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工房12号

小説

8,513文字

一日の話

 

「ホントに物好きだね。他にやることあるだろうに」高岡さんはため息混じりに言う。

仕事ですから、とだけ返し、私は準備を続けた。

「じゃあ、俺は帰るかな」後ろで、彼がつぶやいた。

「お疲れ様でした」私は振り返り、頭を下げる。

「あれ、高岡さん帰っちゃうんすか」

ちょうど買出しから戻ってきた前田が言った。

「今日ぐらい休ませてもらうよ。おつかれ」ひらひらと左手を振りながら、高岡さんはスタジオから出て行った。

「……上と掛け合ってくれたの、高岡さんでしたよね」

「掛け合うっていっても、ふたつ返事だったらしいわよ。お偉いさん方は」

「そりゃそうっすよね」前田は笑いながら続けた。「今日だったらどんな企画だって通っちゃいますよ」

「確かに」私もつられて笑った。

朝の六時から約十六時間も、生放送で特番をやろうというのだ。普段こんな企画を持ち出しても、冗談として流されるか、今後一切、企画の話を聞いてもらえなくなるかのどちらかだろう。

「それより、ごめんね。買い物なんか頼んじゃって。お店閉まってなかった?」

「そうなんすよ!コンビニまで閉まってるの、初めて見ましたよ。でも、中に商品はあったんで、お金置いて持ってきちゃいました」前田は、持ってきた袋の中をのぞいた。「一応、賞味期限が大丈夫なのを選んできたんで安心してください。えーっと、藤田さんはキャラメルマキアートとハムサンドっすよね。あ、あと水」

「うん、ありがと」

「で、佐々木が肉の入った弁当とお茶。佐々木!ここ置いとくぞ」

「おう。サンキュ」向こうでなにやら機材をいじっている佐々木が答えた。

水を一口含み、腕時計を見た。本番まで、あと四十分。水が喉に吸い込まれる。私は、もう一度水を口に入れた。生放送は初めてではない。アナウンサーなのだから、それは当然のことかもしれない。だが、今回はいつもと違う。スタッフはADがたったの二人だけ。佐々木と前田。仕事ができるとはいえ、彼らは若手だ。それに私も、こんな長時間の生放送は経験したことがない。なにより、コメンテーターもいなければ、私以外にアナウンサーもいないのだ。出演者は、私、一人。口の中の水を飲み込むが、喉は渇いたままだった。

「こっちも準備できました」佐々木が私たちのほうへやってきた。

「お疲れ様。じゃあ、ちょっと休憩しましょうか。おなかも減ったし」

「そっすね。佐々木、これ、弁当とお茶」前田が佐々木に手渡した。

「サンキュ」佐々木は椅子に座り、お茶を飲んだ。

「いただきます」

私たちは、少し早めの朝食をとることにした。

この仕事に就いたことに、そんなに深い意味はなかった。昔から、喋るのが好きだったこと。テレビ業界に、他にはない華やかさを感じていたこと。知的な女性に憧れていたこと。ただそれだけの理由で、アナウンサーを目指していた。入社当時は、上司に怒られることもあったが、基本的に想像通りの楽しい職場だった。バラエティー番組に出たときは、間近で有名人を見て、心底この仕事についてよかったと思ったものだ。なら、なぜ私は、最期の日にこんなことをしているのだろうか。

「しっかし、藤田さんも変わってますよね。こんな日まで仕事だなんて」弁当を食い終わった前田が言った。

「確かに。最初に話を聞いたときは、どんだけ仕事好きなんだって思いましたよ」佐々木も笑いながら言った。

「それを言うなら、二人だって同じでしょ。現に、残って仕事してるんだから」

手伝ってくれた人は大勢いたが、スタッフとして現場に残ったのは、この二人だけだった。

人それぞれ理由があるのだから、それは仕方のないことだ。

「そういえば、二人はなんで残ってくれたの?仕事っていっても強制じゃなかったのに」

二人は顔を見合わせた。

「どうしてって……どうしてなんすかね」前田が首をひねりながら言った。

「なによそれ、何の理由もないの?」

私は思わず聞き返してしまった。

「そういわれても、なあ」前田は佐々木の方を向いた。

「うん。俺も明確な理由はないです。ただ、なんとなく、藤田さんの企画に惹かれたんです」

「そうっす!それっす!なんていうか、いいなって思ったんですよ」

「前田はなんか、嘘っぽいなあ」私は笑った。

その言葉を聞いた彼は、いつもと同じように、大げさなリアクションとともに反論してきた。 彼と知り合ったのは、初めて出演したバラエティー番組の現場だった。彼はその番組で、ADを担当していたのだ。入社して間もないということだったが、開放感抜群な性格と少しオーバーな身振り手振り。そんな彼がいたことで、慣れない現場を楽しむことができたのを覚えている。入社二年目のことだった。

「ところで、藤田さんは、どうしてこの特番をしようと思ったんですか?」

私たちのやりとりを笑いながら見ていた佐々木が、不意に聞いてきた。

「えっ?」

突然の質問に、戸惑ってしまった。

「俺も聞きたいっす。」興味津々、といった感じだ。「藤田さんが、この番組をやりたいと思った理由」

一年の間に、バラエティーの仕事は増えていった。自分で言うのもなんだが、喋ることが好きな私とバラエティー番組の相性がよかったのだ。それとは逆にニュースを読む機会は減っていった。テレビ業界の華やかさに惹かれて入社した部分もあるのだから、そういう意味ではよかったのかもしれない。

そんな頃に出会ったのが、佐々木だった。新しく始まるニュース番組にADとして配属された彼は、前田と同期だった。その番組に私も出ることになっていた。彼は、報道番組がやりたくてこの会社に入ったのだという。飲み会の席で、普段の物腰が柔らかく、爽やかな印象の彼からは想像もつかない勢いでニュースについて熱い話をされたときは、正直驚いた。それと同時に、彼の熱さについていっている自分にも驚かされた。

「やりたいと思った理由……」

頭の中に沢山の単語が出てきて、言葉にならない。喋ることに困ったのは、久々の経験だった。私は少し顔を下に向けた。いつもなら原稿か進行表があるのだが、当然、今は無い。代わりに目に入ったのは腕にある時計だった。本番十五分前だった。

入社して三年と十ヶ月。今から約半年前。報道のスペシャル番組の仕事が決まった。メインMCだった。その頃の私は、バラエティー番組の仕事がほとんどだった。そんな私を起用したのは、プロデューサーの高岡さんだった。彼とは何度か仕事をしたことがあったが、わざわざ、私を選んでくれるほど気に入っているとも思えない。だから、つい聞いてしまったのだ。なぜ、私なのかと。

言ったあとに後悔した。今の言い方だと、まるで嫌がっているみたいだ。慌てて言い直そうとしたとき、高岡さんはこう言った。

藤田の仕事は伝えることだ。

それだけ言うと、彼は歩いていってしまった。私は、彼の答えに戸惑い、動けなかった。どういう意味なのか、わからなかった。

「伝えなきゃいけないと思ったの。アナウンサーとして、今までの出来事や今起こっていること、これから起こることも」

わが社は当初、撮りだめてある番組を流そうということになっていた。それを聞いたときは、妥当な判断だと思ったが、なぜか納得はしていなかった。自分が納得するためには、どうすればいいのだろうか。そう考えたとき、高岡さんの言葉を思い出した。そのあと、急いで企画書を作り、高岡さんに自分の気持ちを話しに行った。高岡さんは、私の話を聞き終えるとすぐに上と話をつけてくれた。そうしてできあがったのが、この番組なのだ。

「やっぱ残ってよかったっす」

「俺もです。藤田さん」

少しの間を空けて、前田と佐々木が口を開いた。

「もうそろそろ、最終チェック始めましょうか」腕時計を見ながら佐々木が立ち上がった。

本番一分前。最終チェックも終わり、後は本番を待つのみ。私は水を飲んだ。水は喉を流れていった。人には一生のうちに、自分にしかできない、使命だと感じる物事がいくつかあるのではないだろうか。少なくとも私にとって、この番組は、それにあたると思う。今思えば、あの二人にとっても、そうなのかもしれない。私はあと何回、そんな出来事に出会えるのだろうか。

あと十秒。本番が始まる。

 

 

「おはようございます。現在、時刻は朝の六時を回ったところ」

カーラジオのチャンネルを回していたら、偶然番組が始まった。こんな日でも、働いている人はいるのかと変に感心してしまった。

大阪から東京を目指して今日で七日目。高速も使わず、男三人寄り道しまくりの旅。もうすぐ東京に入るところだった。

大学に入ったばかりの俺たちだったが、一週間前の発表を聞いてすぐに、この旅を計画した。デマかもしれないと思ったが、そんなことを世界中の政府が同時にするとは思えなかった。旅の理由は簡単だった。大学生らしいことをしたかったのだ。若いときにしかできない、青臭いことをしてみたかったのだ。

かといって、入ったばかりの大学には、まだそんなことをするほど仲のいいやつはいない。だから、地元でいつも一緒にいる三人で行くことにした。

親も案外すんなりと承諾してくれた。若い頃にやっておかなければいつか後悔する、ということだった。

あたりが少し明るくなってきた頃、助手席で爆睡していたケースケが起きた。

「おはよお、今どこ」あくびをしながら聞いてきた。

「もうすぐ東京」

「うーん」今度は伸びだ。「ディズニー?」

「あほか、あれは千葉や」

起きてさっそく天然っぷりを発揮している。

「はは、そっか。」彼は後ろの席を振り返った。「シンペーまだ寝てるやん」

「夜中、運転しとったから」

「そうやったんや、なんか覚えてへんわ」

「お前寝とったやん」つい笑ってしまった。

「シンペーが東京着いたら起こしてって」

「シンペー、朝やでー」

「話、聞いてた?」

「うん。あ、起きた」

「おはよ……東京ついたん?」バックミラーに映った彼の目は開いていなかった。

「もうすぐ東京」ケースケは笑顔で答えた。

「えっ?」シンペーの目が開いた。「うそーん。東京着いたら起こしてって言ったやん、俺。今何時?」

「七時。シンペーが寝てから二時間」俺は車の時計を見て答えた。「東京まであと一時間ぐらい」

「信じられへんわー、ありえへんわー」

シンペーはまだ文句を言っている。

「俺に言うなや。起こしたのんケースケやねんから」

「カズマがちゃんと言わへんからやん」

「言ったよ。なあ、ケースケ?」

「僕、知らんでー」

「恐ろしい子!言うたやん、俺」

「そうやっけ?あ、東京やって!」

「ほんまや!ほんまやったら今まで寝れたのに、カズマのせいで、なあ、ケースケ」

「ほんまやで、カズマ、ごめんなさいは?」

「ごめんなさい、ってなんでやねん!」

車の中は、笑い声が絶えなかった。

東京に入って、しばらく走っていると、あきる野市、というところに入った

「東京タワーまだ?」

「まだまだや。それより、朝飯食おうや。どっか車止めれるとこない?」

「近くに、桜咲いてる公園あるで」携帯で東京のことを調べていたケースケが、嬉しそうに言った。

「マジで?朝から花見とか、めっちゃ贅沢やん。ってか、まだ食料あるよな」

「あるで、缶詰ばっかりやけど」シンペーがトランクと一体化している三列目のシートを見て言った。

「ほんならその公園で花見や」

その公園は、都立小峰公園という名前だった。到着したのは、大体九時ごろだった。

「むっちゃ桜咲いてるやん」ケースケが大きな声で言った。

まさに見ごろだった。まだ朝ということもあってか、人の姿はなかった。俺たちは、早速シートを広げ、花見を始めた。

「うまいわ、この缶詰」

サバの味噌煮の缶詰を食べているシンペーが言った。

「缶詰には飽きたんちゃうかったん?」ケースケが冷やかした。

「わからんかなー、この風流な感じ」

「シンペー、持ってるサバから汁たれてるで」俺が指摘した。

「え?うわっ」シンペーが慌ててサバを口に入れた。「あー、ジーパンについてもた」

笑い声で桜の木が揺れた。

日本人は、ほぼ例外なく桜が好きだ。その理由は三つあると、俺は思う。まず一つ目は、小さくて薄紅色だから。あの花の色と形は誰が見ても可愛らしいと思うだろう。二つ目は、人生の節目、入学や卒業、就職のときに見る花だから。イベントをそっと彩ってくれる花なのだ。そして、三つ目は桜が儚いから。その刹那的な美しさが、日本人の美意識と合っているのだと思う。もし、桜が季節に関係なく咲いていたら、こんなにも好かれていないだろうし、美しさも半減してしまうのではないだろうか。

「ほんなら、そろそろ行こか」

片づけを終えて、俺たちは立ち上がった。

「そやな!東京タワー見たいし」

「ケースケ、お前そればっかりやな」

「ちょっと、シンペーさん、サバくさいんで近寄らんといてもらえますか」

「ひどっ!カズマ、なんとか言ってくれや」

「お前とはここでお別れのようやな。車がサバくさくなってしまう」

「ありえへん!じゃあ、もうこのジーパン捨てるから!乗せてください!」

シンペーはベルトに手をかけて、ジーパンを脱ぎ始めた。ケースケは爆笑している。

「もうわかったから、はよ行くで」

無事に三人で東京タワーを目指すことになった。

東京タワーに着いたのは、昼の一時を回った頃だった。東京タワーは一週間前から、特別展望台へも無料であがれるようになっていた。最初はそれなりに人も集まっていたようだが、この日は男の子が一人いるだけだった。展望台から東京の町並みを堪能した。ケースケとシンペーは通天閣の方が、ビリケンさんと天気予報がある分すごいとか言っていた。

東京タワーの足元にも、桜の花が咲いていた。上から桜を見るのは初めてで、こういう見方も面白いなと思った。

時々、風が吹いて、花びらが飛ばされていく。それを見て、ああ、やっぱり散るんだな、と思った。

桜は、散る。その儚さがあるからこそ、美しいのだ。

タワーを降りると、次の行き先を決めることになった。もう、午後三時だ。

「渋谷のスクランブル交差点」

「今いっても、合戦みたいになってないやろ。ここは、銀座とか歌舞伎町行こや」

「ニュースで見たけど、あそこはリアルな合戦が起きてる。ヒルズにしよう。六本木」

このままでは、時間がもったいないので、歩きながら決めることにした。

結局、何も決まらないまま駐車場に着いてしまったので、じゃんけんで決めることにした。俺が一回目で一人負けしてしまい、六本木は消えた。二人の勝負を見ているのも癪なので、少し離れて東京タワーのほうを見ていた。すると、こっちに向かって子供が自転車を押して歩道を歩いてくる。どうやら、パンクしてしまったらしい。

俺は駆け寄って声をかけた。

「自転車、パンクしたん?」

「うん」男の子は頷いた。

その子は、展望台にいた男の子だった。小学校低学年ぐらいだろうか。

「家、近くなん?」

「ううん」彼は首を横に振る。

「もし、よかったら送ろか?」

「でも……知らない人には着いて行っちゃいけないって」

正論だ。だが、このまま放っておくわけにも行かない。

「ほんなら、家の電話番号は?電話して迎えに来てもらうとか」

「家に車ない」そういうと彼は、下を向いてしまった。

「やっぱり乗っていき。親御さんも心配してるやろうし」

俺は男の子の手を引っ張って車のほうに連れて行った。

二人の勝負はついていた。彼らは、俺と男の子の存在に気付くと、誘拐か!?などと騒いだが、事情を話すと、快く行き先を変更してくれた。

男の子の自転車を積み、彼の家に向けて出発した。

 

 

「ただいま」

玄関の方で声がした。拓ちゃんの声だった。

急いで玄関へ行くと、そこには、拓ちゃんと見知らぬ青年一人、立っていた。彼らの後ろには、大きめの車が止まっていた。陽は暮れ始めていた。

「ただいま、先生」

「拓ちゃん、良かった」声が震えた。

拓ちゃんを思い切り抱きしめた。

「このお兄ちゃん達が送ってくれたの」

私は、顔を上げ、青年を見た。

「どなたか存じませんが、本当にありがとうございます」私は頭を下げた。

「気にせんとってください。勝手に送ってきただけですから」

青年の声には関西の訛りがあった。もう一度頭を下げ、拓ちゃんと向き合った。

「拓ちゃん、どこ行ってたの!先生ほんとに心配したんだからね!」つい、声が大きくなってしまった。

「ごめんなさい。僕、海に行きたかったんだ。だから、東京タワーに海がどっちにあるか見に行ったんだけど、降りてきて、少し乗ったら自転車がパンクしちゃって、それで、どうしようって思って……」

拓ちゃんはそこまで言うと黙ってしまった。

「そこで偶然、僕らが見つけまして。ほっとくわけにはいきませんし、ちょっと強引にですが、送らせてもらいました」

青年がフォローを入れてくれた。

「本当に助かりました。朝起きたら、この子がいなくなっていて、警察にはつながらないし、まさか、東京タワーまで行っているなんて……本当になんとお礼を言ったらいいか」

「ほんまにええんです。それより、拓海くんから先生にお願いがあるそうなんです」

青年が拓ちゃんに視線を送った。拓ちゃんも青年を見上げ、頷いた。

「先生、僕、海に行きたい」

拓ちゃんの話はこうだった。海を見に行ったのは、小さい頃にお母さんと行った思い出の場所だから。もう一度、砂浜のある海に行きたい。お兄ちゃん、中川和真さん達が私さえ良ければ、拓ちゃんを海に連れて行ってくれること。

「車の中で、拓海くんから大体のことは聞きました。この子のご両親のことも、この施設のことも。」中川さんの手が拓ちゃんの頭を優しく撫でた。「僕らが口出しできることやないのはわかってます。でも、もしお許しいただけるなら、僕らはきっちり最期まで拓海くんの面倒を見させてもらいます」

彼の言葉に、嘘はない。そう直感した。そして、彼は本気で拓ちゃんのことを思ってくれているとも感じた。

「よろしく、お願いします」

私は頭を下げた。

この判断は間違ってはいない。この一週間で施設の子供達はみんな出て行った。もともと、小さな施設だったので、子供達の人数は少なかった。実の両親が迎えに来た子もいた。今年高校を卒業する子達は、自分の行きたいところに行った。それについていった中学生の子もいた。

「本当に、先生は行かないんですか?」

中川さんが最後の確認をした。

「はい。私には、この家でやることがありますので。拓ちゃんのこと、よろしくお願いします」

少しの沈黙の後、中川さんは、わかりました、と言い頷いた。

車のエンジンがかかり、まもなく走り出した。

「先生、いってきまーす」

窓から拓ちゃんが顔を出し、大きく手を振った。私も、精一杯手を振り返した。

この判断は、間違っていない。玄関の私はドアを閉め、中に入った。いつもは、うるさいほど賑やかなリビングは、時計の音が聞こえるだけになっていた。

ふすまを開け和室に入る。夕日が窓から差し込んでいた。部屋の奥にある仏壇の前に座った。あの子達が出て行くことを促したのは私だ。最期なのだからやりたいことをやりなさいと。ろうそくに火を灯し、その火を線香に火をつけた。独特の香りが部屋に広がった。

みんな、私のことを心配してくれ、一緒にいたいといってくれた。嬉しかった。リンの音が響く。さっきよりも色の濃い夕日が部屋を照らしていた。最終的には、私の願いということもあって、みんな自分が行きたいところへ行ったのだ。

仏壇に手を合わせ拝んだ。

「あなた、やっとこの施設から子供がいなくなりましたよ。あなたずっと言ってましたものね」夕日は私を照らしてくれない。「こんな施設が要らない世界になってほしいって」

正確には、引き取られていない子もいる。嘘だといわれればそれまでだ。

「ようやく叶いましたよ。あなたの願いが」

そして、その嘘は、許されないものかもしれない。だが、実際に迎えに来た親もいるのだ。断りはしたが、里親になりたいという人もたくさん来た。この施設は必要なくなったのではないだろうか。許されないのはこの世界の方ではないのか。自分の肩が震えているのがわかった。

リビングのほうで電話の音がした。気持ちを落ち着けて受話器をとった。空には月が昇っていた。

「はい、もしもし」

「先生?もしもし、千鶴です」

「ちーちゃん!久しぶり。どうしたの?」

「先生、私、子供が産まれるの。男の子」

「ほんとう!?良かったじゃない」

「うん、それでね、先生に名前をつけてもらおうと思って」

「嬉しいけど、私なんかでいいの?」

「旦那さんも、是非って」

「本当?じゃあ、せん越ながらつけさせてもらいます。出産予定日はいつ?」

「二ヵ月後」

「いや、もうすぐじゃないの。楽しみ。ちーちゃんの子供だから、きっと男前ね。わかりましたそれじゃあ、じっくり考えさせてもらうわね」

「うん。ありがとう先生」

 

 

お母さん、何で泣いてるの?僕、もうすぐお母さんに会えるんだよ。お父さん、お母さんを慰めてよ。一緒に泣いてちゃだめだよ。あとちょっとなんだよ。いつもみたいに話しかけてよ。僕、こんなにおっきくなったんだよ。

2010年9月7日公開

© 2010 工房12号

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