いい季節だった。よく晴れて、夏で、夜だった。十六歳だからずっとそんな季節なんだと思った。
ベンとベンの兄貴が機嫌よくて、車に乗っけてくれた。夜、僕が暇をつぶしてぷらぷらしていたら、「乗れば」って。ベンが助手席にいたから僕は後ろに乗った。あとでリーチを拾うとベンが言った。
ベンは会った頃BEN DAVISのキャップを被っていたからそう呼んでいた。猿の絵のやつ。顔も似てるけど言うと怒ると思うから言ったことない。リーチの理由は忘れた。
兄貴の黒いミニバンは細い道を抜け、国道を走り始めた。夜に車で走ると昼より遠くに行ける気がしたから好きだった。
「ラジオ聞こえねえよ」
片手でハンドルを握った兄貴が言った。
「お前なんのために助手席にいんだよ」
ベンは揺れる車内でうまいこと缶ビールを飲みながらボリュームボタンを回した。兄貴のカーブの切り方は曲がり角が突然現れたのかってくらい雑だけど、ブレーキはフィギュアスケートみたいに滑らかだった。ベンの手元で急に音量がはじけてラジオが流れ始めた。パーソナリティの声が聞こえてくる。こんばんは、お仕事終わりの人も、まだまだこれからの人も、しばしお付き合いください。
車は少し走ってから酒屋の駐車場に滑り込む。黒ずんだ看板のライトがほの白く、そこだけ靄がかかって見えた。
くたびれた店主は入り口から姿が見えないくらいカウンターに沈み込んで座る。
「暇そうじゃん」
兄貴が軽口をかけた。カウンターに尻を乗せ、しなだれかかるようにして店主に話しかける。店主は僕らの顔も見ない。染みついた姿勢を変えない。惰性で開けられる店。惰性で売られる品物。惰性で生きている店主。ブレーキもアクセルも錆びてる。
「あれ値下げすんなら頂戴よ」
兄貴の口調を真似てベンが言う。棚の最下段で叩き売られる酒瓶を指す。
「飲めねえだろ」
店主はぶっきらぼうに言う。
「ボーリングのピンにする」
ベンは言い返し、手に持った缶を転がした。缶は鈍い音でカウンターの上を横切り、埃をかぶった募金箱にぶつかって止まる。
「遊んでばっかだと俺みたいになるぞ」
「おじさんそんな遊んでなかったでしょ」
兄貴がカウンターから店主を見下ろして言った。オーバーサイズのパーカーの首元からネックレスが光って、にっと笑った白い歯と共鳴するみたいだった。兄貴はほとんど誰にでもそういう親しさを向けた。つまり年下の女の子にでも、初老の男にでも。もとからの肉体的、精神的な余裕に、社会的な余裕の見通しが立ってきた二十一歳のやることだった。
兄貴が煙草を買うのに続いて僕がビールを買った。小銭の音は軽く、買ったビールの缶も軽かった。冷たいものは軽いと思った。リーチが合流した。
海行きましょうよ。車の後部座席でリーチがきゃんきゃん言う。夜にドライブっつったら海じゃないすか。彼の声は高音で響く。二日酔いの時なんか殴りたくなる。誰も適当にしか答えなかったけど、他に行くところがあるわけでもないからたぶん海に行くんだろうとなった。
南下するっていうけど道は確かに下っている気がする。僕らが南へ国道十六号を走るとだいたい海まで行くからかもしれない。
ナトリウムランプの作る影が、車の天井とヘッドレストの上をリズミカルに転がり続けた。窓を開けたらそれがもっと流れ込んでくるかと思って、僕は頭の横の窓を開けた。影のかわりにどっと風が流れ込んだ。
「おい、窓開けんな」
ベンが言ったが無視して頭を外に出した。頭もってかれるぞ、と兄貴が言うのが外から聞こえた。リーチの高笑いも。
見ると僕の手元にも影が転がって、手が僕の意志とは別に動いているように見えた。さっき買ったビールの缶を開けた。缶にライトの光が当たった。まだ冷えていた。冷たさと眩しさは似ていた。
「そういやリーチ、面接行った? どうだった?」
ベンが後ろに向かって声をかけた。
「あーうん。来週から来てって」
暇そうに携帯を弄りながらリーチが答えた。
「バイト紹介したの?」
「そう」
「人からの紹介って辞めにくくない?」
「でもハズレは少ないでしょ」
僕らが話すのを兄貴は黙って聞いていたが、ふと思い出したように
「俺んとこも誰か来てよ。俺が抜けたあとにさ」
とハンドルに手をかけたまま言った。
「仕事辞めるんすか?」
リーチの驚いた声が余計に高く響く。
「地元出ようと思ってるからね」
兄貴は前を流れる景色を見据えたまま答えた。車の走る音にかき消され、話し声は昔の記憶から聞こえてくるようだった。兄貴だけじゃない。狭い町では、若者はさっさと身を固めるか出て行くかのどちらかだ。
十六歳は酒は飲めないが買う金は稼げた。車の免許は取れないが乗せてくれる友人はいた。
無理な車線変更の車に兄貴ではなくベンがひどい悪態をつく。酒がダメなリーチがずっとチョコレートを齧るから車は甘い匂いがしていた。兄貴は未成年飲酒には寛容だけど飲んで運転は絶対にダメだと言って、酔ったベンがふざけてハンドルを触るのも怒った。酔ったベンと酔うはずのないリーチがラジオの曲に合わせて調子外れに歌った。
暑くも寒くもなく、早くも遅くもなく、良いことも悪いことも些細だった。十六歳だからそうなんだと思った。
車が停められて、僕らは人のいない道を歩き始めた。一本離れた大通りからは車の音が聞こえ続けた。さっきまでその中にいたのに音はもう遠い。風に潮の匂いが混じった。
前を兄貴とベンが、後ろに僕とリーチが、車に座ったのと同じ位置で歩いた。道は暗く、街灯が気まぐれに僕らを照らし、ひとり言程度の声や服の擦れる音、足音、煙草に火をつける音によって僕らは浮かび上がっていた。
周りはくたびれた倉庫とシャッターばかりあった。わかりやすい看板などはなく、暗い窓ガラスが無言で僕らを見つめ、すき間で雑草が背丈を伸ばしていた。
空は全部空き地みたいなものだ。空き地が増すたびに空も増えた。
前を歩く兄貴の煙草の煙が空をかすめていく。兄貴は足元の地面で火をもみ消すと、手元のそれを空き地の伸びた雑草に向かって放った。
「燃えますよ」
僕が言うと、そんな簡単に燃えねえと兄貴は笑った。その言い方が、嫌に大人の諦めに聞こえた。
リーチがどこかからビールの空き瓶を拾って振り回していた。雑草ばかりのここで、瓶のガラスは異質なものに見えた。
昔、道端に落ちていた電球を拾ったことを思い出した。今みたいに雑草ばかりの道で電球のガラスは異質だった。学校帰りの僕はそれを拾った。軽くて透明な白熱電球は、中のフィラメントがよく見えた。でもそれだけだった。すぐにまた捨てた。地面に放った。放られたガラス球は地面に当たって、ぱりんと簡単に砕けてしまった。
「貸して」
リーチの手から空き瓶を取った。リーチは元から全然いらなかったように渡してきた。
瓶を手にして後ろを向く。今来た道にシャッターの閉まった倉庫と空き地がぽつぽつ並んでいた。手前には波板のトタンか何かの外壁の錆びた二階建てがあった。
捨てた電球が砕けた時、なぜかショックだった。いらないものだからどうなろうと構わなかったはずだったが、それでもそんなふうになると思っていなかった。ただ落ちていた地面に戻すだけのつもりで、ただ手を離して放ったら僕の目の前で粉々に砕けてしまった。そんなつもりじゃなかった、と思った。
「先輩」
前に向き直ってベンの兄貴に言った。
「地元出たら何するんですか」
「いろいろやるよ」
「ここだっていろいろできますよ」
「なんも無いじゃん」
地元には何も無い。何もないからみんな出て行く。何もしない奴らが残る。
「無いからなんかやるんですよ」
「なんかって何」
「いろいろってなんですか」
歩いているから目は合わなかった。合ったとしても暗くて顔は見えなかった。
「ずっとこんな端っこにいたくねーじゃん」
ベンが口を挟む。兄貴が出て行ったらベンも出るんだろう。
「端っこって言うけど。じゃあどこが中心なの」
「東京」
「東京だっていろいろあんじゃん。下町とか、住宅地とか」
「ならお前は何したいの。地元残って」
兄貴が僕に向かって言った。
「ここにいたらできなくて、東京ならできることとか、そんなにあるんすかね」
下を向いて歩いているとここがどこでもいいような、そもそもどこでもないような気になった。
「逆に地元でならできることも東京に出て行ったらできなくなる気がするし。出て行って、結局東京の端っこにいるなら、地元の中心にいても同じかなって」
ここの若者はさっさと身を固めるか出て行くかのどちらかだ。出て行って、結局数年して戻ってきて身を固める奴も一定数いた。
顔を上げると兄貴と目が合った。鋭い目。自信に満ちた口もと。人を惹きつける。デカい先輩だった。僕はたまたまベンと友達だから仲良くしてもらってたけど、兄貴の名前はいろんなところで通った。
「東京の中心に行けばいいんだろ」
兄貴が言った。言い切った口調の強さから、反対されるのが初めてではないのだろうと分かった。
「そんな簡単じゃないですよ」
「俺に無理って言ってる?」
「もったいないって意味です」
「同じことだろ」
「行ってほしくないんですよ!」
不意に声が大きくなった。全員がこちらを振り向いたことに怯んだ。息を吸う。
「先輩がいるからここが俺らの中心なんじゃないですか!」
今度は出そうと思って大声を出した。三人に目を離させまいと思った。声は三人の歩く道の全部に響いた。自分で響かせたと思った。
後ろを振り返ると二階建ての錆びた倉庫があった。それに向かって思いっきり瓶を投げた。僕の手から離れた瓶は音もなく放物線を描き、二階の黒々とした窓ガラスに当たった。
目の覚める音がした。
あるいはリーチのあげた「うええ?」みたいな声で目が覚めた。どちらにしろ驚きはしなかった。
放り投げた電球があんなふうに砕けてしまうと僕は思っていなかった。勝手に砕けてしまったと思った。瓶は割ろうと思ってちゃんと割れた。
何かしないと世界は自分からどんどん遠のいていく。でも、じゃあ、何をしたらいいのかわからない。何もしないでただ地元を出ればいいと思っている奴らなんか、残った奴らと何も変わらないと思った。結局何をしたらいいのかわからなかった。何かを起こしたいと、そこではっきりと思った。世界の中心を手繰り寄せたかった。
眞山大知 投稿者 | 2024-05-24 12:42
先輩と後輩という関係にがんじがらめにされる、そんな地元の息苦しさの描写がとても生々しくて好きです。後輩が上京を止めてくるのもリアリティを感じ取れました
深山 投稿者 | 2024-05-24 23:42
ありがとうございます。実際自分にはこういう地元の交友関係ないので妄想なんですけど、息苦しかったのは本当なので書けていたようで良かったです。
今野和人 投稿者 | 2024-05-24 14:28
どこの箇所が特にというより、全編に渡って文章がとにかく良く、読了後の余韻が心地よかったです。
酒屋の店主に対する兄貴の切り返しの言葉を聞くと、そりゃずっと仰ぎ見たくなるような存在なんだなとわかります。
恥ずかしくなりそうな叫びもちゃんと胸を打つし、電球と瓶などの小道具の使い方も気が利いていて、完成度高いなと思いました。
深山 投稿者 | 2024-05-24 23:45
良い文章が1番嬉しい感想なのでマジで嬉しいです。ありがとうございます。電球と瓶のくだりは取ってつけた感がなかっただろうかと思ってましたが、そう言っていただけて安心しました。
曾根崎十三 投稿者 | 2024-05-24 14:38
幼い感じ? ガラの悪い感じ? を出そうとしつつ、あふれ出る知的な感じが抑え切れてない感じがちぐはぐで良さに繋がってました。主人公なりの反抗なのでしょうか。大人になりたくないですね。大人なんですけど。
深山 投稿者 | 2024-05-24 23:49
いや〜ガラ悪くしようとしたんですけど書き手の知的さが滲み出ちゃったかもしれませんね〜
反抗してます。そしてもがいてます。大人にはなりきれないでいます。
諏訪靖彦 投稿者 | 2024-05-24 21:11
オフビートな青春映画を観ているようでした。国道16号の端だと神奈川か南房総辺りかしら。懐かしくなって免許取った当時どうだったかなと思い出してみたら、事前に警察から勤め先に検問情報が通達されていたことを思い出しました。今は絶対しませんけど。
深山 投稿者 | 2024-05-24 23:55
地元から湘南あたりに行くときに走っていた道が国道16号だと最近気づいたのも発想の1つでした。なので上京っていうほど地方じゃないんですけどね。
検問とか時代によって全然違いそうですね。
大猫 投稿者 | 2024-05-25 14:58
十代半ばの謎の全能感、と思ったらあっという間に絶望に振り切れる危うさ、が「僕」の語りに繊細に表現されていると思いました。特に白熱電球を地面に落としたら割れてしまって「そんなつもりじゃなかった」とショックを受けるところ。すごく良かったです。
これは私の誤読なんですけど、人物把握にちょっと手間取りました。「ベンの兄貴」が文字通り「ベン」の兄であることに最初気がつかず、アニキ分のベンという人なのかと思ってしまった。最後、その同じ人に向かって「先輩」と呼びかけたのも気になりました。最初から先輩と書けばいいのにと思いました。
深山 投稿者 | 2024-05-26 00:33
ご指摘ありがとうございます。そう言われて読み返したらほんとそうですね。勢いで書くから気づかない…
友達の兄ちゃんで学校かぶってる年齢差でもないとなんて呼ぶものなのか迷いすぎておりました。
春風亭どれみ 投稿者 | 2024-05-26 22:35
若者の万能感というか世界とのミスマッチ、理由なき反抗ともいうべきか…国道16号沿線なら、上京は本州以外からとかと比べるとわりと軽い決心で済みそうな気持ちしないでもないですが…(笑)
雰囲気が好きな作品でした。
深山 投稿者 | 2024-05-26 23:52
ミスマッチ、そうなんですよね。反抗してます。
16号は、はい、まあほとんど東京です笑。
河野沢雉 投稿者 | 2024-05-27 15:20
16号沿線が田舎かどうかという議論は別にして(マジもんの田舎出身の自分から見ると、16号の通る場所は紛う方なき首都圏なので別格)、田舎の閉塞感とかしがらみってこうだよなあと思いました。
深山 投稿者 | 2024-05-27 19:25
深く考えずに実在の道を出してしまったことを反省しています…笑。しかし田舎の閉塞感が少しでも書けていたのなら良かったです。
退会したユーザー ゲスト | 2024-05-27 18:18
退会したユーザーのコメントは表示されません。
※管理者と投稿者には表示されます。
深山 投稿者 | 2024-05-27 19:29
超名作映画で畏れ多いです。短編が上手い方に上手くまとまっているなんてコメントいただくと調子乗りそうです。ご指摘もありがとうございます。
Juan.B 編集者 | 2024-05-27 20:00
じわじわと蝕むようで蝕んでいくような、描写が、すごい。
身捨つるほどの16号はありや。
小林TKG 投稿者 | 2024-07-22 01:08
息をさせないような話でした。息つく暇がないっていう感じじゃなくて。息させない感じ。あるいは身に覚えがあるからかも。誰しもこういう感じでした。子供の頃。誰しも。今は分別あるような顔している人も子供の頃はこういう感じでした。ぐうううってなる。なった。