ちっさめろん(3)

ちっさめろん(第3話)

紙上大兄皇子

小説

9,232文字

異能者集団○者の一員である探索者は、組織の命で仲間であるシャイ谷を探す。やがてたどり着いたM沢病院には、幼い頃を共にした鼻頭が入院していた。シャイ谷の手がかりを知っているのは彼だけなのだが、どうにもあてになりそうはなく……スラップスティックSFの最高峰、表現規制のデッドラインへ迫る迫真の展開。

セグウェイをM沢病院行きのオート運転モードにしながら、情報収集のための「舌読み」を再開する。SONYのメモリーカード。デジタルメディアでも、ギガ単位のものを「舌読み」するのは少し体力を消耗する。でも、大事な手がかりだから仕方がない。

中身はほとんど動画だと一舐めでわかる。Mpegファイルだから、デジカメで撮ったんだろう。「日記」という、たぶんシャイ谷のものと思われる声から始まる。でも、音はそれきりで、無音の映像が続く。

ピンボケする寸前までズームした映像。紙に書かれた文字を写している。ゆっくりと、丁寧に読める速度。一行ごとにきちんと舐めていく撮り方だ。もしかして「舐め」つながり? ぼくが「舌読み」することを見越してこの速度にしたのだろうか?

六月五日。晴れ、ときどきめまい。

体調すこぶる不良。希アンフェタミン三錠飲む。苦い。

GVの前に結集したテロリストたちには動きがない。きょろきょろと周囲の様子を窺っているが、まだ動き出す気配はない。ただ、一人増えた。

じっと見ているしかないが、もしかしたら彼らはもう動き出しているのかもしれない。

方法はなんだろうか? 人が増えるたびに大きな麻袋を持っているのが気にかかる。巨大な炊き出しの用具も、食事以外に使えそうだ。TNT火薬による爆破という説は本当だろうか? それとも噂通り、ゴマでもすっているのか?

一瞬画面が真っ暗になり、再び文字の映像が始まる。六月はまだ彼が語り部として働いていた頃だ。語り部の任務に入ると、すごく疲れ、突発性睡眠症候群ナルコレプシーみたいになるという。そのために覚醒作用のある希アンフェタミンを飲んでいるのか、それとも単なる狂気のためか……。○者にテロリスト対策という任務があったのかどうか、ぼくは知らない。

その後、しばらく「日記」とやらの映像がつづく。GVという場所に集まるテロリストたちを監視しているらしい。体調はすこぶる悪いみたいだ。彼が怪しげな薬を飲んでいたことは初耳だし。でも、彼は語り部だから、事実かどうかは別だ。

七月、つまり失踪の一月前に入り、日付を読み上げた後に、小さく一人笑いが入るようになる。狂気の兆候? この頃にはすでに失踪しているはずだ。

七月七日。七夕にうってつけの晴れ。

テロリストたちはJOJOに人数を増やし始めた。もう一人で立ち向かえる人数ではない。一面マックロ黒助になるほどひしめいている。GVの敷地内に二千人ぐらいいる。

あるいは、目の異常かもしれない。老眼と同じ症状だ。神経組織の崩壊が始まったのか? とくに遠近感がなくなった。

夜になって、ミルキーウェイこと天の河を飲もうとするも、空はあまりに高い。

すると、月が降りてきた。ベランダの手すりにふわりと着地する。月は光り輝いているが、ずいぶん小さい。一メートルに満たない。

俺「月ってこんな小さかったのか! おい、月! おまえ、いままで騙してやがったな? 遠くにあるから大きいと思ってたのに!」

月「いや、ぼくは誰も騙しちゃいないよ。遠近法以外はね」

メディアの最後には月のイラストが入っている。全身タイツを着たような人間の身体がついている。右手はVサイン。「ピース」という甘えたようなナレーションが入る。

笑い所? これはいわゆる「オチ」のつもりなのだろうか? すべてはネタなのか?

ところで、シャイ谷は語り部であり、哲学者であり、また同時に詩人でもある。ぼくをもっとも夢中にさせるのもその才能だ。

ぼくとシャイ谷の生まれ育った孤児院の便所には落書きが多い。だいたいは性的な事柄が中心だったけど、子供なりに気の利いた言葉を書こうとしている奴もいる。それはたとえば、ジョン・レノンの亡霊だったり。

――War is over, merry Christmas!

「ずいぶんキザなことを書いた奴がいるよ、戦争も行ったことないくせにれ!」

ぼくがそう告げると、シャイ谷はすぐに駆けつけ、極太のマッキーで否定辞ノット逆接バットをつけ加えた。

――War is not over, but merry Christmas!

「戦争は終わっていない、でもメリークリスマス!」――それはその年の瀬、ぼくらの合言葉となった。

短い沈黙のあとにさらりと筆を動かしては詩を紡ぐ彼のやり方を、ぼくは秘かに尊敬している。時として一人よがりで、また難解でもある彼の詩を揶揄する声は多い。たんなるパロディだと責める声も。なにより、ほとんどの人は、彼の詩をギャグだと思って真摯に受け止めていないんだ。ぼくはそれに腹が立つ。自分の知っているやり方だけが真実だと思い込むなんて、バカもいいとこだ。

ともかく、「現実」をでっちあげるのは語り部の十八番だ。彼にとっては「日記」さえも創作の別名に過ぎないんだろう。といっても、創作が無から生まれるということもないらしい。そんなのは神の所業だ。あくまで現実をパロディ化することが多いと、自分でも言っていた。現実のパロディーばかり繰り返した結果、シャイ谷はいつも狂気と正気の境目にいる。虚実の区別がついていないというより、そんなものに興味がなくなってしまったんだろう。

鼻頭と一緒にいるということは……あいつが主催する恐怖のイベント『死なう団』だろうか? 鼻頭は本当の狂人だ。ぼくは今回の失踪で、鼻頭の関与をなによりも恐れていた。彼は筋金入りのガイキチで、しかも破滅願望がものすごく、三島由紀夫をひどく尊敬しているような節があった。女護ヶ島—男ヶ島間の遠泳、真冬の富士登山、台風の日のボディボード……。鼻頭が提案するイベント『死なう団』は、いつも決まってとびっきりに危険な場所で催された。もっとも、孤児院育ちだったぼくらは、いつだって冒険を求めていたから、妙なはしゃぎっぷりでそれらの誘いに乗っちゃっていた。なんとかすべてを乗り切ってこれたけれど、あの樹海のヤロウだけは本当にヤバかった。

とくに磁性溶岩帯でGPS携帯が壊れたときは、おしっこが漏れそうになった――というより、ぼくなんかは実際に漏らしたんだけれど、たまたまホラー映画の撮影に来ていたアマチュアグループが木々の間にある闇からひょいと飛び出てきた。まるで、幽霊みたいに。ぼくらは助けを請い、その代わりに自殺志願者の役で映画に出演した。出演が済んで、出口まで案内してもらったあと、撮影グループは樹海へ戻った。彼らはそのまま行方不明になった……。ぼくとシャイ谷をそういう命がけのバカバカしさに巻き込むのは、いつも鼻頭なのだ。あいつは命を試すようなことばかりしては、ニヤニヤと笑っていた。

5富士の樹海で大学生と出くわす

ところで、ぼくはそんな鼻頭をどう思っていたのだろうか? 好きだったろうか、嫌いだったろうか? うまく思い出せないから、舌を伸ばし、自分の頭を「舌読み」する。そうだ、ぼくは幼馴染の彼をずっと好きになれなかった。三人で遊ぶ時はいびつな三角関係トライアングルが形成されるのが常だった。

ぼくが○者になって孤児院を出てからは、極力会わないようにしていた。もっとも、○者の道を選ばなかった彼はフリーヶ丘の宿舎に入れなかったから、そんなに気を使わなくても、会うことはなかったのだけれど、噂だけは入ってきた。わけのわからない仕事をやる会社を作ったとか、芸能人を何人かデビューさせたとか、自分から進んで瘋癲病院に入ったとか……。

里崎を去っても噂が届くぐらいだ、彼がなにがしかの人物であることはぼくも認める。独特の詩的言語を用いるところ、圧倒的な行動力があるところはシャイ谷と似ていた。でも、天性のペテン師で、根性なしだ。

ぼくがなにより嫌いなのは、天狗のようにでかい鼻をしているビジュアルもさりながら、不真面目なところだ。里崎孤児院出身者が全員して○者になるわけじゃないけれど、「三十六式」の適性検査(ウドンコネーロ・テスト)で好成績をたたき出しておきながら、トンズラをするなんて! しかも、血を吐く思いで探索者になったぼくに向かって「苦労するのは才能の欠如だぜ」と言い切るなんて! アロロロ!

とこう、自分の脳を「舌読み」して引き出した回想でムカムカしているうちに、ぼくの目の前にはM沢病院へと続く登山道がある。由緒正しく名高い瘋癲病院で、いろいろな文献に名前が出てくる。患者はすぐに薬漬けにされてホニャララになるんだけれど、噂によれば鼻頭はずっと入院を切望していたらしい。

M沢病院は数年前に移転し、今ではかなり急峻な山の上にある。標高自体は大したことがないんだけれど、脱走防止のために未舗装の砂道にしてある。車ではとても登れない。逃げるなら徒歩以外の方法はないんだけど、砂の坂だから速くは走れない。職員たちはサーフボードみたいなので砂の坂道をシャーっと滑り、脱走者を捕まえるそうだ。

官給セグウェイは予想通り、坂のふもとでタイヤを取られ、止まってしまう。とにかく鼻頭に会わねばシャイ谷の行方もわからないので、ひいひい喘ぎながら坂を登る。結局、標高二百メートルの山を登るだけで二時間以上が経過し、病院の受付に着いたのは面会時間の終了ギリギリだ。受付カウンターにはスキンヘッドの男が座っていて、とろんとした目で自動ドアをくぐるぼくを見守っている。

「すいません、鼻頭キラさんに会いたいんれすけど」

男はとろんと焦点の合わない目でぼくを眺め、ふんと鼻息を一つ。

「そうか、『しまじろう』はもう出かけたのか」

唐突に言われ、ぼくは「は? しまじろう?」と聞き返す。聞いたことがあるような気がしたので、自分の頭を「舌読み」し、それが「進研ゼミ」のマスコットキャラだったことを思い出す。たぶん、この受付の男は狂人たちを相手にしすぎて、虚実の区別がつかなくなってしまっているんだろう。ちょうど、鼻頭と一緒にいすぎたシャイ谷がそうだったように。ぼくは話を合わせる。

「まあ、たしかに、そう言いらいのもわかりますよ。幼なじみとの恋愛、勉強とスポーツの両立、ライバルとの切磋琢磨……進研ゼミのライレクト・メールに入ってる漫画には、人生に必要なすべれが描かれていますからね」

受付の男は困ったような顔で「しまじろう……」と返す。ちょっと知的な会話をしすぎたか。

ところで、こういう公共施設は時間に厳しい。ぼくは官給時計の文字盤を見る。「タグホイヤー」だと思っていた文字は微妙に異なっていること(タグハイヤー?)、そして、短針が「4」をほんのわずかだけ過ぎていることに気付く。

「あ、一応、ぼくはセーフれすよね? 四時前に受付に来てたんらから」

と、念のために腕時計を指さしながら尋ねても、受付の男は「しまじろう……」としか言わない。ぼくは不安になる。シャイ谷失踪がどれほど深刻な事態か、そして鼻頭との面会がその解決にどれほど役に立つかを説明にかかる。が、受付の男はますます怯え、「しまじろお……」とついに叫ぶ。

「ああ、駄目じゃないですか、島次郎さん。捜しましたよ」

とつぜん現れた男が、受付の男の脇に手を入れ、抱え上げる。

「あれ、その人は患者さんれすか? 島さん?」

「そうですよ」と、新しくやってきた男が言う。「こんな頭した病院職員がいますか? これ、電流発生装置ですよ?」

そう言って男が指さす先には、受付のフリをしていた男の後頭部があり、なにやらぼこっと出っ張っている。頭皮の下に、むりやり異物を移植した痕だ。

「電流発生装置? なんのためら?」

「脱走なんかを抑えるためですよ。これをピピッと押して、神経をオーバーフローさせるんです。まあ、しばらく脳が動かないから、ボーッとすることになりますがね。よだれなんかも垂らしますよ」

瘋癲ふうてん病院もずいぶん即物的になったんれすね。原点回帰れすか」

「なに言ってるんですか。神経はそもそも物ですよ。電気ケーブルが繋がっているネットワークを単に精神と呼んでいるだけです」

男はそう言いながら、患者の後頭部の出っ張りを押す。患者は「あ」とステキな小説の書き出しみたいな言葉を発し、そのままぽかんとした顔になる。神経系を物と呼んだ男の服は、ずいぶんとどぎついターコイズブルーだ。青は唯物論者によく似合う。

二人が去ってから、ぼくはずいぶん待たされる。いったい、誰が職員で誰が患者なのか、ぼくにはほとんど区別がつかない。このままでは、誰が訪問客なのかもわからなくなりそうだ。

空恐ろしさに駆られたぼくは、誰もいない受付から思わず目を逸らす。逸らした先、右側の通路の奥には白い格子があり、その向こう側に五十ぐらいの痩せぎす女が一人しがみついている。ドぎついピンクのワンピースに白髪が映える。

「こっち側に来なさいよ」

アロロロ! ぼくはその言葉に超越的な意味を見出し、救済を求める隠れキリシタンのようにふらふらと歩み寄る。女は色情狂的な笑みを浮かべ、ワンピースの裾を捲り上げる。ぼくはそこに、むしろ見慣れたウインナー状の肉塊を発見する!

「男らったのか!」

女はひどくけたたましい声で笑う。南国の鳥のような声。いや、もしかしたら……ぼくはいま南国に来ているのか

そういえば、ぼくはまだハワイに行ったことがない。ハワイには四つの島があり、それは泣き腫らした子供の目だ。それを集めればなにかが叶うなんてロマンティシズムはもう卒業さ。あと三年したら、一冊も本を置かない古本屋を開業しよう。客が来たら、苦労話の一つや二つ、こしらえてみせる。そいつはきっと、ひどく純粋な涙を零すだろう。いや、悪を積み重ねても戻らない純情があり、「スターリン」の響きが靴音に混じる。ブーツを踏み鳴らせ、いずれ軍団はやってくるのだから、アロロロロロロ……。

「大丈夫ですか?」

ぼくはその言葉でなんとか狂気から現実へと引き戻され、白い格子の向こう側にいた女が職員になだめられているのを認める。女(に見える人)はとっくにスカートを下ろしていて、ぼくの傍には別の職員がついている。幻だったのか?

「なんとか大丈夫れす」

「なんとか? しかも『れす』ってなに?」と、その女の職員はぼくに訝しげな視線を送る。「もしかして、患者さんですか?」

「違いますよ! 幻視者れす!」

「え? 幻視者? 幻覚を見ちゃう人?」

「アロロロ! じゃなくて探索者れす」

そうやって言い直したものの、どうやら疑いは解けていない。ぼくのようにすぐ狂気に引き込まれてしまう人間が非患者のはずがない、と踏んでいるらしい。嘘をついて抜け出そうとする患者は引きも切らないだろうから、しょうがないといえばしょうがないんだけれど。

「その眼鏡、可愛いれすね」

と、ぼくは窮地を脱するため、彼女の赤フチ眼鏡を誉めてみる。

「はあ、どうも。でも、これはフェイク・アイなんですよ」

そういって彼女は立体映像でステキな目を映し出す高機能眼鏡を外す。彼女の実際の目が露わになる。細く、小さい。ぼくは口元に手を当てて嘘をつく。

「本物もステキな目じゃないれすか。アーモンロみたいら」

「あなたに言われてもね。私が可愛いと思わなきゃ意味ないわ」

溜息をつきながら眼鏡の女は受付の席に向かう。ぼくはこの女のうしろについて、鼻頭と面会をしたいと独り言みたいに繰り返す。

「えーと、鼻頭さん、鼻頭さん……その方はもういないわ。退院したみたい」

女は名簿らしい表を映し出したディスプレイに視線を落としたまま言う。

「え? れも彼はここに長期入院しているはずれすが……」

「法律が代わって、長期入院患者にはロボトミー手術を施してから社会へ放り出すことになりました」

「そんな! 脳みそを無理やり切っちゃうなんて、人権侵害も甚らしいじゃないか! いつからそんな悪法がまかり通ってるんれすか!」

「二〇二五年からですよ。一度、貴族院で突き返されましたけどね」

「ファンタジーら!」

と、ぼくは叫ぶ。女はそれのなにがいけないの、とでもいうようにぼくに視線を返す。疑って吟味したとたん、ぼくは女のうなじに電流発生装置を移植した痕がポコンと出ているのを発見する。アロロロ! この女は患者だ!

「この女は患者ら!」

と、ぼくは思ったことをそのまま口に出し、女の後頭部のボタンを連打する。女は口からよだれを垂らし、その場にへたり込む。しかし、正常な職員が受け付けに現れる気配はない。

6女の患者の後頭部のボタンを連打する

どうして、誰もぼくを鼻頭に取り次いでくれないのだろう。ここの病院には一人もまともな人間がいないんだろうか。いや……もしかしたら、ぼくはもうここから出られないのか? 患者扱い? なにかの罠? 悪の組織の陰謀?

ぼくはまた不安になり、受付の椅子に座る。黒い革張りのソファはところどころ破れ、オレンジ色のスポンジが覗いている。まあ、いい。どうせ、増インシュリン剤はたっぷりある。死ぬようなことはないだろう。ぼくはそのソファに横になる。そして、コトリと眠り込む。

どれぐらい眠ったろうか、ばたばたという足音を聞いて目覚める。振り向くと、異常な俊足で駆け抜けていくスリッパ履きの男がある。むははははは、という笑い声。黄金バット? いや違う、鼻頭だ!

「鼻頭ら!」

と、ぼくは思ったことをそのまま口に出し、鼻頭を追いかける。やっと会えた! 助かったような気分になって、すがりつく。しかし、鼻頭はタックルを食らっても、リノリュームの床をツルツルーッと滑りながら、走るのをやめようとしない。

「おい、鼻頭! ぼくらよ! 探索者らよ!」

鼻頭は答えず、「むははははははは!」と笑いつづけている。その声は超一流のガイキチにふさわしい音量で院内に響く。わらわらと職員が集まってくる。

「おい、鼻頭、ずっと待ってらよ! シャイ谷のことを知らないか?」

鼻頭は応えず、動きつづけている。拘束衣を着ているくせに、凄まじい力だ!

「拘束衣を着ているくせに、凄まじい力ら!」

と、ぼくは思ったことをそのまま口に出し、鼻頭の腰にしがみつきつづけるが、鼻頭はそのまま立ち上がり、少しずつ走り始める。いったん走り始めたら、もう捕まえられないだろう!

「いったん走り始めたら、もう捕まえられないらろう!」

ぼくは完全にパニくる! 思ったことをそのまま口に出しつづけている!

「思ったことをそのまま口に出しつづけている!」

思ったことをそのまま口に出しつづけている!

「思ったことをそのまま口に出しつづけている!」

思ったことをそのまま口に出しつづけている! 自己言及の無限ループに入った! ぼくもガイキチの仲間入りだ!

「思ったことをそのまま口に出しつづけている! 自己言及の無限ループに入った! ぼくもガイキチの仲間入りら!」

語尾のかすかな違いによって、ぼくは自己言及の無限ループから逃げ出すことができる。舌が長いと、こんなことでも役に立つ。

ところで、ずっとしがみついているうちに、鼻頭の力が弱まってくる。見上げると、鼻頭の首筋にぶっとい注射器がぶち込まれ、薄オレンジ色の液体がみるみる注入されていく。いつの間にか、ぼく以外に六人の職員が鼻頭にしがみついている。しかも全員が同じ顔で、六つ子じゃないだろうか?

「アロロロ……それはいくらなんれも、投与しすぎじゃないれすか?」

「大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫大丈夫」

六つ子は声を揃える。6チャンネル・サラウンドシステムで、鼻頭の薬物耐性がいかにすごいかを説明してくれる。そして、みんな揃って弁明臭い笑いを浮かべ、六つ子職員たちは去っていく。あるいは、あれも患者だろうか? まあいい。ぼくはそっと手を放す。鼻頭は金縛りにあったように大人しく、走り出す気配はない。

「鼻頭?」

何度か呼びかけると、鼻頭ははっと気付き、「倒錯者?」と言う。

「違うよ。ぼくったらぼく、探索者らよ。ひさしぶりらね。今、シャイ谷の行方を捜してるんら」

「シャイ谷の行方?」

「うん。語り部の仕事もほっぽらかしれ、ろっか行っちゃったんら。君、行方知らない? 一緒にいたろ?」

鼻頭はその恐ろしく長い鼻に手を当てて、考え込む。

「知っている」

「じゃあ、教えれよ」

「駄目なんだ、それが」と、鼻頭はいかにも残念そうに長い鼻を振る。「もうすぐ薬が切れる。そうしたら俺はまた走らなくちゃならない。説明する時間がないんだ」

「アロロロ……」

「そんなわけで、手短に言うぞ。里崎桃母もももだ」

「ああ、あのオタク女。戦慄のコスプレイヤーね」

「そう。シャイ谷はついこないだまで、桃母と一緒に住んでたからな。檻の中で。俺は会いに行ったよ。詳しい事情はそっちに聞いてくれ」

「桃母とあのシャイ谷が? 檻の中れ?」

そんなことあるだろうか? どんなプレイだ? ぼくを騙そうとしているのか? 少し考え込み、パチもんの官給腕時計タグハイヤーを見る。

「もうすぐっれ、ろんぐらい?」

「あと二分ぐらいだな」

「じゃあ、ここれ話してよ。ぼく、あの女は苦手なんらよ。恐いし、ウザいし。第一、里崎グループの令嬢らからって、えばりすぎらよ」

「たしかにウザいが、俺から聞くよりはたぶん詳しいぜ。フリーヶ丘なら、宿舎もあるし、こっからも近いじゃないか。車で二十分ぐらいだろ」

「えー、また戻るの! ○者が車を運転しちゃいけないの、知ってるらろ。セグウェイれ来たんら」

「あ、そうなんだ。俺、○者じゃないから知らねえよ。でも、セグウェイなら、一方通行を通れるから、近道がある」

「そりゃいいや、教えてよ」

「えっとねー」と、鼻頭は急に幼い口調になる。「うんとねー、坂降りてねー、右に曲がってねー、コンビニの脇の一通を逆走してねー、それからねー」

ヤバい、薬が切れ始めたようだ!

「ヤバい、薬が切れ始めたようら!」と、ぼくは思ったことをそのまま口に出す。「早く、早く、時間がなくなっちゃうよ!」

「交差点に出たらねー、斜め向かいにある駐車場を横切ってねー、それからねー、あ……」

「ろうしたんら?」

「もう二分たちましたー。しゅうりょーお」

ぼくはパチもんの腕時計タグハイヤーを眺める。まだ二分たっていないけれど、ガイキチの主張する時間などあてにはならない。

「おい、鼻頭、シャイ谷の家れなにしてたんらよ? お菓子買い込んら理由は? それらけれも教えてくれ!」

しかし、鼻頭は答えない。絶食した天狗みたいなルックスからは想像のできない力で拘束衣の袖を引きちぎり、クレヨンで猛然と壁に絵を描きはじめる。

それはぼくとシャイ谷と鼻頭の顔だ。舌が長く、口がでかく、鼻がでかい……。昔の彼は、ただひたすら人の顔を描いた。けっこう上手かったのに、今じゃ見るかげもない。

「鼻頭、ぼくの舌はもっと長いよ。それに、目がロンパッてないと、○者っぽく見えないんら」

鼻頭はひどく子供っぽい表情ではにかむと、ふたたび勢いを取り戻して描き直す。でも、それもまた稚拙な絵だ。

7赤いクレヨンで落書きされた探索者の顔

 

ぼくは悲しくなる。いったい、この男のなにがシャイ谷をひきつけるんだろう。ぼくの頭にシャイ谷と鼻頭にまつわる男色の噂が思い浮かぶ。ぼくはそれを嫉妬まじりに打ち消す。もしもシャイ谷が男を抱くとしたら、あるいは男に抱かれるとしたら……。

ぼくは答えを出さないまま、フリーヶ丘にある里崎の家へと急ぐ。

2015年10月7日公開

作品集『ちっさめろん』第3話 (全12話)

ちっさめろん

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