「言葉」といふものは生き物だとよく云ふけれど、それなら言へなかつた言葉や傳へられなかつた言葉は、葬り去られた後に何處へ行くのだらう。
濱には珊瑚の死骸のやうな白くて硬い石のやうなものがたくさん積み上がつてゐた。
空はもう暗くて滿月が僕と少女、それから白く硬いものの山の影を作つてゐる。
少女が海へ潛つて取つてきた、白く硬いものたち……まるで珊瑚の死骸のやうなそれは、「言へなかつた言葉」たちなのだと云ふ。卽ち、言葉の死骸だ。
「言へなかつた、つていふか聲にならなかつた言葉だけぢやなくて、例へば送信しなかつたメール、投稿しなかつたツイートなんかもこの中にあるんだよ」
砂濱の上に腰を下ろすと、彼女は白い山からひとつ、言葉の死骸を拾つて見せた。
「あなたの言葉もこの中にあるのかしら」
「どうだらうね」
僕は足元に落ちてゐた、白い「言葉の死骸」を手に取つた。
硬くてごつごつした感觸のそれは、僕の手の中に吸ひ付くやうにすつぽり治つた。
それはなんだか心地良くて懷かしい感覺に胸が塗り替へられていく。
「こんなのは違ふ」「書きたくない」「つまんないのに」「こんな面白くないもの」
「言葉の死骸」とされてゐるその白く硬いもののざらついた表面に開いた孔から、小さな言葉が漏れ出る。
空氣なのだらうか。
音なのだらうか。
冷たい溫度、黑い空氣、囁くやうな聲、文字として頭の中にイメージされる言葉……。
一體どれが實體を持つてゐるものなのかわからないけれど、僕は確かに言へなかつた言葉を感じてゐる。
「本當は、違ふ」「虛しい」「小說が、書きたい」
僕の體溫が徐々にゴツゴツとしたそれに傳わつて、溫まつていく。
僕とその物體の體溫が溶け合ふに從つて、鑛物のやうだつたそれは次第に硬さを失つて緩むやうに開いていつた。
いつか水族館で觸れたヒトデを思ひ出す。
「自分の言葉を書きたい」「世界が描きたい」「僕の心は泣いてゐる」「自分が汚れたやうだつた」
言葉は溢れ續けてゐた。
確かにこれは、僕が3年前にずつと誰にも言へなくて、どこにも書けなかつた言葉だつた。
小說を書くことが好きだつた僕は、小說を仕事にすることができた。
けれども誰かのために文章を書き續けることは、僕にとつて自分に嘘を吐くことになつてゐたらしく、いつの閒にか僕は心も體も壞して何も書けなくなつてゐた。
僕は手の中の言葉の死骸をぎゅっと握る。
言へなかつた言葉は柔らかく僕の手に包まれた。
旅は、もう終はつてもいいんだと思つた。
僕はもう夜の海にいなくてもいい。
僕は總てに口を噤んでゐたけれど、そんなことをする必要はなかつたんだつてこと。
もう一度描いてみよう。
「行き先を思ひ出したよ。僕は行かなくちや」
少女の方を見て僕は云ふ。月明かりが彼女の顏に陰を作つてゐて、顏が見えない。
「歸るの?」
「うーん、歸るつていふか、途中までは同じ道だと思ふけど、多分行き先が違ふ」
願ひといふのは人が生きていく上の羅針盤みたいなもので、僕の願ひを思ひ出した僕は立ち止まつたり迷子になつてゐる必要はもうないのだ。
「今から行けば、終電には閒に合ふと思ふわ」
「ありがたう。それぢやあ僕は行くよ」
砂濱に置いたトランクを持ち上げる。
「きみはこれからどうするの?」
僕は最後に彼女に聞いた。
「さぁ。わたしもいつかここから出られたらいいな」
彼女は誰かが言へなかつた言葉を握つて、夜の空に放り投げた。
「私には、言へなかつた言葉なんてないの。思ひはいつも形にして傳へるやうにしてゐるの。自分の願ひを見失はないやうに。だからね」
ーーわたしは大丈夫。
さう云ふと彼女は自分で放つた言葉の死骸を上手にキャッチした。
彼女に別れを告げると、僕は砂濱を後にして海に背を向ける。
アスファルトは硬く冷たくしつかりと驛までの道のりを作つてゐて、僕さえ步き出せばどこだつていけるんだ、と思へた。
もう海へは歸らない。きつと。僕は。
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