僕は福島県の平(いわき市)に生まれた。
父親は猪苗代湖の畔に位置する翁島集落の農家の出身で、定かではないが江戸時代には会津藩の足軽だったという。調べてみると足軽とは一般的に下級武士のようだが、父の話では普段、農業を営んでいたというから、生粋の武士という印象はない。ただし、いざ戦いという時には戦場に駆けつけて前線で戦わなくてはならないのだそうだ。要は使い捨ての駒、弾よけの盾のようなものだ。調べてみると各藩によって通常の仕事が異なるようで、足軽という身分の扱いに関しても上下があるようだが、いずれにしても渡部の血筋に武士たる威厳は感じられない。水呑みまではいかぬにしても”百姓あがり”だったに違いない。
母親は岩手県一関市の郊外にある厳美渓という景勝地からさらに奥に進んだ山屋という集落に建つ神社の娘だ。茂庭というのが母親の旧姓だが、茂庭というのは福島県飯坂温泉に茂庭という地名があるが、どうやらここに母方のルーツがあるらしい。
茂庭氏は、藤原時長を祖とする源平合戦で平家の武将として出陣した斎藤別当実盛の後裔で、山城の国(京都府)に住んでいた斎藤実良らしい。のちに実良は奥州に移住することとなり、伊達家初代の朝宗に仕えて茂庭村を領して鬼庭(おにわ)と名乗った。のちに11代目の良直のときに茂庭と改称したそうだ。ただし、母の実家には家系図がないので、母方の茂庭が、この実良の茂庭の血筋であるのかは不明である。
0.
いわきでの記憶はまったくないが、ただ、鼻歌を歌いながら線路の上を歩いている記憶がある。場所は列車の操車場のようだった。これがいわきでの記憶なのだろうと思うのは…ただ、なんとなくだ。
1.
父親が小さな雄のスピッツを連れ帰ったのは僕が幼稚園に入ったばかりの事だった。父親の両腕に抱かれた彼は真っ白で、フワフワとした毛の塊のような犬だった。落ち着きなくバタバタと父親の腕の中で暴れもがく彼の顔はクリクリした目をしていて「ハッハッハ」と舌を出して荒い息をしながら此方を見ていた。「ほら」と父親が彼を放すと、彼はバタバタと僕に向かって走り寄って来て飛びついた。彼は生まれてからそれほど日が経っていない子供のようで僕の顔を甘えるようにベロベロと舐めまわした。プーンとそれまで嗅いだことのない匂いが鼻をついた。彼の身体の匂いと唾液の匂いは種類は違うが、人の匂いではなかった。
それからというもの僕が彼の面倒を見ることになった。当時はどこの家族でも犬猫を飼えば彼らの世話をするのは子供たちだった。今になってはあまり記憶がないのだが、確か家の中で飼っていて、昼間は僕が彼を連れて自宅アパートの裏にあった弁天山まで、散歩に行ったのを覚えている。
赤い首輪に金属の鎖を付けられた彼は、何かに憑かれたように僕を強く引っ張って行く。彼は時々、振り返って立ち止まり「早く来い」と言うような顔つきで僕を見る。僕はそんな彼の顔を見るのが好きだった。弁天山を登るためには小さな僕たちにとって、かなり急な勾配を登っていくことになるのだが、彼に引っ張られているので少しも苦にならなかった。
弁天山は福島市東側を流れる阿武隈川に近接する標高142.8mの阿武隈高地山系の小山である。安寿と厨子王がここに住んでいたという椿館跡があることから椿山とも呼ばれている。そういえば伝説もあるからそれなりに歴史のある山なのだろう。当時、松川事件で有名な松川側の空き地には動物園で使用されるような大きな鉄製の檻が転がっていて、子供心に死臭が放出されているような不気味さを感じた。
自宅側の山の麓には小さなお宮が建っていた当時は「呪いのミイラ」というテレビドラマが放送されていて、薄暗くなってから、このお宮の前を通ると、父親が面白がってミイラの真似をして僕を怖がらせた。僕は父親のミイラよりも弁天山の闇の方が怖かった。
弁天山の麓には精神病院もあった。常に扉を閉ざされて、あまり人の出入りがないそこが、僕にはどういう場所であるのかを理解できていないながらも、形容し難い恐怖を感じたものだ。母の言うことをきかないと、「お前も悪いことをすると、あそこに入れられて、死ぬまで出られないぞ」とよく嚇かされた。
記憶が薄いが、弁天山の頂上に到達する前に阿武隈川を眺めると素晴らしい眺望が広がって夕陽が吾妻山の方向にゆっくりと沈んでいくのが見えた。その情景は断片ではあるが僕の記憶に残っているのである。しかし、ここで夕陽を見たあとに僕たちが麓に降りる頃には薄暗くなっているはずだから、闇が怖いという僕にはあり得ない話なのだ。それとも運良く明るいうちに帰ることができたのだろうか。
弁天山の中腹では姫リンゴのような赤い実をつける低木を見た。その赤い実は酸味を感じさせる匂いがしていたので、子供心にも口にしてみる勇気が出なかった。
2.
ある日、僕と母親が自宅アパートの近くにあった佐藤というおばさんの家に遊びに行った時のこと。近所の人が「精神病院から患者たちが逃げ出した」と知らせに来た。それを聞いた佐藤さんが「家の中に入ってきたら危険だから」と、慌てて家の玄関に鍵を閉めた。それから僕たち3人は佐藤さんの家の2階に上がって窓から外を見た。
20人ほどの白い服を着た男女が大声で笑ったり何か意味のわからない事を叫びながら、アパートの前の県道を歩いていた。夕陽に照らされた道のアスフェルトから赤い陽炎が燃えたって、ジグザグにゆっくりと歩く患者たちを揺らしていた。
僕には彼らに対して恐怖感はなかったが、自分と同じ人間のようには思わなかった。何だか滑稽な妖怪たちが行列を組んで練り歩く百鬼夜行のように思えた。彼ら彼女らの狂気の笑い声が奇妙な音楽に聞こえた。
それからしばらくして患者達が捕まったのだろう、僕と母は自宅アパートに戻ったのだった。僕は患者たちが捕まるところを見たわけではないので「あの白服の人たちは何処に行ったんだろう?」子供心に不思議な感覚に囚われた。
3.
ある晩、僕は恐ろしいモノを見た。
家族で就寝中に僕は目を覚ました。僕は父と母の間に寝ている。漆黒の闇の中、次第に目が慣れてくると薄暗い中に天井が見えた。しばらく凝視していると天井全体に何か細くて長いモノが蠢いている。
恐ろしくなって両親に声をかけようとしても声が出ないし身体も動かない。そのうちに僕の横の壁からシュルシュルと嫌な音がしだした。目だけを壁に向けると壁からも無数の細長いモノが湧き出してウネウネと蠢きだした。目を凝らして見ると、先が尖ったミミズのような生き物のようだ。そのうちに部屋中からその生き物が湧き出しては蠢きだした。
父も母も寝息をたてて熟睡しているようで起きない。やっと首だけを母に向けると母の寝顔が見えた。必死になって声を出そうとすると、母の鼻から鼻腔を押し広げるようにゆっくりと何かが出てくる。先ほどのミミズのような生き物だった。そのうちに耳や口からも湧き出してきた。
驚いて反対側に寝ている父を見ると、やはり耳や鼻や口からニョロニョロとミミズが蠢き出てきている。僕は恐怖に耐えられなくなって、叫んだ。
「うわぁ!」やっと声が出た。「どうした?」父が目を覚ましたようで僕に声をかけた。「お父ちゃんとお母ちゃんの顔からミミズが出た」と僕が言うと、母も起きて「どうしたの?」と言う。「ミミズだよ」と僕は泣いた。「あ、わかった。克弘は風邪薬をいっぱい飲んだんだよ」「それで、うなされたってか?」「泣ぐな、さ、泣いでぇでションベンに行くべ」ぐずる僕を父は優しく便所に連れて行ってくれた。
4.
福島市渡利の自宅アパートの近くには母方の叔父さんが住んでいた。この人は高校を中退して故郷の岩手を出たのだが、どういう理由で福島市に住んでいたのかわからない。最近、母親に確認したら、結婚して近くに住んでいたのだということがわかったが、断片的な僕の記憶から考えると、叔父は定職につくことなく毎日ブラブラしている派手好きな印象がある。これは僕の勝手に作り出した妄想ではなく、その後、僕が中学生の頃に会った叔父の派手な印象からなのかもしれない。
福島市に住んでいたのは、僕が小学校に入学するまでだったので、多分、6歳頃までだったと思う。まだ小さかった僕には、叔父の生活のことまで知る由もないから叔父を自分の兄のように慕っていたのだったろう。
叔父は木製銃床に金属製の銃身を乗せた空気銃を所持していて、窓に空き缶を吊るしてそれを銃で撃っていた記憶がある。吊るされた缶は穴だらけで「ほれ」と自慢げにそれを見せる叔父はガキ大将のような顔をしていた。空気銃の弾は金属製の鼓弾だったから薄い(といっても今よりかなり厚いものだった)鉄製の空き缶を射抜くのは容易いことだった。当時は理解できなかったが、今考えれば危険なことだ。狙いが逸れて外に飛び出た弾が人に当たる危険もあるからだ。
5.
スピッツに名前をつけていたかどうかは忘れてしまったが、僕はいつも彼と一緒にいた。近くに住む子供と遊んだ記憶がないので、彼は良い遊び友達だったのだろう。昔のアパートでよく犬が飼えたものだと思う。もちろん、アパートの室内で犬を飼うことはできなかっただろう。当時の自宅は2階建ての1階で、その庭のような敷地内に小屋を据えて飼っていたのだろうか? その記憶が全然ないのだ。ただし、以下のような記憶がある。僕が今でも酷く後悔している出来事のひとつだ。
ある日、母が県道を挟んだ近くの知人宅で話をしていた。僕はスピッツとアパートの外に出て遊んでいた。県道の向こうで知人と楽しそうに話をしている姿を見て、子供心に母を驚かせてやろうと思った。
僕はスピッツを鎖から外して「行け!」と叫んだ。彼は喜んで走り去り、あっという間に県道を越えて母に飛びついた。母は「キャー」と言って驚いて彼を抱き上げて笑った。知人たちが僕を見て「かっちゃん、駄目だよ、お母さんを驚かせちゃ」と笑いながら言った。
僕は彼が僕の命令を聞いたことに対して満足して、今度は彼を僕の元に呼び戻そうと彼に向かって「戻って来い!」と叫んだ。彼は僕の声を聞いて母の腕の中から飛び出して僕に向かって走って来ようとして、県道に飛び出した。
すると、一瞬、聞いたこともないような恐ろしい叫び声が空気を切り裂いた。同時に金属的なブレーキ音も聞こえた。母と知人たちが県道に向かって何か騒いでいる。近くに走り寄って見ると、真っ白なスピッツの胴が凹んで血溜まりの中にあり、彼の口からは何かが飛び出しているのが見えた。それを見た僕は彼が車に轢かれたことを知った。そして自分の恐ろしい罪に額然となって身体が震えだした。怖くなった僕は自宅の部屋に走り帰って、こたつの中でブルブルと震えていた。
しばらくして、母が帰って来て、こたつの布団を上げて泣きじゃくる僕に「大丈夫だから出て来なさい」と言った。まだ泣き続けている僕を座らせて「あのね、スピッツは車に轢かれて死んじゃったの。お前がわざとやったわけじゃないから仕方のないことなの。おばちゃん達と一緒にみかん箱に入れてお線香を立てて阿武隈川に流してあげたから天国に行けるんだよ」と言って笑った。当時のみかん箱は木製だったから水に浮かんだのだ。
仕事から帰宅した父に母が「スピッツを轢いた人たちは、市内に勤める人たちで、車から出て謝ってくれたの。後からまた来てくれるって言ってたけど、結局来なかったわ」と話した。
僕は今でもスピッツの彼のことを忘れないでいる。時々、彼を思い出しては当時の自分の罪の恐ろしさに後悔することがある。実際に見たわけではないが、彼の骸を入れたみかん箱が線香の煙を纏いながら阿武隈川をゆっくりと流れていく情景を思い浮かべるのである。
6.
朝、僕と父は渡し船に乗って阿武隈川を渡っている。ゆらゆらと揺れ動く船の中から僕の目線と同じくらいの位置の川面には粉々に砕け散った硝子の破片のような光が煌めいている。父は僕の顔をじ頭を撫で、「学校に行ったら先生の言うことをよく聞くんだぞ」と「うん」僕は返事をしたが、僕の頭の中は死んだスピッツのみかん箱が川の中に浮かんでいるのではないかという気持ちでいっぱいだった。そして彼を乗せたみかん箱を目で探しているのだった。
渡し船が対岸に到着すると、父は僕を小学校まで手を引いて歩く。当時の福島市内の情景は記憶にない。学校の前まで来ると父は「じゃあな」と言って頭をこつんと小突いて去って行く。多分、何回かは泣いたこともあっただろうが、その記憶はない。
小学校での記憶は、いくつかあるが、一つは皆が遊んでいるのを隅っこに1人で立って眺めているというものだ。今の自分を客観的に見れば理解できるが、当時から変わった子供だったに違いないから、多分皆に嫌われていたんだろうと思う。腕組みしながら「ふん、僕は君たちとは遊ばないよ」と呟いていた記憶がある。
もう一つは、女の子に関することだ。
僕は未成熟な早熟だったと思う。子供だから何でも自分の思うようになると思っていたのだろう。小学校では、隣に座る女の子が気に入って、機会があれば彼女の近くに擦り寄って行った。彼女は僕をひどく嫌っていたようだった。ある日、僕は同級生の男の子に強く押されて倒された。「この娘はお前を嫌っているから近づくな」というようなことを言いながら、ドラマの正義の味方のように彼女の前に立ちふさがったのだった。彼女も彼を頼もしいと思うような表情で彼を見ていた。
以来、僕には女性に対する勝手な不信感に囚われることになる。
7.
辺りは無音…のようであった。ただ、じっとしているとボンボンという奇妙な音が僕の鼓膜を撃ち続け、意識がすうっと遠ざかる気がした。激しい睡魔に襲われているのだ。
身体は軽く、空気のようで、空を飛んでいるような錯覚に囚われる。しかし、それがただの錯覚であるというのは、バタつく手足に纏わりつく温かく透明な液体の存在によって状況は明らかにされた。
僕はヌルリとしたお湯の中を浮遊しているのだった。目の前には大きな脚が数本生えていて、ゆらゆらと揺れている。どうやらそれは裸の男たちの脚のようだ。
突然、 僕の視界は逆さまになってゴボゴボという音と共にお湯の中から引き上げられた。目の前には裸の男たち数人が見えた。
「大丈夫か?」父親が笑っている。
僕がこの話をすると、まだ生きていた父が「お前は小さい時に岳温泉で溺れて、助けてもらったんだよ」と言って笑うのだった。
8.
僕は福島大学付属小学校を受験した記憶がある。両親も一緒だったが、何だか1人で受験したような印象がある。幼い頃の記憶は全てが夢のようだ。
僕が覚えているのは鉛筆を右と左に分けるという試験だ。右の鉛筆を左側に入れた記憶があるので、多分、逆に入れてしまったのだろう。勿論、試験に受かるはずもない。僕の頭の悪さは生来のものだ。
9.
ある日、僕は母と一緒に市内の映画館で東宝の特撮映画「海底軍艦」を観に行った。この映画は今では僕の大好きな映画のひとつだ。僕の特別な嗜好は幼い時に受けた母親からの影響なのだろう。 しかし、この時の映画の記憶は全くないのだ。映画が海底軍艦であったのがわかったのは、数年後にテレビでこの映画が放送された際に母が「この映画をあんたと一緒に見たのよ」と言ったからだった。
映画が終わると僕は母と一緒に中合デパートに入った。この記憶は曖昧なのだが、僕はエスカレーターを転げ落ちた。僕と母が乗ったはずのエスカレーターが突然止まったのだった。母がどのようにしていたのかは記憶にないが、デパートの店員たちが慌てていたのだけは覚えている。
多分、僕は泣いたのだろう…それを宥めるためなのか、母は食品売り場でフルーツパンを買ってくれた。フルーツパンというのが正しい名称かは知らないが、ドライフルーツがパン生地に練りこまれて丸く焼かれ、その上から液糖がかけられたケーキのようなパンであったような記憶がある。
しかし、お金を払う時に母は慌てていた。レジの女性に「財布がない。さっき、エスカレーターが止まった時、慌てていた隙にスラれたんだわ」と言った。「警察に届けますか?」と言われたのだろう、僕は母と一緒に交番に向かった。しかし、買ってもらったと思ったフルーツパンが返されてしまったので僕はグズって泣きながら母の後を歩いていた。
阿武隈川にかかる橋を渡って家に帰る途中、僕たちは顔なじみの八百屋さんに出会った。その八百屋さんはリアカーを引いて野菜を販売していた。泣きじゃくる僕を見て八百屋さんは「どうしたの?」と聞いた。母は「デパートで財布をスラれちゃって、買ってあげようと思ったパンが買えなくなっちゃったのよ…」と答えると、「それじゃ、ほれ、これをあげるから泣くんじゃない。お母さんが困っちゃうだろ?」と八百屋さんは売り物のバナナを僕と母に1本ずつくれた。僕の記憶の中に初めてバナナが登場した。
10.
僕は母と一緒に自宅アパートの部屋にいる。部屋の中にはもう一人、あるいは数人なのだろうか? 誰かがいる。それが誰であるのかは覚えていない。もしかしたら父なのかもしれないし、来客なのかもしれない、男女の区別も解らない。
僕は部屋の壁を背にして座っている。頭の上に吊るされている男物の背広の上着に猫のようにじゃれついている。
母は楽しそうに話している。僕はそれが面白くないのか、こちらに注目して欲しいのか、「ほらほら」と母に声をかけて上着の袖を引っ張って騒いでいる。その上着は父のスーツの上着のような気もするが、もしかすると、来客の上着なのかもしれない。母と彼らは僕を見て笑っている。僕は母と彼らに注目されたことに満足したのか、立ち上がって「へへへ」と笑いながらごろりと転がってまた上着の袖の中を覗いている。
そこで僕は不思議なものを見た。袖の中の肩の位置から見知らぬ男が僕を見下ろしているのが見えたのだ。それも顔だけでなく肩までが見えた。
洋服の袖と肩はつながっているので、人が肩から覗くことはできない。第一、上着を掛けているハンガーは高い位置にあるので上から覗くことも不可能だ。しかも、袖の中に顔が見えるほどに人の顔は小さくはない。しかし、この時は子供だからそんなことを考えるはずもない。見えるものを不思議に思うのはもう少し年齢を経てからのことだ。
彼は「こんにちは」と呟くような口の動きを見せながら薄気味悪い笑顔で僕を見下ろしているが、子供ゆえにその薄気味悪い顔がひどく滑稽に見えた。僕には微塵の恐怖心もない。「おじさんは誰だい?」僕が言うと、彼は何も言わずにニタニタと笑っているばかりだ。これは誰だろう? 見たことのない男が何者であるのかを確認するために「母ちゃん、ここにおじさんがいるよ」と母に言うと、彼女たちも袖の中の男と同じように無言で僕を見て笑っているのである。
この時の記憶は強烈で、以来、僕の子供の頃の記憶の大きな部分を占めている。僕は今でもアレは何だったのかを考えることがある。母に聞いても「そんなことあったかなぁ?」と笑うばかりだ。
近年、主に関西で「小さなおじさんを見た」という目撃談があるが、もしかしたら共通の妖怪なのかもしれない。
11.
多分、会津若松近くの温泉だと思われる温泉地にある旅館の風呂場の記憶。僕は直径が3m程あるタイル張りの風呂の中にいる。風呂にはライオンのモニュメントがあって、その開けた口から温泉が吹き出している。
僕と一緒にいるのは裸の女性だが、母親ではない。詳しく記憶にはないが若い女性だった。誰だろう? 母に聞いても「わがんね」と面倒くさそうに答えるばかりだ。
12.
父は白い車を購入した。多分、パブリカだったと思う。僕たちはそれに乗って、父の転勤先である青森市に向かうのだった。不思議なのは妹、勢津子の記憶が全くないことだ。母に聞いたら「お前が勢津子をひどくいじめるので、危ないからしばらく一関の姉ちゃんに預けていたんだよ」と言った。危ないというほどに僕は妹を虐待したのだろうか? それが今でも気になるのだ。
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