疑うこと、赦すこと、愛すること。
生きる上で缺かせないお仕事。
けれど全てのものと眞正面から向かい續けていると、身が持たない。
仕事が上手くこなせないって、七顛八倒四苦八苦しているうちに三十年が過ぎてしまった。
ぼくはもう三十歲。
自分のことを疑い續け、赦すべきだと思っても、愛することは容易くない。
トラウマに觸れられました。
現場は行きつけのバーです。
男子たるもの三十にもなれば行きつけのバーの一つや二つ欲しいと思って、半年通い詰めてようやく「行きつけのバー」と自信を持って言えるようになった行きつけのバーです。
カウンターで「いつもの」ベイリーズのミルク割を飮んでいました。ぼくにはこれが一番合うんです。かっこつけてウイスキーのロックを飮んでリバースしたらめちゃくちゃ恰好惡いんです。
ぼくより少し年上の男性が、一人分席を空けた所に座って、マスターを相手にお喋りをしていました。
彼の話をまとめるとこんな感じでした。
・いや〜結婚すると一人で飮みに行くのも大變で
・獨身の頃は、時閒が空いたら誰か一人くらいすぐ女の子呼び出せたんだけどね
・いなくても、ナンパしたら誰かしらは着いて來るけど
・でも、奧さんと子供が大事だからな〜。もう女遊びはしないって決めてるんだ
・女の子とは口も聞かないね。喋ったら絕對戀愛關係になるもん
以上となります。
彼の顏はとても見られなかった。ぼくは淚を抑えることで精一杯だった。
ぼくが半年も掛けて「行きつけのバー」を作ろうと思ったのは、これからはちゃんと樂しく暮らしていこうと決意したからで、何でそう思ったかというと、3年付き合った柚佳に二股を掛けられていたことが判明してその上、ぼくの方が浮氣相手で、そして彼女の友人たちにぼくは陰で「みるくくん」って呼ばれていて、何でそんな萌え萌えしい名前かっていうと、ぼくが彼女にねだられて、たびたびMILKのカバンやアクセサリーをプレゼントしていたからで。
柚佳は「ごめん、そういうつもりじゃなかったんだよ」「ユウキくんのこと好きだよ」「大事に思ってるよ」言ってたけど、それ以上付き合うことにぼくはもう耐えられず、自ら別れを告げた。
表面上はぼくがフッた形式に納まったけれど、實質めちゃめちゃに傷つけられたのはぼくの方だ。
つらい。
……つらい。
……つらたん。
そうして日々ののつらい思いを積み重ねてると、階段が出來たので、そこを驅け上がって、大空へ飛び立とうとしていた、まさにその瞬閒、トラウマに觸れられてぼくは墜落する。
店を出たら、外は深夜で、冷ややかな空氣がぼくを包んだ。
いつの閒にか電車は終わっていて、商店街を步く人の姿はまばらだ。
こんな氣持ちで家に歸っても腐るだけだから、ぼくは街を闇雲に步く。
北口から三番街商店街へ拔けて、そこから踏切を渡って南口を一周すると高架上の聯絡通路で線路をまたいで北口に戾って、雜貨屋のT字路を右に曲がった時にはもうぼくは、泣いていることを隱す氣持ちがぶっ飛んでいて、「ひぐっ、うぇっ、あぁぁぅうぅぅ」と鼻水を啜りながら步いていた。
眼球が熱を帶びて頭が痛い。
霜月終わりの冷たい空氣じゃ、こんなの冷やせないよ。
もう自分が醉っているのかどうかも分からない。
ヘロヘロだった。
そうして知らない路地ばかりを選んで、暗い道を何度も曲がっているうちに、大きな神社の前に出た。
石造りの鳥居は立派で、中にはしめ繩の卷かれた太いご神木もある。
こんな所に神社があったなんて。4年もこの町に住んでいるけど、全く知らなかった。それはぼくがよそ者だからだろうか?
まぁいい。ぼくは今年の初詣(1月3日)の時に、柚佳が言ってた「神社では隅っこを步くんだよ。眞ん中は神樣の道なんだから」に何となく逆らえず、石疊の隅を選んで鳥居の中に入る。
深夜の神社は何だか怖い。
暗闇の中では在るものが見えず、靜けさは何かが起きる前のタメみたいに感じた。
凛とした空氣が夜の中で銳さを增し、こちらを狙っている氣がする。
これが畏怖と云うことなのだろうか?
普段ならこんな場所には絕對に入らないのだけど、今日はもうどうでもいい氣分だった。
もし神の怒りに觸れて死ぬのなら、それも惡くない。
闇夜の中を步いて行くと、右手に手水場が見えた。けどやっぱりなんだか不氣味で怖くていつもなら何とも思わない、石彫の龍が水を吐いているヤツですら、近寄りがたい神々しさを感じてしまって、多分被害妄想みたいなものだけど、でもやっぱり怖い物は怖い。ぼくは手水場をスルーする。
「あ〜っ! 神さまに會う前にちゃんと手をきれいにしなきゃダメなんだからねっ。しつれーだよっ!」
柚佳がいたらこう言うかな。
そう思うが否やぼくの心はズキンと重たく脈打って、そのままストンと胃の中へ落ちた。衝擊でキリリとする。痛い。でもナイス瞬發力・オブ・マイハート♡
ぼくは自分の心の傷の具合を確かめたくて、時々わざと柚佳のことを思い出す。
まだ好きな譯じゃない。
柚佳とはあれ以上一緖にいるのは無理だった。
ぼくを苦しめているのは「上手く出來なかった」という思いだ。
柚佳は明るくて、よく笑って、ヘンな本ばかり讀んでるちょっと變わった女の子で、柚佳みたいな女の子はきっと他にもいるんだろうけど、そういう女の子でぼくが知っているのは柚佳だけで、ぼくは彼女に魅了されてしまった。
柚佳より可愛い子なんて澤山居るし、それに美人って感じでもないからあいつの見た目で「萌え!」って思う所なんてほんと數える位しかなくて、でもその分、そういう所が强烈に愛おしかった。って思い出したらまたちょっと「ぅえぇぇぇ……ひぐっ」ってぶり返した。
悲しみが眞夜中の神社にビビってた氣持ちを凌駕する。
ぼくは上手くやれなかった。
大好きだったから愛情を注いだ。
でもダメだった。
そのことがぼくに無力感を與える。
石疊の道を進んで行くと、階段の前に出た。ここまで來たら當然、とぼくは「いーちにーさーん」とクセで數えながら十三段を上りきると、息を吐いて顏を上げた。
石床が3mほど續いた先に、木造の立派な本殿が姿を見せる。
それは闇夜の中で壓倒的な存在感を持ってぼくを威壓する。けど負けない。鼻水を拭って賽錢箱に向かう。折角來たんだから祈ろう。願いを叶えてもらうんだ。苦しいときの神賴みだよ!! 淚がこぼれる。
でも近くに行ったら判った。
賽錢箱だと思っていた物は、三つ竝んだ木箱だった。
そして箱の上には、赤い着物(べべ)きた金髮のおかっぱ頭の女の子が素足で寢轉んでいる。
おかっぱ頭×赤い着物×神社×深夜から、導き出される解は「こんなのまるで怪談じゃないか!」しかないから、ぼくは一應その言葉を心の中で繰り返し呟く。だけど棒讀み。理由は分かる。この子は何か怖くない。感情は直感の鏡で、ぼくの心が不安で波打たないのはきっとそういうことなのだ。そしてそんなことより、素足が寒そうなことの方がぼくは氣になる。
寒そうな女の子がいるんですよ〜。
ぼくがそう思った瞬閒、少女はガバッと起き上がると
「なーにー! やっちまったな!」
ヘリウムガスを吸ったような聲で叫んだ。
驚いたぼくは何も言えずに、少しの閒彼女と見詰め合う。だけどすぐに彼女は拳をぶんぶん振り上げて
「女は默って愛されたい! 女は默って愛されたい!」
と言って、また大きな瞳でぼくをじっと見る。
その表情は何か言葉を待っているようだった。
「え……っと、お、男だって愛されたいよ……?」
恐る恐るぼくは、その目に應じてみる。
すると彼女は「正解〜っ!」と言って、箱の上からぴょんと降りると「えへへー」と笑ってぼくを見上げた。背が低かった。小學5年生という感じだ。けれど顏付きは、10代にも見えたし、20代前半くらいにも見えた。頭にはリボンを幾つも着けている。
「何しに來たの?」
彼女はぺらぺらの聲で言う。
「うーんと、お願いごとって言うの?」「あー」「だから、お賽錢、入れようと思って」「あーなる」
あなると言ったことをツッコんでいいのか、でも言葉の上とはいえアナルにツッコむのってどうなのとぼくが逡巡したのも束の閒、彼女は言葉を續ける。
「うち、そういうのやってないからね」
「えっ。何で?」
あーなる。ぼくは彼女の口振りから、ここの巫女さんなのか、と勝手に結論付ける。
「これ、見た?」
彼女は自分の背後にある、三つの木箱を指した。
よく見ると、箱にはそれぞれ
【疑うこと】【赦すこと】【愛すること】
と書いてあった。
「うちが集めてるのは、お賽錢じゃなくてこれ」
女の子は口角を上げて言う。
「どういうこと?」
「紙に書いて、この箱に入れるのよ。それでおしまい」
彼女はにこにこ笑顏でぼくを見詰めた。
「まだ判んない?」「うん」「疑うことと、赦すこと、それから愛することって生きるために必要なことなの」「うん」「でもね、そんなの人閒が一人で全部やると大變でしょ?」「まぁそうかも……」「そうだよ。だって人閒はすぐ死んじゃうのに、することが澤山あるんだからっ。おいしいご飯を食べたり、歌ったり踊ったり、ねっ?」
ここでぼくは默る。そういえば柚佳も同じようなことを言っていた。
「疑うことも赦すことも愛することも、全部自分で背負い込むと、物凄い時閒とエネルギーがかかるじゃん? だからね、本當はこういうのって、神樣のお仕事なんだよっ」
赤い着物の裾を飜して、少女は彼女の背にある箱の裏から紙とペンを取り出した。
「今の人はね、みんな自分でなんとかしようとしすぎ。だからすぐ疲れちゃうんだよ。そんなの全部神さまに任せて、樂しいことだけすればいいのに」
少女は「はい」とぼくに、紙とペンを渡すと「任せたいことを書いて、あとは神樣に賴めば良いから」と言う。
「うーんそうだね」
ぼくは箱に書かれた文字を見る。疑うこと、赦すこと、愛すること……。それはぼくが囚われている事かだ。
「でも、急に言われても難しいね」「そお? じゃあ何で泣いてたの?」「……見てた?」「聞こえた」「そっか」「何で泣いてたの?」「うーん……。トラウマってやつだよ」「何? トラウマって」「心の傷的な……」「じゃなくて、キミのトラウマの話!」「あー。……付き合ってた子がいたんだけど」「振られた」「違う。一應ぼくが振った」「じゃあなんでトラウマなの?」「二股掛けられてたんだよ」「あー」「しかもぼくが浮氣相手の方」「それは別れて正解」
「……そうなんだけどね」
ぼくは俯く。彼女の小さな足と眞っ赤なペディキュアが目に入った。
「ぼくはきっと上手く愛せなかったんだ。本當に好きだったし、大事だったから、ちゃんと愛したかったんだけど、ぼくの氣持ちは何も屆かなかったんだ」
「うーん。しょーがないよ。その子と合わなかっただけだよ」「そうなのかな」「そうだよ」「でも……」「それだけのことだよ」「うん……」正論だ。ぐうの音も出ない。だけど正しさはぼくを救わない。苛んでばかりだ。
「分かってるけど、悲しいんだよ。ぼくなりにちゃんと愛していたのに……。好きだったのに。あの子だけじゃなくて、あの子の前の子も、前の前の子も。結局ぼくは、誰にも愛されたことがないんだよ。ぼくが惡いんだよ。こんなぼくじゃ。上手くやれないんだもん。下手くそなんだもん。ぼくなんて底へ」「はいストップ!」彼女の手がぼくの口を塞いだ。冷ややかな感觸が、火照った顏に氣持ち良い。
「キミはきっと、自分に期待しすぎてんだよ。だから、上手くやれなかった自分が許せないんじゃない? 樂しい未來を作れなかった自分のことが憎いんだよ」
風が吹いて雲が流れる。月明かりが氣まぐれに影を作った。
「だからさ、そーやって自分を責めても何もラクにならないよ。別に責めることないんだから。キミが下手とか惡いとかじゃなくて、ただあの子と合わなかったってだけのことなんだから」
彼女の目を見ていると、少しラクになれそうな氣がして來る。
「でもさ、責めちゃう氣持ちも分かるけどね。まー、それだけ自分のことを信じてるってことだもんね」
彼女はやっと、ぼくの口から手を離した。
「ぼくね、考えたんだ。よく言うよね? 『自分を愛せない人は、他人のことも愛せない』って。つまり、ぼくは自分を愛していないから、あの子たちをちゃんと愛せてなかったのかなって」
「うーんそうだね。半分正解。キミはキミなりにちゃんと彼女たちを愛してたんだと思うよ。でもさ、キミに愛されてないキミは、きっとあの子たちには魅力的に見えなかったんだよ」
「……ぼくは自分のことが可愛いけれど、やっぱり自分のことが許せなくて、愛したいけど本當の所溜まらなく憎たらしいんだ」
「キミが自分のことを許してなくても、神樣は許してるよ」
少女が笑った。
「だって、もし許してなかったら、すぐに消しちゃうよ。神樣の手に掛かったら、人閒なんて一瞬で消えるんだから」
遠くでカラスが鳴いている。
「あ、いけない。もうすぐ夜が明ける。ねぇ、いいからもう、とっととこの紙に、疑ってることと、赦したいことと、愛したいことを書いて入れて行きなよ」
彼女がぼくに詰め寄った。その顏を視ていると、ぼくはどうしても書かなくちゃいけないって氣になってくる。
「うん、わかったよ……」
木箱の上に紙を置いて、ぼくは一枚ずつそれぞれ、思っていることを書いた。
疑っていることは、未來の幸せ。
赦したいことは、過去の自分。
愛したいことは、自分自身。
ぼくが書いた紙を眺めると少女は滿足そうに何度も頷いた。
「いいよいいよ。こんな重たいこと、自分だけで背負い込むと潰れて當たり前だよ。こんなの全部、神樣に丸投げしちゃえばいいんだから。だって、そのために神樣っているんだよ」
少女はにっこり笑う
いつの閒にか、聲からヘリウムっぽさがなくなって、ふつーの可愛らしい聲になっていた。
ぼくは自分の手で、紙をそれぞれ「疑うこと」「赦すこと」「愛すること」の箱に入れる。
「ありがと。何か元氣出た。かも」
瞼はまだ熱を帶びていたけれど、徐々に冷めて行く。
「そんじゃ、もう歸れ」
彼女が笑いながら云う。
「分かった。歸る」
「おやすみっ」
木箱の前で手を振る彼女に、ぼくも手を振って別れを告げた。
そういえば、ガスの拔けた聲は、柚佳に似ていた。
けれどそれが何だろう。
あの子はあの子で、柚佳は柚佳だ。
翌朝起きたら瞼が重くて、鏡を見たら憔悴しきった顏をしていた。
心の中はスッキリしたものだというのに。
仕事に行くと、事務の佐倉ちゃんに「風邪ですか? 大丈夫ですか?」と割と本氣で心配そうな顏をされてしまって、こんなどうでもいいことで心配を掛けてしまうぼくは本當にかっこわるいし、申し譯ない。
でもそうじゃなくて、佐倉ちゃんはぼくを心配するに値する人閒だって言う事を、ぼくに傳えてくれているわけで、だからもうぼくは自分を卑下する必要なんてない。
そして、そういうのは佐倉ちゃんに限ったことじゃなく、休憩に誘ってくれる同僚や、コンビ二で手を握っておつりをくれる女の子、それからインスタでいつも♡をくれる人たちとか。
ぼくを赦してくれている人は澤山いて、ぼくがぼくを赦さなくたって、ぼくは赦されてるんだなってことを感じてる。
誰かの戀愛話を聞いても、街で高校生のカップルを見ても、ぼくは何とも思わなくなった。
自分と彼らを比べなくなった。
それはきっと、ぼくが過去の自分を赦せるようになったからなんだと思う。
柚佳のことを思い出すと、やっぱり少し切なくなるけど、もう悲しくはない。
そうして氣持ちが輕くなったのは、あの神社でお願いしたことが關係あるのかどうか分からないけど、少なくともあの日以來、ラクになったのは事實だから、ぼくはお禮參りに行こうと、すっかり春めいた日曜日、街をぶらぶら步いてみる。
北口の雜貨屋を右に曲がって……そこからはマイナーな路地を曲がりに曲がったことしか覺えてないから、手當たり次第、しらみつぶしで路地を行くけど、神社なんてどこにもなかった。
醉っ拂って夢を見たのか。それとも、記憶違いなのか。
一日中探しても、ぼくは神社を見附けることが出來なかった。
まあいいか。あれが何だったとしても。
街を彷徨っている閒、ぼくは何人か金髮おかっぱ頭の女の子を見かけるけれど、みんな彼女とは似てもにつかない顏立ちをしていた。
あの日、ぼくは出會うべくして出會ったような氣がする。
神社にも、彼女にも。
だからきっとまた、出會わなくちゃいけない時が來たら、ぼくはまた、あの神社にも彼女にも出會えると思う。
だってしょうがないだろう。自分の記憶を責めたって。それに、すべてが自分でコントロール出來るなんておこがましい。頑張ってもダメなことは、ぼくはすべて神樣にぶん投げるよ。
またいつか、あの子にも會えますよーに。
暮れかけた空に、ぼくは祈りを捧げる。
● おしまい ●
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