおしまいなんて残念だね」
「………………」
出会いは些細なきっかけだった。
俺は生きる気力を無くしていて、規則正しく訪れる日々を無駄に消費する生活を送っていた。目の前は常に、暗く、灰色。する事といえば、暗い部屋で映画を垂れ流す事。解りやすい仮想現実の中に不幸や悲しみを見つけ、その感情がさも自分のものであるかのように泣いたり、あざ笑ったりしていた。
そんな安っぽい仮想現実に飽きてからは、リアリティのある感情を知る為に、アングラ色の強い掲示板を巡回するようになった。そこでえーこと出会う事になる。
「怖くない??」
「全然怖くない。むしろ清々しい気分」
「えーこは強いね」
「そうかしら? 不思議と気持ちが落ち着いているの」
とある自殺掲示板では、下らない不平、不満と諦めばかりが羅列されていた。死にたい。という言葉を間に受けた偽善者達が、慣れあいの言葉を交わし合い、励ましあい、そしてやはり死にたいと言う。
あまりの低俗さに、心の中で死を望む自分までも低俗に思えた。現実に死にたがっている奴らには、文学や映画のような立派な大義名分が存在しない。稚拙なだけの独りよがりにしか過ぎないのである。
うんざりしながらも書き込みを読み進めていると、少女Aと名乗る人物の書き込みを見つけた。その人物は、下卑た弱音や馴れ合いを一蹴した。
『臆病なお前らの代わりに、私が死んでやるよ』
当たり前だが、掲示板上での反応はゼロであった。反応がない事に苛立ったのか、その数時間後に少女Aは再度書き込みを行っていた。
『私は綺麗に死にたい。ねぇ、僕のシンクレール。どうか君を待っている』
どうしてその台詞が気になったのだろう。俺が始めて読んだ文庫本がデミアンであったせいなのかもしれない。その書き込みを無視する事が出来ずに、書き込みのリンクからメッセージを送った。
『少女A。いや、デミアン。僕も綺麗に死にたい』と。
「……それなら、俺が先に死んでも怖くない?」
「どうだろう……。怖くはないけど、ちょっと寂しいかも。不思議ね。私達、ほんの三時間前に出会ったばかりなのに」
「俺は書き込みを見ていたから、えーこが他人のように思えない。見た目のギャップはあるけどね」
「光栄です……ねぇ」
彼女は先程より赤い顔を俺に近づけた。肌寒い頬に柔らかな吐息の暖かさを感じる。
「君の事。聞かせて」
えーこは俺の肩口の裾をギュッと握った。長い爪に巻き込まれて、肩にチクリとした痛みが走る。
「何が聞きたい?」
「まず、名前は?」
「名前は……、びーお」
二人の間には共通の目的があった。『綺麗に死ぬ』その目的の為に、指定の駅前で待ち合わせた。
古風なハンドルネームから、あれやこれやと容貌を想像していたが、実際待ち合わせ場所に来たのは『少女』であった。
メールでやり取りした自殺プランの再確認の為に、近くのカラオケに入店。真っ先に、彼女の名前やプロフィールを聞いたけど、彼女は俺の話に興味を示さず、用意した練炭を、じっと見つめていた。
少女Aと名乗った彼女との距離を埋めるために、「少女Aは呼びにくいから、A子って呼ぶね」と、俺は言う。彼女は何も言わずに頷く。
「それってアルファベットのBに、男って事?」
「そうだよ」
「つまらない」
ふてくされたように彼女は目を背ける。それから、燃え盛る練炭に目を移した。その肩越しに、俺も練炭を見つめる。
二人が消えてしまう前に、彼女の容貌を刻みこもう。脳みそのシワの一部に彼女を刻み込めば、もしかしたら地獄で再会できるかもしれない。
「じゃ、びーおの年齢」
「今年で二十五歳になる」
「見えないね。あたしと変わらないと思っていた」
語る唇は、一酸化炭素のせいで真っ赤である。薄い上唇が、うっすらと上向きに突き出ている。髪色は落ち着いた茶色であるが、お世辞にも綺麗とは言えない。
「家族は?」
「一人暮らしだよ。実家には、父母が仲良く暮らしている」
「実家には帰ってないの?」
「まったく帰らないね。何をしているかも解らない。家族の中で俺だけ綺麗に切り取られたような関係だ」
瞳は大きくて、少し釣りあがっている。全体のパーツの中で、一番派手である。鼻は小鼻で少し低い。
「次、言いたくないなら言わなくていいけど……、どうして死ぬの?」
「色々あるけど……、難しい」
「じゃ、言わなくていい」
「言いたくない訳じゃない。ただ毎晩寂しくなる」
「…………」
「凄く抽象的な説明になるけど、それで勘弁してくれないか? 明日への不安。誰も居ない部屋。人間関係の嘘。世界で自分一人が不必要な気分になってくる。他の人間はあんなに輝いているのに……」
「ホントにそんな理由で死んじゃうの?」
「重大だよ。俺にとっては」
「……そうね。失礼しました」
えーこは自分に関する事は一切口にしなかった。しかし、自殺プランの打ち合わせになると、途端に饒舌になる。部屋の構図はどうなっている? とか、睡眠薬の服用数、練炭の量、ガムテープの使用方法。等々……。
人生の最後を共にする少女に、あれやこれやと質問を投げ掛けたかったが、キッ、ときつい視線は俺ではなく、遥か遠くを見つめていた。その距離を埋める事が出来ず、俺は業務的に流れを説明するだけだった。
「はぁ……、眠くなってきた」
「睡眠薬が効いてきたんだ。俺はまだ眠くない」
「もう寝ちゃおうかな……」
それは酷く残酷なワードであった。
「もう少しだけ話さない?」
「……あと少しなら」
「えーこはどうして死のうとしているの?」
「うん? あたしから聞いといてなんだけど……、難しい質問ね。一言にまとめるには軽すぎるし、一から説明する時間も残されていない……」
彼女は、ふぅ。と息を吐いて、目を閉じる。肩口を握る指の強さが緩んだ。痛覚がなくなると、とたんに意識がまどろみはじめる。
「しいて言うなら、自分が嫌いなだけよ。こんな自分は生きていても仕方がない。あたしという存在で生きつづける限り、未来に希望も持てない」
「……そう」
「ははっ、やっぱり先に死ぬのは君かもね。もう……ぐったりしている」
「……うん」
「もしも……、もしもだけど、万が一失敗したら、あたしの遺書はびーおにあげる。あたしのバックの中にあるから、忘れずに持って行って」
「……あぁ」
それから彼女の言葉は、一酸化炭素と共に部屋の中に流れ込み、気体として部屋を巡る。あぁ、気持ちがいい。
……なんだっけ?
……なんだっけ??
……なんだっけ????
溶けゆく空気の中に、体が融解し始める。
お休み。
えーこ。
先に行くね。
お休み。
えーこ。
えーこ。
お休み。
……それから不思議な夢を見た。明らかに夢だと解る夢。明晰夢というやつだ。
俺は小さな部屋の片隅で、虫カゴをいじっていた。どういう訳か、部屋の壁が虹色に輝いている。煌々とした眩しさに、カゴの中の虫が興奮して、バタバタとカゴの中を跳ね回る。どうにかならないものか? と、近くのシーツを手にとって、虫カゴに被せてみた。そうすると、ズブズブ音をたてて、虫カゴは消滅した。まるで良くできた手品だ。残ったものはシーツ一枚。
『あー!!』
窓の向こうから、叫び声が聞こえた。良く知った声だ。シーツから、窓辺に視線を移すと、制服姿の姉が、窓ガラスにべったり張り付いている。
『あー!!』
違う叫び声が聞こえた。振り向くとベッドの下に、母が寝そべっている。俺の知っている母親よりも、かなり若い。
『あー!!』
いつの間にか背後に父がいた。あまり外見が変わっていない。
俺は不思議な罪悪感に苛まれ、手元のシーツを頭に被せた。ひらひらと薄っぺらいシーツは先ほどより汚れている。
『あー!!』
『あー!!』
『あー!!』
みな一様に同じ声を発している。俺はシーツ越しに目を開く。
虹色の光線が目の前のシーツに写り込み、その光線は視線の先へと配置された。シーツは精巧な映画のスクリーンに成り変る。
3、2、1
カウントダウンが始まった。
――上映開始。
虹色よりは遥かに薄い色合いで、精巧な映画が上映される。映ったのは小さな部屋の中で抱き合う男女。女はえーこの役をしたえーこ。舞台はペンションだ。
『あー!!』
『あー!!』
『あー!!』
おかしな奇声が映画館の中に響き渡るが、かまわず映画は続く。
スクリーンの中の男は女の手を握り、うつらうつら眠りの中に沈んでいく。先ほどの虫カゴのように、地面の下へ融解してしまいそうだ。 やがて男が完全に動かなくなった。女は男の頬を抓る。それでも男は何も反応しない。
『あー!!』
彼女は赤い頬を擦り寄せ、男に何か耳打ちをした。それから、ふらふらと立ち上がる。
『あー!! あー!!』
やがて彼女は小さな部屋の扉を目指して、ゆっくり歩を進める。そのまま扉のノブに手をかけた。左手で内鍵をいじくる。
『あー!! あー!! あー!!』
女が開け放った扉の向こうに、虹色の光線が溢れ出した。そしてその虹に飲み込まれて、彼女は溶けて消え去った。部屋に残された男は、相変わらずピクリとも動かない。そのままずっと、ずっと、画面は変わらない。
ずっと。
ずっと……。
ずっと…………。
………………急激な寒けを感じた。酷く苦しかった。体が動かなかった。鼓動が有り得ないくらい早かった。
夢から覚めるということは、まだ死んでいないということだ。しかし、自分の力では指一本動かすことができない。瞳を開こうとしても、瞼さえも動かせない。彼女がいるかどうか、頬の感触で確かめようとするも、どうだろう?? よく解らない。
もしも失敗したら、彼女はすぐ死ぬと言った。それなら大丈夫。全然怖くない。俺に非があるとすれば、二人の睡眠薬の量を見誤っただけだ。
それから、気管支がひどく熱く、うまく息が吸い込めない事に気が付いた。肉体的な障害は怖くない。時間が経てば苦しさなんて無くなるんだから。もっと怖い事はたくさんある。
早く眠ろう。
早く。
早く。
俺は流れる力に体を委ねて、考えることをやめた。もう二度と目を覚ますことも無い。抗う事もなく、心地よくも最低なまどろみに体を委ねる。力に身を任せた瞬間に、痛みや恐怖は心地よい微睡へと変化した。そう、どんなに罪深い人間でも、最後の時は安らかに往くものだ。それが唯一の幸福。俺に許された僅かな幸福。
男は深いまどろみのに包まれた。
——————
目の前で、チラチラと光彩が揺らめいていた。眩しさに、顔を背けると、ふっと柔らかい風が吹き込んできた。その風を肺いっぱいに吸い込んでみた。吸い込む力が強すぎて、思わずむせ返った。
「先生。患者さんが目覚めました」女の声が響く。吸い込んだ空気のおかげで、体の底から力が漲る感覚になった。
この時点では意識がぼやけていたから、状況判断も付いていなかったはずだ。ただ頭の中では、底知れない喪失感と焦燥感がグルグル駆け回っていた。何か大切なものを無くしてしまったような気がして、酷く怖かった。
「患者さんの意識が戻りました」
女の声が響く。途端に周囲の物音が耳に飛び込んできた。
――ピーピー、ガチャガチャ、もう大丈夫だね。バッサ。カラカラ。無茶をして。ガサガサ。
物音は意味を成さずに、文字としてダイレクトに頭の中に侵入する。お陰で、『恐れ』の侵食する領域が狭まった。『恐れ』が薄まると、『あぁ、このままシーツに包まれて、虫かごのように溶けてしまいたい』という思いが頭の中から産み落とされた。俺はそれを文字ではなく、意味をもった言葉として反芻する。
「えーこは……。えーこはどこに?」
この時点で、ようやく状況判断がついた。俺は失敗したのだ。二人の人生劇を失敗してしまったのだ。
俺の呟きに、白衣の男が応える。
「馬鹿な真似をしたね。一つしかない命は大切にするものだ。君の連れはまだ発見されていない」
「えーこに、えーこに会わせて下さい」
「人の話はキチンと聞きなさい。いいかい? 君の連れは行方不明だ。君の連れが扉を開けてくれたお陰で、君も生き延びる事が出来たんだぞ。一歩遅ければ、今頃病院ではなく、火葬場に連れられていた」
白衣の男の高圧的な態度が、なんとなくシャクに触った。
「それでよかったんです」
ぼやける頭は二日酔いのように、重く鈍い。ダメだ。ダメだ。言い争いをしても負けるな。こりゃ。
「やれやれ、先が思いやられる? 君を救うために、どれだけの人間が苦労を被ったか解るか?」
……そんな事言われても。はー、面倒臭い。俺はその台詞をスルーして、再度眠ることにした。眠い。どうか……いい夢が……見れますように。
俺がしっかり覚えているのは、そんなやり取りだけだ。
次に意識を戻した時は、ベッドの脇に両親がいた。夢で見た両親ではない。現実の両親だ。俺を神妙な面持ちで見つめている。
「大分顔色が良くなったな」父親が言った。俺は何も言わずに、目を背ける。母親は泣きそうな顔であった。
「馬鹿な事をして。命を粗末にするもんじゃない」
「ごめん……」
「何があったんだ? お前に悩みがあるなら俺が聞いてやる」……だから、それが駄目なんだよ。肉親には言えないから、えーこに救いを求めたんだ。俺はあんた方に心が開けない。肉親というだけで、妙な気恥ずかしさを感じる。
「何も言う事はない」
父母はただの父と母だ。育ててくれた温情は計り知れない。だが、結果こんな不出来な人間が育ってしまった。やむ終えない罪悪感から、両親と距離を置く事にした。しかし、結局両親は俺の前に現れる。血の繋がりは、えーことの絆よりも強かった。
「何があった?」
「眠い……」
「ちゃんと答えろ」
俺達のやり取りのせいで、母親が慌てている。母親はいつからあんなに小さくなったのだろう。
返答を待つ父を無視して、俺は窓を見つめた。病院の中庭から光が零れた。キラキラとした光彩が降り注ぐ。
「もう、俺を息子と思わないで下さい」
精一杯の敬意と尊厳を込めて、決別を伝えた。
「理由は?」
「俺が不出来な人間だからです」
「完璧な人間なんてこの世に存在しない。お前がどう思おうと、俺たちは家族だ。だから俺はお前を迎えに来た。息子として、いや、一人の人間として、ちゃんと答えろ」
違う違う違う違う。俺は日々、苦しんだ。自分自身のせいでずっと苦しんだ。本当にあんた方は関係ないんだ。堪えきれずに、涙が滲んだ。
沈黙で返答をはぐらかしながら、自己の回想に思いを寄せる。
俺はずっと自分が嫌いだった。なんとか自分自身を変えようと、お洒落な洋服を買ったり、モデルの髪型を真似したりした。憧れのアーティストの影響で楽器を始めたりもした。
背伸びして、好きでもない女と付き合った事もある。しかしろもこれも表面上の変身。根本にあるドス黒さを変える事は出来なかった。
あれは十六歳の時。姉が亡くなった。しかし、俺は最期を看取る事無く、始めてできた彼女の家で淫らな行為に及んでいたのだ。
今でも覚えている。彼女の家に向かう途中に、母親から電話がかかって来た。
「お姉ちゃんが車にはねられたんよ。かなり深刻な状況だ。今すぐ××病院に来ておくれ」
しかし、俺は彼女への会いたさから、勝手な自己判断で病院へ向かわなかった。
彼女と事に及んでいる最中、履歴は両親からの着信で埋め尽くされた。しかし、全て見て見ぬ振りをした。
そうやって俺が初体験を迎えた時に、姉は死んだ。
「だから、そうじゃないんだよ」
父親に対して言葉を放った。母親はまだ怯えたままだ。
降り注いだ光彩が、シーツの白さに反射して網膜を刺激する。眩しさに、目を閉じた。
初体験から三時間後。恐る恐る母親に電話をする。母親は「お姉ちゃん。死んじゃった」と短い台詞が呟いた。
その瞬間、その瞬間に、自分の罪の重さに気が付いた。
大急ぎで家に戻る。部屋の片隅に、ドライアイスと共に姉の体が横たわっていた。両親は俺の姿を確認しても、何も尋ねて来なかった。俺がいない間に、死化粧、葬儀社の手配、霊安室での読経。全てが終わっていたのだ。
涙がとめどなく溢れる。できればあの時に、俺を捨ててくれれば良かったのに、どうして捨てようとしないのだろう?
家族の縁を切って、一人気ままに生きて、そして朽ち果てる。自分が眠る場所なら自分で決めるから、どうか姉と一緒の墓に入れないでくれ。
「だから、もう、ごめんなさい。責めないでよ……」
辛うじてそんな言葉が口の中から出てきた。両親は何も言わない。
卑怯なのは解ってる。でも、本当に話すことなんてないんだ。お願いだから、俺のことを一人の人間と認めて、そして軽蔑して捨てて下さい。それが息子としての最後のお願いです。
その後は流れ作業のように、なんの感慨もなく事が進む。 高圧的な主治医の小言を聞き流し、地元警察の取り調べを受けて、退院後、両親に引き取られる。
そんな風に流れる時間の中で、誰になんと言われようとも、えーこに関することは『知らない』と答えた。実際彼女に関する事は何も知らない。
あの部屋で語り合った事は、ごく僅かなことだけだ。その情報は俺にとっては神聖な呪文のようなもの。誰にも汚されたくはない。
実家に引き戻されてから、俺は半死の人生を送った。後遺症の類はないけれど、魂の一部があの世に行ってしまったような感覚になる。時折えーこの跡をなぞろうと、二人が出会った掲示板にアクセスをするも、俺達が起こした事件のせいで、掲示板は閉鎖されていた。それでも何度となく同じページにアクセスした。何もないと解っていても。
それから俺は、夜な夜な星を見るようになった。天体観測が趣味な訳ではない。センチメンタルな気分でもない。ただ星を見ていると落ち着くのだ。もしかしたら、なにかの間違いで、魂の一部が天国へ行ったのかもしれない。
そうこうしているうちに、時間はどんどん過ぎて行く。後遺症はないはずだが、常人よりも、「時間の流れが早くなる」という、罰にも似た後遺症を感じた。
冬の星空を眺めて、えーこの事を考えて。あやふやな記憶を抱き抱えて、春を迎える。
そして雪解けの水が大地に染み渡り、咲き誇る桜は散って、ジメジメとした梅雨が訪れた。
空は日夜表情を変えて、夏の星座を迎え入れるけど、俺の心は何も迎えいれない。
やがて空気が陰る秋の頃、俺はどうしてもえーこに会いたくなった。今頃彼女は何をしているのだろう?? 会いたい。こんな気持ちになるのは久しぶりの事だった。ようやく体の中の二酸化炭素が抜けきったようだ。
次の日、俺は両親に内緒で、あの場所へと向かった。約一年前に、えーこと心を通わせた思い出のペンション。
うちらが死に場所と選んだのは、郊外にある貸しペンションであった。
ペンションは施錠されていて、もちろん侵入する事が出来ない。しかし、その外観を見ただけで、記憶に刻み込まれた二人の思い出が蘇ってくる。たった一度訪れただけなのに、まるで実家のような懐かしさを覚える。木目に刻み込まれた俺達の痛み。そっと優しく触れてみた。
あぁ、えーこ、大切なえーこ。最後に彼女の容姿を刻み込んだお陰で、目を閉じれば彼女の姿が蘇る。彼女は寂し気に目を背けている。俺の事をつまらないと言った。じゃ次……。と質問を投げかけた。ははっ、やっぱり先に死ぬのは君かもね。と言った。あぁ、あぁ、その通りだよ。俺は先に死んでしまったんだ。あれから魂の一部が死んで、半死の毎日を送って来た。だけど俺はえーこのように、「またすぐに死ぬ」とは考えられない。今まで積み重ねた思いが限界を越えて、俺は馬鹿みたいに泣いた。その場にうずくまり、えーこの面影を感じ、ただただ泣いた。
それからどれほどの時間が経過したのだろう。日差しは翳り、空が青色に染まっていた。泣き止むと、驚く程頭が冷静になった。俺はやるべき事を思い出して、立ち上がる。空には満天の星空が輝いている。その星の光彩を一つ飴玉みたいに口へ含み、二人の思い出の地を後にした。
歩き始めると、生い茂った森が見えてきた。深く、深く。広がる緑。俺は歩を進め、森の奥へと向かっていった。
森の中には様々なものが潜んでいる。例えば、一本杉の下に、幼少期の俺が佇んでいた。
寂しそうにこちらを見つめているので、あっかんべーをした。先ほど舐めた星のせいで、舌がマッキッキだ。そしたら幼少の俺も舌を出した。彼の舌はマッカッカだ。そういえば昔、吸血鬼になれる飴を食べたことがあったっけ。あれを舐めると口の中が赤く染まる。
さらに進むと、光るキノコが生えていた。引き抜くと、そのキノコは激しい絶叫をあげて、干からびてしまった。石附の部分が人間の形になっている。
これはマンドラゴラというものだっけ? しかし、あれは植物の根っこが人間の形をしていた筈だ。それに、マンドラゴラの絶叫を聞いたものは絶命してしまうはず。……まぁ、俺は一度死んだような身だ。死人に対しては、そんなもの関係ない。
そのまま歩を進めると、頭上に鶯が羽ばたいている。夜盲のくせに、俺の姿に気付いたようだ。夜鶯は俺の頭の上でグルグル旋回を始めた。遠慮なしにバサバサと音を起ている。
その時、木々の隙間から淡い月の光が差し込んで、旋回する夜鶯を照らした。差し込む光は、夜鶯の羽ばたきにぶつかって、粒子状に砕けて、パラパラと辺りに散らばる。そうして、俺の髪や肩に細やかに降り注ぎ、キラキラと輝いた。何か不思議な冷たさを感じた。
俺は手の平いっぱいに光の粒子を集めて、更に奥へ進んだ。粒子のおかげで、森の奥もよく見通せる。夜鶯がホーホケキョと鳴いた。
森の冒険は終盤を迎える。夜鴬は相変わらず俺の頭上を飛び回り、干からびたキノコも、舌を垂れた子供も、光に導かれるように俺の後ろについて来る。
それからどれくらい歩いただろうか、俺達はぽっかり開いた広場にたどり着いた。何か思わせぶりな、そして神聖な予感を感じた。
広場の中心には、太く逞しい大木が構えていた。通せん坊をするように、枝が左右に広げられている。その両手に緑色の葉が生い茂る。夜の闇に色付けされて、濃い色合いだ。
俺は視線を木の下に移し、そうして、大きく息を吸った。
「……やっと会えた」そう呟いて、目の前の大木に近付いた。様々な思いが、胸の中をかき乱す。懐かしい、温かい、悲しい、寂しい、そんな様々な感情が胸の中暴れている。
「ずいぶん、素敵な場所を見つけたんだね」
辺りを見回した。本当に素敵な場所だ。月明かりに照らされて、全てがキラキラしている。眠る場所としては申し分ない。朝方の優しい日差しの中では、景色はどう変化するのだろう?
改めて周囲に目を配る。辺りを囲む木々の色が鮮やかに瞳を撫でる。一歩、一歩、草葉を踏み込む毎に、緑の匂いが鼻腔をくすぐる。その時、そよ風が木々の枝葉を揺らした。サァーという音とともに、枝にくくりつけられたロープが揺れる。
「会いたかった」
目と鼻の先、俺は大木に寄り掛かる彼女を見つめた。
「ずっと……。ずっと……」
『……そうね。あたしも会いたかった』
頭の中に彼女の声が響いた。その声は脳みそを刺激して、刻み付けた彼女の容貌を、精巧に映し出す。釣り上がった大きな瞳、小鼻で薄い唇。肩に回された鋭い爪。
俺は目の前に佇むえーこを見下ろした。あの時の姿とはまるで違う。皮も、肉も、なにもかもを脱ぎ捨てたんだね。……でも、綺麗だ。とても綺麗だよ。心の底からそう思う。
えーこの体は白骨化していた。昔、理科室に飾られていた模型と酷似している。体を斜めに傾けて、肩を大木に預けているのだが、頭蓋骨だけがおかしな角度で遥か上空を向いている。どうしてそれをえーこと断定できたのかは解らない。ただ運命が語っていた。これはえーこだと。
その時、再び強い風が空気を揺らした。見開いた瞳の表面の水分が奪われ、じんとした痛みと共に、涙が滲む。
滲み出た涙を肩口で拭い、両手に溜まった光の粒子を、そっとえーこに振り掛けた。彼女に降りかかった粒子は、ぼぅっと青白い光を放つ。まるで彼女自身が淡い光を放っているようだ。
それから俺は、そっとえーこの頬を撫でた。あの日触れた温もりは感じられない。ただ冷たく、固く、無機質だ。括り付けた白いロープが、頭上で振り子のように揺れている。
「いつから、ここに居たの?」
『……。びーおと別れてから、ずっとここに居た』
「そうか。随分待たせたね。……でも、えーこも悪いんだよ」
『えぇ……えぇ……そうね』
今更責める気持ちはない。だけど、胸に吹き溜まった言葉が溢れ出した。
「どうして、俺を置いて行った?」
『……もう、よく覚えてない』
「怖かった?」
『……どうだろう。でも寂しかった』
その気持ちは理解できた。あの時、えーこが先に眠ったら、俺はどうなっていたのだろう?
えーこの瞳が閉ざされる。それは絶対の孤独を意味する。世界に一人きりになってしまうような。永久の暗闇に閉じ込められてしまったような。最低、最悪の感覚。その寂しさを打ち消す為に、二人は寄り添った。
しかし、お互いが同時に死ぬなんて不可能だ。それならば男として、えーこが逝くのを見届けるべきであった。しかし、彼女は俺と別れてから、一人きりで行ってしまった。そう、たった一人で行くことが出来たんだ。
いつの間にか夜鶯は消えていた。マンドラゴラも、子供も消えていた。この場所に存在するのは俺とえーこだけだ。しかし、もっとそばに近づきたい。あの日、届かなかった距離を埋める為に。
俺は次の仕事に取り掛かった。あの日の約束。彼女の語った言葉。「もしも失敗したら、あたしの遺書はびーおにあげる。あたしのバックの中にあるから、忘れずに持って行ってね」その約束を守る為、えーこのそばに散乱していたバックを取り上げた。バックのジッパーを開くと、化粧ポーチや、鏡。手帳やアイロンが入っている。その中に、茶色く変色した封筒を見つけた。さらに、その中に白い便箋が入っている。
取り上げて目を通してみると、思いのほか簡素な文章で、えーこの心情と、『死ぬ理由』が綴られていた。
えーこの遺書は、掲示板での書き込みの半分にも満たない熱情で綴られていた。しかし、特別驚く事もない。俺もえーこも、『本当の気持ち』を伝えたい人間なんて存在しない。
俺達は、いつも、いつでも、本当に伝えたい事を、自分自身に伝えようと努力してきた。しかし、己のことを伝えるのは、一番難しい事である。ある時から、悲しい事も、楽しい事も、何も解らなくなってしまった。残るものはただの自己嫌悪。それを打ち消す術を、俺達は知らない。
俺は託された遺書に、少しだけ手を加えた。「だから私は死ぬことにします」その文章を、「だから私達は死ぬことにします」そう書き換えた。たった一文字付け足しただけで、この上ない幸福を感じた。あの日、えーこと心を通わした時の感覚が蘇る。ねぇ、これでいいでしょ? 遺書をくれたのはえーこなんだから。
いよいよ次が最後の作業になる。太い幹には、至るところに凹凸がある。その凹凸に手と足をかけて、上を目指した。白いロープが括り付けられた枝に到着すると、見よう見真似でロープを括り付けた。足元が覚束ない場所での作業は困難であったが、そんな事は苦にならない。えーこだって同じ作業をしたのだ。なら、俺もしなければ。
万が一の為にロープを用意していて良かった。白いロープは一年という年月を経て、ボロボロに風化している。俺の体重を支えるには心許ない。絶対に、失敗は出来ない。必ず成功させるんだ。
ガムシャラに作業を続ける。その間だけ頭が空っぽになって、自由に体が動いた。羽根が生えたように体が軽い。
無事に作業を終えると、木の上から辺りを見渡した。青白く光るえーこと、木々と、空気が揺らいでいる。ここは俺とえーこの聖域だ。ね、えーこ? ……疲れてしまったのか、えーこは言葉を発さない。でも大丈夫。これからはたくさんの事を話そう。えーこの子供の時の話、あの日の気持ち、一人になってからの話。それから、とても辛いけど「死のうとした理由」なに、時間ならたっぷりある。心配はいらない。
ここから首を吊れば、しばらくは宙ぶらりんのまま。そして腐食が進み、肉が削げ落ち、骨になる。ロープは風化し、変色し、ほつれて切れる。
その時、その時こそ、えーこのそばに行けるんだ。俺は頭上から、えーこの隣を目指して落下するよ。偶然、指と指が絡んだりしたらロマンティックだね。俺はとても満たされている。苦難の人生を歩んできたが、最後の最後に、えーこと出会えてよかった。勇気をくれてありがとう。心を与えてくれてありがとう。その他感謝の気持ちは尽きない。とても幸せな人生でした。さ、そろそろ行くね。一年間の時を埋めよう。
えーこ。
大好きなえーこ。
これからずっと二人きりだよ。
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