ぼくが働くガソリンスタンドはちょっと変わった場所にある。海の上だ。面積十平方メートル程度の小島で、本島から離れた沖合に浮かんでいる。もちろん自動車は一台もない。車がないのにガソリンスタンドだけあるってのも変な話だけど、ここは最初から離れ小島だったわけじゃない。ずっと昔に地殻変動が起こってガソリンスタンドだけ本島からちぎれてしまったんだって。もう何年も前に死んだチーフが教えてくれたことだ。ぼくがチーフを水葬にしてここから送り出してやったんだ。
チーフはいい人だったよ。ぼくがここに来たときには既に白髪頭のおじいさんだったけど、真っ黒に日焼けして、目玉がぎょろっとしていて、筋骨たくましい怪物みたいだった。腕ずもうでは結局一度も勝てなかった。ぼくはチーフからすべてを教えてもらった。魚釣りとか星座のこととか、単調な島の生活を楽しむために必要なあらゆることだ。潜水の技術を習ったあとは、よく二人で海にもぐって貝を拾い集め、太陽の下で焼いて食べたものだ。給油のしかたや接客態度も教えてもらったけど、それはまだ役に立っていない。
一人になって数ヶ月のあいだはずっと寂しかった。涙が出そうな日には、ガソリンを一滴だけ海にたらして一日じゅう海の中を覗いて過ごしたものだ。ガソリンをたらすと、目がつぶれんばかりに輝く海面がそこだけぽっかり穴が開いたみたいに底まで見えるようになる。あるとき、ぼくは大きなタコが海底のサンゴのあいだから太い足を出しているのを見た。ぼくはすぐに銛を携えてガソリンの穴から海に飛び込み、サンゴの割れ目に銛を突き刺した。ところが大ダコは足をさっと銛に巻きつけて小枝のように折ってしまった。ぼくはすぐさま退散した。脚までへし折られちゃたまらないからね。大ダコは暗がりから顔を出してぼくをまぶたのない目で見つめていた。ぎょろっとした大きな眼球が叡智を宿しているかのようにチラチラと輝くのを見てぼくは確信した。チーフが大ダコになって見守ってくれているんだって。その日以来、ぼくはもうちっとも寂しくなかった。
ぼくはいつも海の上にいるわけじゃない。日曜日にはガソリンスタンドを閉めて、本島で買出しや他の用事を済ませる。移動手段はスワンボートだ。スワンボートは慣れれば運転しながら本も読めるし、快適だ。それに足で漕ぐだけで動くところがいい。売り物のガソリンを無駄遣いせずに済むからね。本島には姉さんがいて仏壇を守っている。ぼくは日曜日の夜は実家に泊まって、月曜日にガソリンスタンドに戻る生活を何年も送った。
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