銀杏の葉が色づく頃、クリーニングに出しておいたニットのカーディガンとコーデュロイのズボンを取りに行こうと、ピート・タウンゼントが右腕を大きく回転させ愛器をストロークする姿がプリントされた白いロングTシャツにリーバイス501を履き、季節外れになった緑色のビーチサンダルを引っ掛け家を出た。雨が上がったばかりで広がる厚い雲の隙間から橙色に滲む夕陽の光が漏れ出て、眩しくて右手を額にかざした。ちょうど近所の小学校から帰路につく黒、赤、黄色、藍色、ベージュ、ピンク……様々な色のランドセルを背負った背丈もバラバラの小学生たちが走ったり、傘をくるくる回したり、グミチョコパインをしたり、二宮金次郎のように本を広げて歩いたりしながらわいわいと僕の前を通り過ぎていった。それは色づく紅葉とはまた趣の違う、幻想的な光景だった。
クリーニング店の中に入るとクーラーが強めに効いた店内は少し肌寒かった。「いらっしゃいませ」五〇代に見える初老の男は、自身が下げたくたびれたエプロンと同じく、疲れた様子で力ない声を出した。僕はジーンズのポケットから革財布を取り出し、中に入れておいた引換券を男に渡した。男は肩から紐で下げた老眼鏡を手に取って引換券の名前を確認し「小川さまですね、少々お待ちください」と老眼鏡のレンズから視線を上げ僕の顔を一瞥してからカウンターの奥へと入った。がさごそという音が店内に響く間、僕は手持ち無沙汰で辺りを見回した。ふと、薄汚いテディベアがビニール地の大きな緑色の業務用かごの中に紙袋やマフラーやハンドタオルに紛れているのが目に入った。
「ああ、その中に入っているのは好きに持っていっても構いません。お客さんが要らないからと置いていったやつなので。しなびてますが、一応クリーニングはしてありますよ」透明なビニール袋で覆われたカーディガンとズボンを両手に持って戻って来た店員の男が、かごの中を覗き込んでいた僕に向かって言った。
「そうなんですね。いや、何かな? と思っただけなんで」僕は余計な気遣いをさせたなと思った。「そうですか。まあ、気が向いたらいつでも持って行って下さい。捨てるにも、何だかいろんな思い出が詰まってそうで」店員の男は少し切なげな表情でカーディガンとズボンを紙袋に入れて僕の目の前にスッと差し出した。「はあ、思い出ですか」「ええ、特にあのテディベアはね、よくここに来てた女の子、サキちゃんっていうんですけど、彼女が泣く泣く置いて行ったもので。引っ越しする時に、ボロボロだったから新しいのを買ってあげるとお母さんに言われながらも最後までグズってましたよ」「そうですか」僕は頷きながら、そんな話を聞かされて持って帰るやつなんて、まずいないだろうと内心思いつつ紙袋を受け取ってそそくさと店を出た。
……つ……れてい……け……
「え?」僕は誰かに呼び止められた気がして、くるりと振り返った。黒いボタンの片目が取れかけたテディベアが片手を上げて立っていた。
「サキのところへ俺を連れて行くんだ、若造!」今度ははっきりとテディベアが喋っている声が聞こえた。
「ちょっと待ってください。僕はたまたま近所に住んでるだけで、サキなんて娘は会ったこともないし、それに遠くへ引っ越したんでしょ? 無理ですよ。そりゃ、居場所を知っていれば何とかできるかもしれませんが、最近は個人情報の扱いはとてもデリケートだし」
「うるせぇ! ぐちぐちほざいてんじゃねー!」
テディベアはそう叫び、僕の背後に飛び掛かりヘッドロックで首を締め上げた。モフモフとした感触のわりに想像以上の力で、僕は一瞬で意識が遠のいた。
まだ残暑が秋の夜を寝苦しく包み込んでいたからか、僕はうまく寝付けず汗でぐっしょりと濡れたTシャツの襟口を左手の親指と人差し指でつまんで身体からはがすようにハタハタと引っ張った。「アレクサ、電気点けて」とスマートスピーカーに命じ、室内灯で明るくなった部屋で僕はTシャツを脱ぎ、浴室に行って洗濯機に放り込んだ。カマキリの目のような形をしたサングラスを掛けたカート・コバーンがプリントされた白いTシャツに着替え、僕は部屋の中央のロウテーブルの上に置いたアメリカンスピリッツの黄色いボックス煙草と百円ライターを持って部屋の奥にあるベランダに出た。外には涼しい風が吹き、街の灯りで見えづらい星々と違い、くっきりとその輪郭を赤く染めた大きな満月が煌々と不気味な存在感を放っていた。僕は煙草を咥えてライターで火を付けて、ゆっくりと煙を吐き出す。「変な夢見たな」紫煙は満月へと立ち昇る狼煙のようにゆらゆらと夜の闇に浮かんだ。
翌朝、僕はクリーニング店に行ってテディベアの手を引いていた。店主は、綻んだ片目を黒いフェルトで眼帯風にアレンジしてくれた。店主からサキという娘のことを聞き、隣県の新興住宅街に引っ越していることが分かった。地下鉄に乗っている間もテディベアを座席に乗せ、隣り合わせで座っている僕を奇異の目で見る人は多かったが、ちょうど小学生の帰宅時間と重なったために「こんにちは!」と片目のテディベアに話しかける子どもたちに囲まれた。
「子どもというのはやはりいいものだな」
「え?」僕はテディベアが喋った気がして思わずそちらを見たが、短い手足をグイグイと引っ張られているそれは、やはりただのクマのぬいぐるみに違いなかった。
「気のせいか」僕は独り言ちて、地上へと顔を出した地下鉄の車窓から赤く滲んで見える傾きかけた陽の光を手のひらで遮りながら、何となしに「次で降りますよ」と言った。大きな川の上を跨ぐ鉄橋をガタゴトと揺らしてすぐに車両が駅に停車した。僕は子どもたちに「じゃあ、ここで降りるから」と笑顔を向け、ポカンと口を開けた子どもたちの視線を尻目にテディベアの手を引いて地下鉄を降りた。しかし、その駅で大勢の子どもたちも降り、僕はテディベアと子どもたちを引率する先生のような状況で駅を出た。
「クマさん、どこ行くの?」子どもの一人が尋ねる。
「人を探してるんだ。田辺サキさんというんだけど、この辺りに住んでる」僕は一か八か何か情報が得られるかもしれないと思い、聞いてみた。
「サキはボクのお姉ちゃんだけど」少しぽっちゃりとした男の子が目を丸くして僕の顔を見上げた。
田辺サキの弟、リョウというその子の後に従って僕とテディベアは彼らの一戸建ての家に辿り着いた。奇跡の巡り合わせに僕は少し興奮気味に、肩で息をしながらベージュの壁に覆われた二階建てで灰色の屋根の付いた家を見上げた。リョウが「ただいまー」と玄関の扉を開けて駆け込んだその後に、僕は脱靴場にテディベアの両肩に手を置くかたちで彼が母親を呼んでくれるのを待った。リョウに手を引かれて茶色のショートヘアの痩せた小柄な中年女性が玄関に現れ「どなたですか? あ、そのテディベア!」と細い目をめいいっぱいに開いて指差した。「初めまして。クリーニング店の主人にぬいぐるみと御宅のサキさんについて話を聞いて。勝手ながらお届けしようと……あ、小川といいます」と僕は彼女に説明した。「まだ捨ててなかったんですね。眼帯まで付けちゃって」と彼女は微笑み、「立ち話もなんなんで、お上がり下さい。サキももうすぐ帰ってくると思います。ちょうどお菓子にクッキーを焼いたんです」とスリッパを僕の前に置いた。リビングルームの中央にあるダイニングテーブルの椅子にテディベアを置き、隣に僕は座った。大きな窓の外には青々とした芝生の庭が広がり、端にある柿の木がまだ青い実をぶら下げていた。
「どうぞ、お口に合うか分かりませんが」と僕の前に焼き上がったバタークッキーの乗った白い皿を田辺夫人が差し出した。「ありがとうございます。頂きます」と僕はその一つを摘まんで口へと運んだ。甘みとともにバターの香りが口の中に満ちた。「美味しいです」と僕はティーカップの紅茶を飲んでから田辺夫人に言った。「良かった」田辺夫人は細い目がなくなるほどの笑顔を見せ、「新しいテディベアを持って来ますね」と二階へと上がった。
「何ていう名前なの?」右斜め前の椅子に座り、クッキーを頬張りながらリョウはテディベアを指差した。「名前は知らないんだ。君のお姉さんが付けてるんじゃないかな」と僕は紅茶を啜った。「ふーん。もう一匹はゴロウだよ」とリョウはコップに入った牛乳をゴクゴク飲んだ。「そうなんだ」と僕は頷いた。
ゴロウは縮れた赤茶色の体毛の上に赤い軍服を着て、頭の上に黒いベレー帽を乗せていた。「サキはまだ時々シロウのことを話したりするんですよ」田辺夫人の説明で眼帯のテディベアの名前が判明した。僕は「とても思い出深そうですもんね」とシロウを見ながら言った。「サキの出産祝いに友達に貰って、ずっと一緒にいたので離れる時はなかなか言うことを聞いてくれなくて」「ええ。聞いてます」僕が相槌を打っていると、「ただいまー!」という大きな女の子の声が玄関のほうから聞こえてきた。シロウの腕がピクりと動いた気がした。長く黒い髪をピンクのヘアゴムでツインテールにした女の子が入って来た。切り揃えられた前髪の下の大きな瞳を輝かせ、サキは「シローウ!」と満面の笑みで椅子の上に乗っていたシロウをギュっと抱きしめた。「やっぱり約束覚えてたんだね」サキはシロウの眼帯をなでながら話しかけた。僕は少しこみあげるものを感じ上を向いた。
田辺家を出る時、三人と二体のテディベアが僕の背中を見送った。
「おい、礼を言うぞ、若造!」
「おっさん、サキちゃんのお隣ポジションは俺だからな、勘違いすんなよ」
「あ? やんのか? すかしたベレー帽なんか被って調子こいてんじゃねーぞ!」
なんだか賑やかなやり取りに僕は笑みを浮かべ、振り返り手を振った。薄紫色を帯び始めた空に白くぼやけた丸い月が浮かんでいた。
〈了〉
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