1
「ホントに物好きだね。他にやることあるだろうに」高岡さんはため息混じりに言う。
仕事ですから、とだけ返し、私は準備を続けた。
「じゃあ、俺は帰るかな」後ろで、彼がつぶやいた。
「お疲れ様でした」私は振り返り、頭を下げる。
「あれ、高岡さん帰っちゃうんすか」
ちょうど買出しから戻ってきた前田が言った。
「今日ぐらい休ませてもらうよ。おつかれ」ひらひらと左手を振りながら、高岡さんはスタジオから出て行った。
「……上と掛け合ってくれたの、高岡さんでしたよね」
「掛け合うっていっても、ふたつ返事だったらしいわよ。お偉いさん方は」
「そりゃそうっすよね」前田は笑いながら続けた。「今日だったらどんな企画だって通っちゃいますよ」
「確かに」私もつられて笑った。
朝の六時から約十六時間も、生放送で特番をやろうというのだ。普段こんな企画を持ち出しても、冗談として流されるか、今後一切、企画の話を聞いてもらえなくなるかのどちらかだろう。
「それより、ごめんね。買い物なんか頼んじゃって。お店閉まってなかった?」
「そうなんすよ!コンビニまで閉まってるの、初めて見ましたよ。でも、中に商品はあったんで、お金置いて持ってきちゃいました」前田は、持ってきた袋の中をのぞいた。「一応、賞味期限が大丈夫なのを選んできたんで安心してください。えーっと、藤田さんはキャラメルマキアートとハムサンドっすよね。あ、あと水」
「うん、ありがと」
「で、佐々木が肉の入った弁当とお茶。佐々木!ここ置いとくぞ」
「おう。サンキュ」向こうでなにやら機材をいじっている佐々木が答えた。
水を一口含み、腕時計を見た。本番まで、あと四十分。水が喉に吸い込まれる。私は、もう一度水を口に入れた。生放送は初めてではない。アナウンサーなのだから、それは当然のことかもしれない。だが、今回はいつもと違う。スタッフはADがたったの二人だけ。佐々木と前田。仕事ができるとはいえ、彼らは若手だ。それに私も、こんな長時間の生放送は経験したことがない。なにより、コメンテーターもいなければ、私以外にアナウンサーもいないのだ。出演者は、私、一人。口の中の水を飲み込むが、喉は渇いたままだった。
「こっちも準備できました」佐々木が私たちのほうへやってきた。
「お疲れ様。じゃあ、ちょっと休憩しましょうか。おなかも減ったし」
「そっすね。佐々木、これ、弁当とお茶」前田が佐々木に手渡した。
「サンキュ」佐々木は椅子に座り、お茶を飲んだ。
「いただきます」
私たちは、少し早めの朝食をとることにした。
この仕事に就いたことに、そんなに深い意味はなかった。昔から、喋るのが好きだったこと。テレビ業界に、他にはない華やかさを感じていたこと。知的な女性に憧れていたこと。ただそれだけの理由で、アナウンサーを目指していた。入社当時は、上司に怒られることもあったが、基本的に想像通りの楽しい職場だった。バラエティー番組に出たときは、間近で有名人を見て、心底この仕事についてよかったと思ったものだ。なら、なぜ私は、最期の日にこんなことをしているのだろうか。
「しっかし、藤田さんも変わってますよね。こんな日まで仕事だなんて」弁当を食い終わった前田が言った。
「確かに。最初に話を聞いたときは、どんだけ仕事好きなんだって思いましたよ」佐々木も笑いながら言った。
「それを言うなら、二人だって同じでしょ。現に、残って仕事してるんだから」
手伝ってくれた人は大勢いたが、スタッフとして現場に残ったのは、この二人だけだった。
人それぞれ理由があるのだから、それは仕方のないことだ。
「そういえば、二人はなんで残ってくれたの?仕事っていっても強制じゃなかったのに」
二人は顔を見合わせた。
「どうしてって……どうしてなんすかね」前田が首をひねりながら言った。
「なによそれ、何の理由もないの?」
私は思わず聞き返してしまった。
「そういわれても、なあ」前田は佐々木の方を向いた。
「うん。俺も明確な理由はないです。ただ、なんとなく、藤田さんの企画に惹かれたんです」
「そうっす!それっす!なんていうか、いいなって思ったんですよ」
「前田はなんか、嘘っぽいなあ」私は笑った。
その言葉を聞いた彼は、いつもと同じように、大げさなリアクションとともに反論してきた。 彼と知り合ったのは、初めて出演したバラエティー番組の現場だった。彼はその番組で、ADを担当していたのだ。入社して間もないということだったが、開放感抜群な性格と少しオーバーな身振り手振り。そんな彼がいたことで、慣れない現場を楽しむことができたのを覚えている。入社二年目のことだった。
「ところで、藤田さんは、どうしてこの特番をしようと思ったんですか?」
私たちのやりとりを笑いながら見ていた佐々木が、不意に聞いてきた。
「えっ?」
突然の質問に、戸惑ってしまった。
「俺も聞きたいっす。」興味津々、といった感じだ。「藤田さんが、この番組をやりたいと思った理由」
一年の間に、バラエティーの仕事は増えていった。自分で言うのもなんだが、喋ることが好きな私とバラエティー番組の相性がよかったのだ。それとは逆にニュースを読む機会は減っていった。テレビ業界の華やかさに惹かれて入社した部分もあるのだから、そういう意味ではよかったのかもしれない。
そんな頃に出会ったのが、佐々木だった。新しく始まるニュース番組にADとして配属された彼は、前田と同期だった。その番組に私も出ることになっていた。彼は、報道番組がやりたくてこの会社に入ったのだという。飲み会の席で、普段の物腰が柔らかく、爽やかな印象の彼からは想像もつかない勢いでニュースについて熱い話をされたときは、正直驚いた。それと同時に、彼の熱さについていっている自分にも驚かされた。
「やりたいと思った理由……」
頭の中に沢山の単語が出てきて、言葉にならない。喋ることに困ったのは、久々の経験だった。私は少し顔を下に向けた。いつもなら原稿か進行表があるのだが、当然、今は無い。代わりに目に入ったのは腕にある時計だった。本番十五分前だった。
入社して三年と十ヶ月。今から約半年前。報道のスペシャル番組の仕事が決まった。メインMCだった。その頃の私は、バラエティー番組の仕事がほとんどだった。そんな私を起用したのは、プロデューサーの高岡さんだった。彼とは何度か仕事をしたことがあったが、わざわざ、私を選んでくれるほど気に入っているとも思えない。だから、つい聞いてしまったのだ。なぜ、私なのかと。
言ったあとに後悔した。今の言い方だと、まるで嫌がっているみたいだ。慌てて言い直そうとしたとき、高岡さんはこう言った。
藤田の仕事は伝えることだ。
それだけ言うと、彼は歩いていってしまった。私は、彼の答えに戸惑い、動けなかった。どういう意味なのか、わからなかった。
「伝えなきゃいけないと思ったの。アナウンサーとして、今までの出来事や今起こっていること、これから起こることも」
わが社は当初、撮りだめてある番組を流そうということになっていた。それを聞いたときは、妥当な判断だと思ったが、なぜか納得はしていなかった。自分が納得するためには、どうすればいいのだろうか。そう考えたとき、高岡さんの言葉を思い出した。そのあと、急いで企画書を作り、高岡さんに自分の気持ちを話しに行った。高岡さんは、私の話を聞き終えるとすぐに上と話をつけてくれた。そうしてできあがったのが、この番組なのだ。
「やっぱ残ってよかったっす」
「俺もです。藤田さん」
少しの間を空けて、前田と佐々木が口を開いた。
「もうそろそろ、最終チェック始めましょうか」腕時計を見ながら佐々木が立ち上がった。
本番一分前。最終チェックも終わり、後は本番を待つのみ。私は水を飲んだ。水は喉を流れていった。人には一生のうちに、自分にしかできない、使命だと感じる物事がいくつかあるのではないだろうか。少なくとも私にとって、この番組は、それにあたると思う。今思えば、あの二人にとっても、そうなのかもしれない。私はあと何回、そんな出来事に出会えるのだろうか。
あと十秒。本番が始まる。
2
「おはようございます。現在、時刻は朝の六時を回ったところ」
カーラジオのチャンネルを回していたら、偶然番組が始まった。こんな日でも、働いている人はいるのかと変に感心してしまった。
大阪から東京を目指して今日で七日目。高速も使わず、男三人寄り道しまくりの旅。もうすぐ東京に入るところだった。
大学に入ったばかりの俺たちだったが、一週間前の発表を聞いてすぐに、この旅を計画した。デマかもしれないと思ったが、そんなことを世界中の政府が同時にするとは思えなかった。旅の理由は簡単だった。大学生らしいことをしたかったのだ。若いときにしかできない、青臭いことをしてみたかったのだ。
かといって、入ったばかりの大学には、まだそんなことをするほど仲のいいやつはいない。だから、地元でいつも一緒にいる三人で行くことにした。
親も案外すんなりと承諾してくれた。若い頃にやっておかなければいつか後悔する、ということだった。
あたりが少し明るくなってきた頃、助手席で爆睡していたケースケが起きた。
「おはよお、今どこ」あくびをしながら聞いてきた。
「もうすぐ東京」
「うーん」今度は伸びだ。「ディズニー?」
「あほか、あれは千葉や」
起きてさっそく天然っぷりを発揮している。
「はは、そっか。」彼は後ろの席を振り返った。「シンペーまだ寝てるやん」
「夜中、運転しとったから」
「そうやったんや、なんか覚えてへんわ」
「お前寝とったやん」つい笑ってしまった。
「シンペーが東京着いたら起こしてって」
「シンペー、朝やでー」
「話、聞いてた?」
「うん。あ、起きた」
「おはよ……東京ついたん?」バックミラーに映った彼の目は開いていなかった。
「もうすぐ東京」ケースケは笑顔で答えた。
「えっ?」シンペーの目が開いた。「うそーん。東京着いたら起こしてって言ったやん、俺。今何時?」
「七時。シンペーが寝てから二時間」俺は車の時計を見て答えた。「東京まであと一時間ぐらい」
「信じられへんわー、ありえへんわー」
シンペーはまだ文句を言っている。
「俺に言うなや。起こしたのんケースケやねんから」
「カズマがちゃんと言わへんからやん」
「言ったよ。なあ、ケースケ?」
「僕、知らんでー」
「恐ろしい子!言うたやん、俺」
「そうやっけ?あ、東京やって!」
「ほんまや!ほんまやったら今まで寝れたのに、カズマのせいで、なあ、ケースケ」
「ほんまやで、カズマ、ごめんなさいは?」
「ごめんなさい、ってなんでやねん!」
車の中は、笑い声が絶えなかった。
東京に入って、しばらく走っていると、あきる野市、というところに入った
「東京タワーまだ?」
「まだまだや。それより、朝飯食おうや。どっか車止めれるとこない?」
「近くに、桜咲いてる公園あるで」携帯で東京のことを調べていたケースケが、嬉しそうに言った。
「マジで?朝から花見とか、めっちゃ贅沢やん。ってか、まだ食料あるよな」
「あるで、缶詰ばっかりやけど」シンペーがトランクと一体化している三列目のシートを見て言った。
「ほんならその公園で花見や」
その公園は、都立小峰公園という名前だった。到着したのは、大体九時ごろだった。
「むっちゃ桜咲いてるやん」ケースケが大きな声で言った。
まさに見ごろだった。まだ朝ということもあってか、人の姿はなかった。俺たちは、早速シートを広げ、花見を始めた。
「うまいわ、この缶詰」
サバの味噌煮の缶詰を食べているシンペーが言った。
「缶詰には飽きたんちゃうかったん?」ケースケが冷やかした。
「わからんかなー、この風流な感じ」
「シンペー、持ってるサバから汁たれてるで」俺が指摘した。
「え?うわっ」シンペーが慌ててサバを口に入れた。「あー、ジーパンについてもた」
笑い声で桜の木が揺れた。
日本人は、ほぼ例外なく桜が好きだ。その理由は三つあると、俺は思う。まず一つ目は、小さくて薄紅色だから。あの花の色と形は誰が見ても可愛らしいと思うだろう。二つ目は、人生の節目、入学や卒業、就職のときに見る花だから。イベントをそっと彩ってくれる花なのだ。そして、三つ目は桜が儚いから。その刹那的な美しさが、日本人の美意識と合っているのだと思う。もし、桜が季節に関係なく咲いていたら、こんなにも好かれていないだろうし、美しさも半減してしまうのではないだろうか。
「ほんなら、そろそろ行こか」
片づけを終えて、俺たちは立ち上がった。
「そやな!東京タワー見たいし」
「ケースケ、お前そればっかりやな」
「ちょっと、シンペーさん、サバくさいんで近寄らんといてもらえますか」
「ひどっ!カズマ、なんとか言ってくれや」
「お前とはここでお別れのようやな。車がサバくさくなってしまう」
「ありえへん!じゃあ、もうこのジーパン捨てるから!乗せてください!」
シンペーはベルトに手をかけて、ジーパンを脱ぎ始めた。ケースケは爆笑している。
「もうわかったから、はよ行くで」
無事に三人で東京タワーを目指すことになった。
東京タワーに着いたのは、昼の一時を回った頃だった。東京タワーは一週間前から、特別展望台へも無料であがれるようになっていた。最初はそれなりに人も集まっていたようだが、この日は男の子が一人いるだけだった。展望台から東京の町並みを堪能した。ケースケとシンペーは通天閣の方が、ビリケンさんと天気予報がある分すごいとか言っていた。
東京タワーの足元にも、桜の花が咲いていた。上から桜を見るのは初めてで、こういう見方も面白いなと思った。
時々、風が吹いて、花びらが飛ばされていく。それを見て、ああ、やっぱり散るんだな、と思った。
桜は、散る。その儚さがあるからこそ、美しいのだ。
タワーを降りると、次の行き先を決めることになった。もう、午後三時だ。
「渋谷のスクランブル交差点」
「今いっても、合戦みたいになってないやろ。ここは、銀座とか歌舞伎町行こや」
「ニュースで見たけど、あそこはリアルな合戦が起きてる。ヒルズにしよう。六本木」
このままでは、時間がもったいないので、歩きながら決めることにした。
結局、何も決まらないまま駐車場に着いてしまったので、じゃんけんで決めることにした。俺が一回目で一人負けしてしまい、六本木は消えた。二人の勝負を見ているのも癪なので、少し離れて東京タワーのほうを見ていた。すると、こっちに向かって子供が自転車を押して歩道を歩いてくる。どうやら、パンクしてしまったらしい。
俺は駆け寄って声をかけた。
「自転車、パンクしたん?」
「うん」男の子は頷いた。
その子は、展望台にいた男の子だった。小学校低学年ぐらいだろうか。
「家、近くなん?」
「ううん」彼は首を横に振る。
「もし、よかったら送ろか?」
「でも……知らない人には着いて行っちゃいけないって」
正論だ。だが、このまま放っておくわけにも行かない。
「ほんなら、家の電話番号は?電話して迎えに来てもらうとか」
「家に車ない」そういうと彼は、下を向いてしまった。
「やっぱり乗っていき。親御さんも心配してるやろうし」
俺は男の子の手を引っ張って車のほうに連れて行った。
二人の勝負はついていた。彼らは、俺と男の子の存在に気付くと、誘拐か!?などと騒いだが、事情を話すと、快く行き先を変更してくれた。
男の子の自転車を積み、彼の家に向けて出発した。
3
「ただいま」
玄関の方で声がした。拓ちゃんの声だった。
急いで玄関へ行くと、そこには、拓ちゃんと見知らぬ青年一人、立っていた。彼らの後ろには、大きめの車が止まっていた。陽は暮れ始めていた。
「ただいま、先生」
「拓ちゃん、良かった」声が震えた。
拓ちゃんを思い切り抱きしめた。
「このお兄ちゃん達が送ってくれたの」
私は、顔を上げ、青年を見た。
「どなたか存じませんが、本当にありがとうございます」私は頭を下げた。
「気にせんとってください。勝手に送ってきただけですから」
青年の声には関西の訛りがあった。もう一度頭を下げ、拓ちゃんと向き合った。
「拓ちゃん、どこ行ってたの!先生ほんとに心配したんだからね!」つい、声が大きくなってしまった。
「ごめんなさい。僕、海に行きたかったんだ。だから、東京タワーに海がどっちにあるか見に行ったんだけど、降りてきて、少し乗ったら自転車がパンクしちゃって、それで、どうしようって思って……」
拓ちゃんはそこまで言うと黙ってしまった。
「そこで偶然、僕らが見つけまして。ほっとくわけにはいきませんし、ちょっと強引にですが、送らせてもらいました」
青年がフォローを入れてくれた。
「本当に助かりました。朝起きたら、この子がいなくなっていて、警察にはつながらないし、まさか、東京タワーまで行っているなんて……本当になんとお礼を言ったらいいか」
「ほんまにええんです。それより、拓海くんから先生にお願いがあるそうなんです」
青年が拓ちゃんに視線を送った。拓ちゃんも青年を見上げ、頷いた。
「先生、僕、海に行きたい」
拓ちゃんの話はこうだった。海を見に行ったのは、小さい頃にお母さんと行った思い出の場所だから。もう一度、砂浜のある海に行きたい。お兄ちゃん、中川和真さん達が私さえ良ければ、拓ちゃんを海に連れて行ってくれること。
「車の中で、拓海くんから大体のことは聞きました。この子のご両親のことも、この施設のことも。」中川さんの手が拓ちゃんの頭を優しく撫でた。「僕らが口出しできることやないのはわかってます。でも、もしお許しいただけるなら、僕らはきっちり最期まで拓海くんの面倒を見させてもらいます」
彼の言葉に、嘘はない。そう直感した。そして、彼は本気で拓ちゃんのことを思ってくれているとも感じた。
「よろしく、お願いします」
私は頭を下げた。
この判断は間違ってはいない。この一週間で施設の子供達はみんな出て行った。もともと、小さな施設だったので、子供達の人数は少なかった。実の両親が迎えに来た子もいた。今年高校を卒業する子達は、自分の行きたいところに行った。それについていった中学生の子もいた。
「本当に、先生は行かないんですか?」
中川さんが最後の確認をした。
「はい。私には、この家でやることがありますので。拓ちゃんのこと、よろしくお願いします」
少しの沈黙の後、中川さんは、わかりました、と言い頷いた。
車のエンジンがかかり、まもなく走り出した。
「先生、いってきまーす」
窓から拓ちゃんが顔を出し、大きく手を振った。私も、精一杯手を振り返した。
この判断は、間違っていない。玄関の私はドアを閉め、中に入った。いつもは、うるさいほど賑やかなリビングは、時計の音が聞こえるだけになっていた。
ふすまを開け和室に入る。夕日が窓から差し込んでいた。部屋の奥にある仏壇の前に座った。あの子達が出て行くことを促したのは私だ。最期なのだからやりたいことをやりなさいと。ろうそくに火を灯し、その火を線香に火をつけた。独特の香りが部屋に広がった。
みんな、私のことを心配してくれ、一緒にいたいといってくれた。嬉しかった。リンの音が響く。さっきよりも色の濃い夕日が部屋を照らしていた。最終的には、私の願いということもあって、みんな自分が行きたいところへ行ったのだ。
仏壇に手を合わせ拝んだ。
「あなた、やっとこの施設から子供がいなくなりましたよ。あなたずっと言ってましたものね」夕日は私を照らしてくれない。「こんな施設が要らない世界になってほしいって」
正確には、引き取られていない子もいる。嘘だといわれればそれまでだ。
「ようやく叶いましたよ。あなたの願いが」
そして、その嘘は、許されないものかもしれない。だが、実際に迎えに来た親もいるのだ。断りはしたが、里親になりたいという人もたくさん来た。この施設は必要なくなったのではないだろうか。許されないのはこの世界の方ではないのか。自分の肩が震えているのがわかった。
リビングのほうで電話の音がした。気持ちを落ち着けて受話器をとった。空には月が昇っていた。
「はい、もしもし」
「先生?もしもし、千鶴です」
「ちーちゃん!久しぶり。どうしたの?」
「先生、私、子供が産まれるの。男の子」
「ほんとう!?良かったじゃない」
「うん、それでね、先生に名前をつけてもらおうと思って」
「嬉しいけど、私なんかでいいの?」
「旦那さんも、是非って」
「本当?じゃあ、せん越ながらつけさせてもらいます。出産予定日はいつ?」
「二ヵ月後」
「いや、もうすぐじゃないの。楽しみ。ちーちゃんの子供だから、きっと男前ね。わかりましたそれじゃあ、じっくり考えさせてもらうわね」
「うん。ありがとう先生」
4
お母さん、何で泣いてるの?僕、もうすぐお母さんに会えるんだよ。お父さん、お母さんを慰めてよ。一緒に泣いてちゃだめだよ。あとちょっとなんだよ。いつもみたいに話しかけてよ。僕、こんなにおっきくなったんだよ。
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