02 父のこと
君の生まれた朝、ミサイルが発射されたんだ。
父の声は平坦で、そこにどんな感情が込められているのかわからない。
隣の国から発射されたミサイルは、この国の空のとても高いところを通り過ぎ、遠く離れた海の真ん中に落ちたんだ。その朝、テレビではそのことばかりを繰り返していたよ。
幼い私には、それが面白い話なのか、恐ろしい話なのか、悲しい話なのか、見当もつかない。ただ、ふうんと頷いて、ケーキに灯った細長い三本の蝋燭の向こうにぼんやり浮かぶ父を見ていた。その薄っぺらな笑顔を覚えている。
これがミサイルという言葉にまつわる、私の最も古い記憶だ。
ミサイル、という音の響きが気になった。
ミサイル、という音の響きが気に入った。
三歳の私は、それがなにか、とてもきれいなものを指しているような気がした。
み、さ、い、る。
みさいるって何?
父に質問したのはいつだろう。
爆弾だよ、ロケットみたいな。
ふぅん。
小さな私は爆弾やロケットについてどう認識していたのか、二十年以上も経ってしまった今ではわからないけれど、爆弾もロケットもミサイルもちゃんと区別などついていなかったに違いない。
父は私が誕生日を迎える度に、同じ台詞を繰り返す――君の生まれた朝、ミサイルが発射されたんだ。七五三でも、幼稚園の卒園や小学校に入学するときも、お祝い事がある度に呪文のように繰り返す。たぶん、私の結婚式のスピーチでも言うんだろうな、と昔から予想している。幸いなことに、あるいは残念なことに、未だ私の結婚式なるものは行われていないし、予定もない。
娘の成長を慶ぶ節目節目に、ミサイル、ミサイルと女の子にもお祝いにも不釣り合いな単語を口走るのは父親としていかがなものかと思うのだが、父には単なる思い出以上の意味は無く、続けて教訓めいた教えを諭すわけでもない。
ほんの小さな頃から聞かされていたせいで、私はミサイルなんて単語をすっかり身近に感じていた。少し大きくなって爆弾とロケットとミサイルの区別がなんとなくつくようになってからも、私はちょっとした口癖のように「ミサイル」と口にした。やっぱり、その音の響きが心地良かったのだ。「ミサイル」と、小さな声で独り呟く女の子なんてかなりどうかしている。
これは間違いなく父のせいだ。自分のつまらない戯れ言が娘の将来にどんな影響をもたらすかなんて、あの人はこれっぽっちも想像しなかっただろう。
父のことはよくわからない。
お父様はどんな人ですか、という質問には、ごく普通のサラリーマンですよと答えることにしているし、実際にその通りなのだが、正直に打ち明けるのなら、私にとって彼は些か掴み所のない人なのだ。きわめて常識的な考え方をし、いかにも父親らしい態度をとるのだけれど、それが彼の心からの発言や行動なのか、私にはよくわからない。
父と私の間には距離がある。その距離はまるで計算されているかのようで、小さな頃から大人の今に至るまで、それ以上に離れることも近づくこともなく維持されている。
母はいつも私のすぐそばにいるのに、父は必ず四、五歩離れた向こうにいる。
これが父と私の心理的な距離感だ。
これが父によって設けられているものなのか、それとも私自身が歩み寄るのを躊躇っているために生じているのか、そのあたりはたいして真面目に考えたこともないのだけれど、たぶんそれは両方で、双方の抱える小さな要因が相乗的に働いているのだろう。何しろ、私は彼にとって初めての子供である上に異性なのだ。しかも母のように自分のお腹を痛めて産んだわけではない。
父がどれくらい子供を欲していたのかは知らない。母に妊娠を告げられて、彼が喜んでみせたことは容易に想像できるが、それは心からの喜びだったのだろうか。母は私のように捻くれていないから、きっと父の喜びを素直に受け取ったと思うけれど、私は正直疑問だ。父は、彼は、喜ぶべき時には喜ばなければいけない、と、感情すら常識に従わせようとする、そんな人なのだ。私はまだ妊娠も出産も経験していないから、母が受胎し出産するまでの間、お腹の中で私が成長してゆくのを感じながら、母親としての意識がどのように育まれていったのかなんて想像するしかないのだけれど、同性としてなんとなくわからないでもない。だが、異性である父親の意識は想像すらできない。母の妊娠がわかってから私が生まれるまで、たぶん七、八ヶ月あったんじゃないかと思うけれど、女のように体に変化があるわけではない。ただ、逆算すると何月何日頃の性行為で受精したのかなと、母を抱いた記憶くらいしか実感として持てないんじゃないのかな。妊娠六ヶ月、七ヶ月と膨らんでゆく母のお腹を目の当たりにして、父が何を考えていたのか、本当のところはわからない。
もしも私が男の子だったら、父の子供に対する距離も多少違っていたのかも知れない。子供の成長を自分の人生と重ね合わせて、多少の感情移入もしやすいだろう。父親としてもっと与えるものがあると考えたに違いない。だが、残念なことに私は女だった。私が生まれた三年後、弟が生まれるのだけど、家族の中での父親の役割は三年間に形作られてしまったみたいだ。弟自身は何も感じていないみたいだけれど、私の目には、同性である彼らの間にさえ、私と同じような距離を認めてしまうのだ。
父親との距離、なんて表現をすると、私が嫌っているように思われてしまうかも知れないが、そうではない。嫌っても、恐れてもいない。ごく普通の家族のように肉親としての親しみを抱いているし、大切に思っている。私は普通の父親の普通の娘だ。
ただ、母から聞いたところによれば、赤ん坊の私は父にあまり懐かなかったのだそうだ。ものごころつく以前から既に心理的な距離を感じていたのかもしれない。
だから、なのか……私には幼児期、父と一緒に遊んだ記憶がない。
父は仕事で一日の大半を留守にしていたのだから当然なのかもしれないけれど、それだけが理由だろうか。私の傍にはいつも母がいる。いつの頃からか弟がいて、近くに住んでいた父方の祖父母がいる。北国の母の実家に遊びに行って母方の祖父母や伯父さん伯母さんたちがいる。いとこたちがいて、イヌがいて、ネコがいて。だけど父の姿がない。いなかったわけではない。田舎の家を訪ねるときは必ず父も一緒だったはずなのに、私の記憶の中で父の姿はどこかに紛れてしまう。家にいるときだって一緒に遊んでくれたこともあるはずだ。だが、きれいさっぱり覚えていない。
父は真面目なサラリーマンだったけれど、けっして仕事人間ではなかった。残業は極力しないようにしていたようだし、有給休暇はしっかり取っていた。私や弟の運動会や授業参観にも都合をつけて参加してたし、母が具合を悪くすれば会社を休んでいた。休日には家族で出かけたし、夏休みや冬休みにはよく旅行をした。家族と過ごす時間をとても大事にしていた。つまりは、家族思いの優しい父親だ。
確かに、そうなのだけれど。
にも関わらず、なのだ。
本当に家族思いだったのかな?
よくよく考えてみると、遊んだ思い出がないばかりではない。
父に叱られたことはあっただろうか?
父に褒められたことはあっただろうか?
たぶん、あったはずだけれど、私の記憶からはすっかり抜け落ちている。
何か厭な思い出でもあるんじゃないのかな、お父さんの――ケイがまるでカウンセラーのように私の心を探ろうとする――だから君は記憶から父親を消しちゃうんだ。
そうなのかな……。
思春期の父親離れみたいなものは他の女の子と同じようにあったけれど、それは自然な現象だ。自分の女性が際立って、父親という属性よりも男性というジェンダーが過剰に意識された結果なのだろう。何しろ最も身近な大人の異性は父なのだ。性的な漠然とした嫌悪感や警戒感であって父親に対しての感情ではない。
たぶん、決定的な出来事があったわけではないと思う。
きっと些細なことがいくつもいくつも積み重なっているのだ。
そういえば――記憶を探るうちじわりと蘇る。
小さい時ね……たぶん小学校に入る前。家族で出かけて、電車に乗ったり遊園地に行ったりするでしょう。すると、お父さんに抱っこされている同じくらいの女の子を見かけるの。それがなんだかとても羨ましかった。私の父が抱っこしてくれなかったわけじゃないはずなの。だけど、向こうのお父さんの抱っこの方がなんだかいいなって……隣の芝生、みたいなものかな。物足りなさを感じてたんだよね。
叱られたときも、褒められたときもきっと同じように感じていたんだ。物足りない。物足りない。物足りなさばかりが募る。叱られた気がしない。褒められた気がしない。
例えばね、お誕生日やクリスマスにプレゼントをくれるでしょ。なぜだかいつも一番欲しいものではなくて、三番目とか四番目とかの微妙な感じのものばかりなの。確かにね、私がテレビのコマーシャルや雑誌の広告を眺めて、これ欲しいな、とか、あれいいなって言っていた玩具や雑貨だったりするの。父はそれをなんとなく聞いていたのね。そういう努力はするのよ。「プレゼント、何がいい?」なんて聞くのは野暮で格好悪いなんて思っていたかもしれない。娘の欲しがっているものをサプライズよろしくすっとさし出すのが格好良いと思っていたのかもしれない。でもね、必ずちょっとだけ外す。確かに欲しいと思っていたには違いないのだけど、その時一番欲しいものではないの。もちろん私は喜んでみせるわよ。嬉しくなかったわけじゃないから。でもね、三番目とか四番目とかのフラストレーションがほんの少しだけ心に溜まる。せっかく用意してくれたんだから、わがまま言っちゃいけないんだけれど、「お父さん、ちょっと残念……」と心の中で思ってしまう。むしろね、私が何を欲しいと思っているかなんてまるで知らないお祖父ちゃんやお祖母ちゃんのプレゼントの方が何倍も嬉しかった。何を貰えるのか想像もできなかったから、楽しみだった。貰って困っちゃうようなものでもお祖父ちゃんやお祖母ちゃんが考えて選んでくれたと思うと、どんなにつまらないものでも宝物になった。
私は父の顔を思い浮かべる。
家族旅行で笑っている顔、父の日のプレゼントに喜んでいる顔、私の入学や卒業に満足そうに微笑む顔。私の脳裏に浮かんでは消える父の顔は、写真のように動きがなくて、ペラペラのプリントみたいな表情だ。優しく振る舞うけれど心がこもっていない。家族思いのよい父親っていうのはこういうものだって、どこかにお手本みたいなものがあって、それを丁寧になぞっているような感じ、なのかな。
こうした物足りなさが集まって、固まって、消しゴムになって、私の記憶から父を少しずつ消してゆく。
君のお父さんが、なんだか気の毒になってきた。
ケイが溜息をつく。
見方を変えれば、結構な努力家じゃないの?
そうなのかな……そうなのかもしれないけれど……。
僕はまだ父親になったことはないし、もしも子供ができたら自分がどんな父親になるのかなんて想像もできないけれど、君のお父さんのような努力は絶対無理だ。
努力をしなけりゃ父親にはなれないものなの?
わからない。経験がないから判断のしようがない。
もしかすると、そんな風に努力している姿が気に入らなかったのかな。それが、あの人を薄っぺらにみせたのかな。
君はいつも容赦ない。
私の記憶の中から、父親らしく振る舞おうとする父の姿が消えてゆく。
父親らしくしようとしている父の態度と、それに物足りなく感じる私の間に溝がある。それが私たちの距離なのかも知れない。
でもね、だからといって父に存在感がなかった訳じゃないの。むしろあの人はとても強い存在感で私たち家族の中心にいた。それを実感するのは、父が父親らしくない時だ。お手本からはみ出たとき、かな。
あの人は、ごくたまにだけどとても不機嫌になった。
その肩から背中から、不機嫌オーラがメラメラと噴き出しているのが目に見えるようだった。不機嫌を全身に纏って帰宅することもあれば、風呂上がり急に気分を損ねていることもあった。だが、たいていの場合、私たち家族にはその理由がよくわからない。仕事場で不愉快なことがあったのか、それとも、母や私や弟が何か機嫌を損ねるようなことをつい口走ったのか。
お父さん、どうかした?
誰かが恐る恐る聞いても、ぶすりとした顔で、なんでもないよ、と、理由を言わない。だが、誰とも目を合わせないし笑わない。その棘のある口調から、ぴりぴりしているのがわかる。家族に不機嫌を悟られて余計に機嫌を悪くする。
あなたも、もうなんとなくわかってるでしょ。お父さんって案外子供っぽいのよ――母の口から聞いたのは、たぶん中学生の頃だ。
私は母のその言葉になんだか全てを納得したように感じた。
母はいつも控えめで、父に対して絶対にノーと言わないいかにも従順な妻だった。夫婦喧嘩など一度も見たことがない。お父さんの言うとおりにね、お父さんが決めたことだから――家族で外食するときも、旅行の行く先を決めるときも、私や弟が少し不満を漏らすと必ず口癖のように言い、自分の意見は全く言わない。子供の頃の私は母が気弱で大人しい性格なんだと思っていた。十歳を過ぎた頃から母の家事を手伝うようになり、また、初潮を迎えてからは特に母と話をする機会が増えた。すると、私は母を誤解していたことを知る。母もちゃんと意見を持った、むしろしっかりした女性であることをあらためて理解したのだ。
昔から――あなたたちが生まれるずっと前、結婚する前からときどきこうなるのよね、と、母はうんざりした調子で愚痴っていた。放っておくのが一番なのよ。
不機嫌オーラは出さないまでも、父がときどき感情的になっていることは子供である私や弟も気がついてはいた。怒ったり、怒鳴ったりすることはなかったけれど、何か気に入らないことがあると、ほんの少しの間だけ能面のように無表情になる。家族の前で感情的になるのはいけないことだなんて思ってたんじゃないかな。たぶん理性で抑えていたんだろう。だから、すぐに気持ちを切り替えて普段通りに戻ったけれど、そんな小さな欲求不満をこつこつ溜め込んでいたせいなのかもしれない、何かの拍子に不機嫌が束になって噴出していたのだ。
あれは風邪みたいなものだから、一晩眠ればたいてい収まるのよ。あなたも気がついていたんじゃない。そうね。赤ちゃんが拗ねてるのとたいして変わりないわね。
そんな愚痴をこぼす母の顔には愛情が溢れていた。
母は父のそんな幼児性に気遣っていたのだ。
母は父より、一枚も二枚も上手だ。
私は母を正しく理解した。
そのとき、私は母から女性として認められたような気がした。そして、同時に――他人の目には優しくしっかりして見える――父親の卑屈さやひ弱さを知った。あの人は父親らしく振る舞っているときほど自分自身を虚飾していた。家族の中心であることを自負していたようだけれど、その実書き割りのように脆弱な父親擬きだったのだ。拗ねて、不機嫌になっているときの方が彼の存在感が増す。そして、そんなときにこそ私たちは彼が家族の中心であることを思い知るの。世間一般の理想的な父親像には足下に及ばないほど情けないけど、ああ、これが私のお父さんなんだねって実感できたの。
やっぱり君のお父さんが気の毒だ。
そう、かもね。弟が父をどう見ていたのか、ちゃんと聞いたことはないけど、少なくとも女ふたりには、本当の姿がバレてたのよね。でも、父ってそれにまるで気がついてない。
なんだか君のことがちょっと怖くなったよ。
ケイが肩をすくめる。
君もぼんやりした瞳の奥に、一点貫きそうな鋭い眼光を放つときがある。
そう?
うん、親しくなってだんだんわかったことだけど、君は見た目ほど可愛くないよ。
なによ、それ。
私は彼の頬を抓った。
可愛くないっていうのは聞き捨てならないけど、そうね……私はあなたをいつも見極めようとしているんだよ、きっと。
(続)
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