繁華街の居酒屋で磐井とぐずぐず飲んで別れて帰りの道々、守田がいくらか年上の連中に取り囲まれているのと出くわした。やりとりを聞くに、バイクがうるさいの、つらが気に食わんの、いい気になるなの、言っておる。守田の絶望した顔よ。事故死を厭わぬのと悪漢が怖くないのとは問題が違うらしい。こちらが手を出さなければやられぬという現代的な守田の信仰はたやすく崩れ、遂に小突き回されておった。
悪漢らは、供物になりたくともなられぬ、相撲大会の勝ち負け云々どころか十年に一度云々にすら引っかからなかった星の生まれの能無しどもであった。これが濁世末法であるか、いやしくも供物たる男への、こんなあからさまな迫害が現実に起ころうとは、目の当たりにして世も末の観を逞しゅうさせられるが、ひっきょう供物にあるまじき守田の凡骨ぶりが原因なのでもあろう。今も、平生厭うている余を見て、地獄で仏を見たような安堵の泣き顔、こんな情けない供物もかつていなかったであろう。
斯様な凡骨には供物の栄誉も大吉凶に還りて仕舞いか。こいつが優勝したのは最も強かった児童が相手の髪の毛をつかんだり拳で殴ったりの反則で負けになり、すでに取り巻きぶっておったほかの腕っぷしたちもふざけ始めて大荒れに荒れた年であった。守田はハナからケチのついた供物であった。
またこの迫害しておる連中も、天界の英雄たる我々の階級を疎ましがってはいるが、羨んではいないのである。どうあれ攻撃する権利をただ有するのである。現代だ。強者・賢者を滅ぼさんというのが人類目下の大情熱だ。世界が滅びるのも時間の問題であろう。それともまた性懲りもなく堂々巡りをするか。貝殻で海を量る科学は崇拝者の有象無象を引き連れて狂死し尽くし、ふたたび神仏を見られるほどの分別を再生するであろうか。そうなれば今大きなつらをしておる近視の輩は、みんな冥府で盲目の奴隷になれかし。冥府なんぞないのだから文句はなかろう。
仮に滅びも堂々巡りもせず、高次の人類の時代が来るのだとして、そこに現在と継続した大なる寿命のありやなしや。あるなら余は未来楽園における自我の復活、ひらに御免こうむる。
それにしても守田は宿命と折り合いが悪い。せっかく産み落とされた上、しょい込まされて、なすりつけられて、狭く暗く閉じ込められたによって、かえって駆け回られる幅を誰よりも知悉し、誰よりも光を感ぜられる身空であるというのに。
しかしけっきょくこういう生き下手が死に上手になって、快刀乱麻をぶっ断ち、花々しく供物に散って、その迫力に村民はっと息を飲み、唯物・忘恩に曇りたる精神のまなこを晴らし、彼、衰弱しゆく奉祀の発展復興に貢献して大なる中興の祖に化けるというような未来もあるやもしれぬ。
そんな中興の祖を尻目に、余は風馬牛を決め込んで、助けもせずに通り過ぎた。余と守田なんぞは今さら関わり合ってどう転ぼうが善し悪しももはやあるまい。そもそも供物同士は馴れ合わぬべきなのだ。新供物の咲枝だって、弱冠十歳にしてもう立派に精神的の自立を遂げ、零落の余にも大なる寛容の軽会釈、誰をも頼まぬ女傑の風格ぞ。
だいいち守田を余は好かん。噂では彼、犬や猫を殺したりしていたそうである。それは余も虫をいたずらに殺したことはあるが、供物になってからはよぎりもしなかった。守田なんぞはしょせん犬猫なぶり殺しの形状をした魂だから、その時々で加害にも被害にも回るのであろう。然らばこのたびの加害者どもも巻き込まれたかたちだ。
小学校の出席番号が永久欠番にならなんだ供物というのもこいつくらいか。イキハジでさえなったのに。こんなゴクツブシが供物とは、大なる恥辱とは言うべき、大なる悪徳とは言うべき。親父がこいつをお袋へ孕ますよりも前に、もう一度余計にマスをかいておればこんなゴクツブシは生まれなんだろうに。
悪漢らは、通り過ぎる余には手出しをしなかった。文句あるかの顔つきで見つめて来おったが、見つめ返し続けておっても激昂する気配はなかった。単に余が年上だからであろう。いわんや本番間近の悪臭芬々たるおぞましき馬鹿らしきサクリファイスにおいてをや。
触らぬ神に祟りなしとや。
廃校の中庭の池の鯉には一尾、たいへん大きな大正三色(錦鯉)がいた。あんまり狭そうだったので今は森の中の貯水池に移されているけれど、一時は学童たちに荒々しくも大きに愛でられていた。もとは離住の生家に飼われていたものが寄贈されたのだそうな。さらにもともとはその生家へもどこかから流れて来たのであって、真偽のほどは定かならねど、離住が生まれた頃にはもう立派な成魚であったというから百歳を超えているやもしれぬ。
磐井とともに貯水池へ見に行った。そういえば昔ここで竹筒をくわえて水に潜り、水遁の術を練習していたら結膜炎になった。だから目の充血した魚ばかり泳いでおるやもしれぬ、投網でも用いて確かめよかと話しているうち、人声に反応して浮かび上がるすがたはまごうかたなきあの大魚だ、あの色模様だ、この声を覚えておるのか可愛い奴めと思ったら、警戒してそのまま静止している、可愛げのない奴である。
あらためて見るに、やはり記憶の印象の誇張ではなかったと知れて、たいへん大きい。あるいは一メートル半くらいあろうかしら。もっとか。見つめるうちに何かひたひたと悟らしめられる心地あって、この怪物、じつはもっと大きいところまで育っていたのが、あまり年老いたために、今は年々縮みながら死を免れているのではあるまいか。
そうして縮み切ったら稚魚のような顔をして、折り返し、ふたたび飄々と成長して行くのである。片目であったと言い伝えられるのにまだ存命の当人はちゃんと両目あるのだし。別人が入れ替わっているのではという疑いは模様の一致が一蹴する。やはり折り返したのやもしれぬ。そのように伸び縮みしながら郷の盛衰を見続けて来たのやもしれぬ。
郷をひらいたあの名前も定かではない奇人物が持ち込んだ大正三色であるやもしれぬ。もしくは彼本人やもしれぬ。供物の一番槍として風狂に散って大正三色に生まれ変わり、おのが生前排泄した汚物を吸収して生長してゆくものの行く末を見続けさせられるというぬるい地獄に泳いでいるのやもしれぬ。
滝を登った鯉は龍になるとやら。すでに前世において龍であった大正三色やもしれぬ。その龍の見ている夢こそ、現世における丸太やもしれぬ。それこそが滅んだ恐竜たちのまことの化石やもしれぬ。
捕まえたろか、と磐井の戯れ言。いつかはじっさいにそんなことをする村民も出るであろう。そう遠くないことであろう。または御神体にでもなるであろうか。そうなれば過去をすべて貫いて、久遠の昔からの応身の一となるわけだからして、今から拝んでおかねばなるまい、南無大正三色大権現。
我が郷の遂に滅んだあとも国破れて山河ありを決め込んで、あるいは泳いでいる大正三色であった。
確かに浮かび上がっては来たが、この寂として動かぬすがた、ひょっとしてもはや死んでいるのかもしれなかったが、いかにも生死を超越した大正三色であった。
磐井は軽トラックに乗ってどこぞの誰ぞへ何ぞの配達、美土里は銭湯の準備、余は独り酒瓶を隣に座らせて川に釣り糸を垂れていた。
よく外来種が捨てられて生態系を狂わすとか何とか聞くけれど、日本にずっといた小魚なんぞが食われ、追いやられ、のさばられ、混じって区別もつかなくなるかと考えれば胸も痛む。
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