I
私は手にしていたスマートフォンのカメラを起動する。
腕をまっすぐ前に伸ばし、小さなディスプレイをかざす。
シャッターボタンを押す。
液晶パネルに景色が固定される。
それは肉眼で見ている景色とは少しだけ違うように感じる。視点が腕の分だけ違うのもひとつの原因だけど、たぶんそれだけじゃない。実際に感じている空間のスケールが違い、網膜に映り込む色彩とも違う。だけど、そういう直接的なことでもない。もっと何かが決定的に違うのだ。シャッターに切り取られる一瞬は、切り取られた瞬間に紛い物になる。なってしまう。目に映る風景と、ディスプレイの画像を見比べながら、その差異に居心地の悪さを感じる。
それじゃあ、目に映る色形こそが本物なのかといえば、それも怪しい。たぶん、どちらも偽物だ。偽物と偽物が違って感じるのは考えてみれば当たり前のことでしょう。
でも、それが私にとってシャッターを押す動機なんだ。
それは高いところから低いところへと流れ低ゆく水のような振る舞いなのではないかと感じることがある。あんまりいい例えではないのはわかっている。何が高くて何が低いのか、私にも説明できない。よく、わからない。わかっていることはといえば……、
今ここの記憶を留めたいわけではない、ということ。
思い出を記録したいわけではない、ということ。
撮りたいものなんて何もない、ということ。
たまたま目の前に広がる世界の紛い物を小さな機械の中に蒐集する・・ただ、それだけのことを惰性のように繰り返す。惰性が失われるまで続く。たぶん。
そのほとんどを二度と見ることはないだろう。いつ、どこで撮ったものか、見ただけではわからないものもあるだろう。デジタルデータで常にネットワークの中にあるから、時間や場所は記録されるけど、私はそこにどんな意味を感じるもないだろう。
私のスマートフォンにはすでに膨大な景色が記録されている。これまで幾つか機械を換えている。そのたび自分自身が撮影した画像データはそっくり移し替える。新しい機械に閉じ込める。だからといってそれらを大切にしているわけではない。どうせ見返すことなんてないのだから消えても壊れてもかまわない。ならば適当に消してしまえばいい……そう思うこともなくはないけど、それはそれで何かしらの意思が必要だ。私はその意思を見つけらないし、見つかろうと見つかるまいとかまわない。積極的に探すものでもない。
私の、意志、など、どうでもいい。
腕をまっすぐ伸ばし、シャッターボタンを押す。
別の景色が画面に貼り付く。
薄っぺらい世界が、0と1で書き留められる。
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