ダッジバンが近寄って来て窓を開けるから、こちらも開けると、ラジオで在宅葬のための通信説法が流れているからと言われてチャンネルを合わせた。
――平時における反権力は有事の笛でたちまち権力の犬に戻る! そしてごく一握り抗い続ける生粋の狼を犬どもは圧倒的多数を以て噛み殺す! 理性という気取った感情はいつでも礼服を脱ぎ捨てる用意があり、中身は卑劣で臆病だ! これからもそうであるとは言わぬ、これまでがことごとくそうであったというだけだ‼…………
「おおい、それは違う番組だよ」と教えられてチャンネルをもう一度合わせた。
――我々は前の世から今の世へと渡って来た旅人であります。今の世で没したら、次の世へと渡ります。今の世における流転輪廻は迷妄の内部で空転するばかりです。世界は前にもあとにも延々とありますが、今の世にはくり返しませぬ。最初と最後が、または途中のどこかがつながっているという概念がありますけれども、真実は位置天文学で片づきます。すなわち前の世であった世界は、どこかの星に見つかるし、次の世も同様です。
我々は、次の世に渡った人々、すなわち今の世で亡くなった故人たちをなるたけ供養するのが好ましい。それはどうしてか。前の世における故人である我々は、前の世から供養を受けている人もいれば、受けていない人もあります。健康状態や社会的地位や人間関係の如何によって、それは知ることができます。先天的能力や主観的幸福感の差異によって知ることができます。
私たちが故人の供養をすることは、次の世における幸運や生命力を高めることとなるのです。違う信仰を抱きながらでもかまいませぬ。供養しさえすればいいのです。次の世に渡った故人にとってはなにが善で、なにがラクで、なにがありがたく、なにが迷惑にあたるか等々、わからぬままでいいのです。成仏だとか天国極楽のイメージを念ずる気持ちだけで足りるのです。
斯様の真理はいくらでも論破できますが、それは愚かな揚げ足取りです。揚げ足を取る者はじわじわと自分の自由をもせばめて行くのです。回り回って自分の足を払う揚げ足取りは、最終的にただころんで頭を打つのです。そもそもが言語的理解という狭い低劣な範疇に抑えつけたもどかしき方便を語っているのに、その内部で暴れてみてもどうにもなりませぬ。せっかく買ったジュースなのに蓋を開けるや盛大に噴きこぼれて仕舞いです。これが揚げ足取りの為し得る成果です。
我々は旅人です。この世はたった一度だけ通る通過点に過ぎぬ。旅路の途中の並木道の、一本の木の、ひとひらの落葉がこの世です。どこかの木陰では、その果てしなき歩みは、今の我々における睡眠や、永眠よりも安らかであり、またどこかの木陰では、永遠の歩みが否定され、旅路が遂に完結することさえありましょう。たとえば、今のこの世のように。しかしその木陰を、やっぱり我々は通り過ぎてゆくのです。
私はこの真実を永遠に教えて行くでしょう――何度もこの世に生まれ変わって!
あなたがたはどこまでも自由であるために、大いにわきまえていなければなりませぬ。傲慢ではなりませぬ。私なぞはこの通り、隅々まで傲慢なところはない。それだけははっきりしている。たとい諸天の神々が私を傲慢だと言おうとも、私は断じて傲慢ではない!
笑うなら笑うがよろしい。遠からず命の危機に直面し、その時になって初めて震えながら逃げ回る豚どもは私を笑うがいい!
嘘つきだとぬかすか。なにが本当かも知らないで嘘と言うか……悪党め! 誰もなにも言っていないとぬかすか。それは卑怯者しかいないからだ!
……なんだ貴様らは? 触るな! 私の番組だぞ! 私は正常だ! イカレているのは貴様らではないか! こんな地獄のような世界で平然としているのは貴様らが重病人だからだ! 私の悪面は私に非のある悪面ではない、私を利用する悪党どもが悪いのだ!
私を武器に使ったのだ! 私を盾に使ったのだ! 悪党どもは私を無視するか利用するかしかしなかった! ――手を放せ! 貴様らがしていることは阻止ではない! 予防でもない! 秩序の保存では絶対にない! ただのお門違いだ! 永遠に貴様らが貴様らを脱出できない原因だ!
貴様らは本当はそれを望んでいるんだ! ことごとくうまく行っているじゃないか! 私がこのようにいびつに成り果てたのも貴様らの作った世界が順調である証明だ! さらに劣る豚どもを褒めたたえては自分たちを慰めくさり、他者が滅ぶのを舌なめずりして待ちながら! 豚になり得ないものは片っぱしから滅ぼして! 素晴らしい成功を収めているぞ! ことごとくうまく行っているぞ! せいぜい喜ぶことだ! 豚どもめ! 豚どもめ! 豚どもめ!…………
「おおい、その番組も違うぞォ――」
見渡す限り似通った建物ばかりが続いていた。バスとダッジバンは広大な建物の群生の中に分け入り、大通り的なものを探してしばらくさまよった。しかしどこも同じような風景で、警察署も役所も見当たらず、時々同じようなスーパーやドラッグストアがあるばかりだった。
後ろから意味ありげなクラクションを鳴らされて道路の端に停めると、銀色のセダンからにこにこした赤ら顔の紳士が降りて来て、一介の民間人ですがと断りを入れ、御迷いになられている御様子だったのでと前置きした。
こちらもみんなぞろぞろ降りると、紳士はようこそと言ってお辞儀した。
「僭越ながらご説明申し上げさせていただきます。ここは言うなれば完全に平均化せられた町なので御座います。『我々は大きな問題について考えたくない。おのがささやかな生涯の内部のみに終始していたい』という最終的な結論を、考えに考え抜いて出した人々の子孫が住んでいる町なのです。本当はそういう町を造ろうと誰か少数のエリートがやり始めて、中途で投げ出したのですが、一度転がされた車輪は創始者の知らない所で転がり続けていたわけです。
それは堕落の下り坂だから転がったのではなく、かき集められて放置された指導者なき群衆が、いや群衆にあらざる人間の集合が、結果としては我知らず押し続けたのです。この集合体は、いわゆる群衆ではありません。群衆とは、諸個性を喪失し、奥部のぼやけた人格、言うなれば群れ全体で一人の朦朧たる受動的意識となり――すぐに物事を混雑させ、すぐに単純化し――拮抗を破壊し、際限なく増やしては無考えに抹消し――自己正当化し、自己を終生持たず――責任を免除され、果てしなく要求し――なににでも変わり、なににもなり得ず――いつでも支配側に回ろうと企み、自分ではなにひとつ企むことはできず――永遠に消耗し、やるせなく循環し――愛すべき庶民ではなくなり、どれだけ抵抗しようが条件がそろえばかならずそれを呈してしまうもの――云々として、その起源から今に至るまで、この先もずっとその洒落は人類にかかっております。
しかしここでは違います。あるいはもはや我々、人間ではなくなりつつあるのかもしれません。ここに至るまでの進歩の道は、さかのぼれば一本だったわけですけれど、もう一度たどり直してぴったりたどり着くのはもはや二度と無理でしょう。
ところで最初に車輪を転がした創始者は、どこかでまったく別の理想郷を遂に造ったということですが、その町の場所は今ではどうしても突き止められないそうです。ここだと言われる所が複数あり、どれでもないというのが近年の一致だそうです。消滅したのだとも言うし、巧妙に隠れているのだとも言うし、月に住んでいるのだとも言うのです。
話を戻してこの町は、歴史も同族意識も慣習も持たず、それでいてそれらを確固として堅持しているように状態し続け得ている人類史上の奇跡です。賠償宇宙人(別号贖罪未来人乃至堕先祖)もイミニアンも混じり合い、解釈も自覚もなく、いや不完全にあり過ぎ、それだからこそ完全になく、人間生命のただ純粋な、論理を越えた、不自然なほど静的で衰えない土地が完成しているのです。
ええ、創始者はもしかしたら物凄くいい手順で実験を成功したのかもしれません。じつは結果を確かめに戻って来ていて、どこかにその末裔は暮らしているのかもしれません。
癒国後、たかだか百年も経たずに陥ったあの民族発狂を治療するホスピタルです。大気圏を羽ばたき出て燃えながら墜落した金属の翼を休ませる鳥籠です。魚へ戻ろうとする金属の足を引き留める足湯です。
私が話しているということは町が話しているのです。円滑な集合体にはリーダーがいらないということも……我々の凡庸な頭脳では説明できないが、つまり大多数の劣等性と少数の優等性が拮抗するということ、拮抗というか調和ですか、それがつまりは我々が体現する解釈不能なる真理なのです。恐らくまだ途上ではありますが、それだからこそ完成しているのでしょう。
ええ、町全体で一つの巨大なキノコなのです。どうしてうまく行っているのか、うまく行っているのでわかりません。いつか遂に破滅し、衰退した時わかるでしょう。どうすればこの奇跡の空間の終焉を回避できるのか、いつまでも終焉しないので今のところはとんとわからないのです。
ただ、これを実現し続けるには集合体の規模に制約があることだけがわかっています。だからもうここには新しい町民が増えることは許されません。少なくてもいけませんからしばしば補充が起こる時もありますが、今はその時ではありません。
なにもかもがうまく行っています。睡眠中に脳が自我を整頓するように、時々我々は自分たちでも信じられないくらい明晰にやってのけます。なにをやってのけたのかは、それが失敗しなかったために、誰にもわかりません。
人類全体がここに達するには、至大の労力を費やして、何度も眠っては起きをくり返し、まだまだ競争したり、更新したり、反復したりして、何度も何度も小さな滅びを呈さねばならぬでしょう。いいえ、人類という規模では、ここへは永遠に到達できないでしょう。
"猿の天麩羅 9"へのコメント 0件