光が差し、長くとぐろを巻いたそれが蛇ですらない、リンゴから剥き捨てられた皮であったことに彼女は非常に憤慨した。憤慨はすぐに絶望へ変わったが、彼女自身がそう認識することはなかった。ただ己の背後には奈落がある。うっすらと、そんな意識が這い上がってきただけだ。予感に反して振り向かないことは賢い選択と言えたが、しかし、振り向かないのは聡明さのおかげではなかった。聡明。おかげさまで彼女の辞書にはその語句は載っていない。何たるおかげか。ただ、そのうつくしさである。
己がどうして生まれたか、彼女は知らない。知る必要もない。必要がなければ知ろうという動機もなく、よしんば答えが目前にぶら下がっていたとて、それが何なのかと、関心を持つということがなかった。それは彼女の性質だろうか。そうとも言えるだろうし、誰もそうとも言えないだろう。ただ彼女の意識から言えば、彼女はある日突然、眠りから覚めたようにこの世に存在する己を発見した。それから隣の彼女を見つけ、その隣の彼女、その隣の隣の彼女を見つけ――つまりは一面に咲き誇るうつくしい花々を目にした。白くまぶしい光、紅、赤、朱、あるいは桃。
『あら、目覚めたのね』
隣の彼女が囁いた。
『ここはどこ?』
未だぼんやりとした彼女が尋ねると、隣の彼女は笑った。『知る必要はないわ。わたしたちはすぐにここをお暇するのだから』
『どういうこと?』
『そういうことよ』隣の彼女は開ききっていない花びらを伏せるように下を向いた。ドキリとするような妖しさ。花弁の柔らかさ。未熟な花粉が重力に逆らい、落ちまいと、金毛の先にしがみついている。
『いまからわたしたちはわたしたちにふさわしい世界へ行くのよ。選ばれたものだけがこの忌々しい根茎から解き放たれて。愛されるために。わたしたちと同じくらいうつくしいものの中で慈しまれ、生きるために』
なるほど、顔をうつむけた彼女はぞっとし、思わず目をそらした。隣の彼女にも、それから彼女自身にも、そのうつくしい姿からは想像も出来ないほどの汚らしい根茎が伸びていた。紅でも赤でも朱でも、桃ですらないその色。固く筋張っていかにも頑固そう、意地悪そう。それに見てご覧なさい、浅ましくも泥の中にまで潜り込んで水を啜るあの姿! 一体どうしてこんなものがわたしにくっついているの? こんなものからは絶対に解き放たれなければならないと、魂がそう言っている。
『大丈夫よ』
隣の彼女の慰め通り、救い手はすぐにやってくる。人間、彼らの見た目は汚らしい。けれど、その手の銀はまばゆさに満ち、次々に彼女らを穢れから切り離した。解き放たれた喜び、水桶に張られた清潔な水、温室の外の爽やかな空気。うっとおしくも彼女を支える茎葉が伸びているが、いまのところそれは構わない。どのみち、紙に巻かれて見えなくなるのだ。
車の荷台で揺られつつ、隣の隣の彼女を思い出す。彼女はあの醜い根茎と断ち切られることなく、残ったのだ。
『どうしてあの子は一緒に来ないの?』
『咲きすぎたのよ』
同じ花でも時期があるらしい。開ききった花弁より、恥じらうように閉じた蕾がうつくしいのだ。彼女の自信は固くなる。車が止まる。汚い人間がうやうやしく彼女らを運ぶ。透明なガラスの向こう、そこは選ばれたものがさらに選ばれるための場所だ。
そこで彼女は一番に選ばれた。選んだ男は彼女一輪だけを金の巻紙に包ませ、うつくしい女に渡した。うつくしいものを、うつくしいものへ。あるべきものの、あるべき場所へ。そう、このために彼女は生まれたのだ。
彼女を小さな花瓶に挿すと、女は優しく微笑みかけた。
『とても綺麗』
しなやかな、白く長い指が花びらにそっと触れた。柔らかな光がふわりと弾け、愛されることを彼女は知った。愛に溢れた世界。慈しみに満ちた世界。わたしたちがあるべき世界。
彼女は咲いた。凜と、恐れることなく、生き生きと。長い指の女も凜と咲いた。彼女を選んだ男の上で、女の盛りを咲き誇った。幾つか夜が過ぎて、幾つか朝がやってきた。長い指が彼女の茎――無用の長物だ――を摘まみ、小さな箱に収めたのは、その何度目かの朝のことだった。
『さよならね』
優しく、うつくしい女は言った。そして彼女を棺に納め、蓋を閉めた。光は消えた。終わるときを知った彼女は暗闇を静かに受け入れた。始まりがあれば終わりがある。すなわち、さよなら。花びらは萎れ、花粉ははらはらと落ち、大理石のテーブルを汚した。うつくしい時は終わった。ひっそりと、やはりうつくしいままで。
しかし――ここで話は冒頭へ戻る――その静けさをぶち壊すように、投げ入れられたリンゴの皮! 表向きは未だ少女の頬のように赤くいながら、その裏の汚らしいほどの褐色、淡色の果肉が必要とされるものならば、この蛇のように一続きに剥き取られた皮は不必要な、つまりはごみくず。
ごみくず。降って湧いたようなその言葉に、彼女は驚き、憤慨した。絶望の足音に、彼女は決して振り向かない。振り向かないまま、憤慨する。なぜ、どうしてこのわたしが? 愛され、慈しまれて生を閉じるはずのわたしが、なぜこんなごみくずと共に?
畢竟、これはごみ箱なのだ。細かく言えば、生ゴミを入れるための。ごみくずで憤慨する彼女は生ゴミなどという言葉はついぞ意識に浮かばないが(思い浮かべたとすれば卒倒していることだろう)一方、リンゴの皮は平然としている。とぐろを巻いたまま、ごみ箱の底でじっとしている。
再び光が差し――今度は種の部分が放り込まれた。どさり。ごみ箱が揺れ、彼女は気が違ったような悲鳴を上げた。なぜ! どうして! 応える声は、ない。次に焼き魚の頭でも降ってくれば、それが応えてくれるかもしれないが、女は魚など食べただろうか。尾頭付きの魚を? 馬鹿な。先進的な人々がとっくに尾頭付きの肉を食べることを辞めたように、その後に続く後進的なこの国の先進的な人々は尾頭付きの魚など食べはしない。しゃべらない肉、しゃべらない魚、しゃべらない植物だけを人々はその上下の歯で噛み砕く。骨や皮や、固い繊維をごみ箱に投げ捨てる。要らない部分、不必要な部分だけを。
いまや、彼女もそんな風に不必要であるというわけだった。さよなら、そう声をかけてもらっただけが慰めになるだろうか、行き着く先は同じでも。
誰も応えないことを知り、彼女は混乱のうちにも叫ぶことを辞めた。すると、奈落の深さが意識された。生まれた場所のことが思い出された。浅ましく水を啜る根茎のこと。あれらはいまどこにいるだろう? ごみ箱の底? 選ばれなかった隣の隣の彼女はどこ? 咲ききってしまった罪に、ごみ箱の底でどろどろに腐っていった?
その姿を想像すると心は晴れたが、しかしすぐに闇に曇った。あれらの最後がどんなに惨めでも、彼女だっていま惨めなのだ。それで今度は女のことを考えた。あのうつくしい女。あの女は? 人間と花では与えられた時間が違えど、いずれは女もごみ箱行きになるだろうか? うつくしさなど見る影もなく、溶けて腐っていくだろうか。だとすれば、捨てるのは誰だ。女にさよならを言うものは? あの男か。男が彼女を選び、花瓶に生けたように、女は選ばれ、生けられたのだろうか。必要な間だけ。花びらが萎れてしまえば女は不必要なものとなり、そっと棺へと横たえられる。闇の中へ。そこへリンゴの皮が落ちてこなければ、女はまるで知ることはない。そこがどんな場所なのか。愛されたものが眠るにふさわしい場所なのか、それともごみ箱の底なのか。
彼女はぶるりと身震いし――元いた場所に思考を戻した。すなわち、なぜ、どうして。うつくしいわたしが、たくさんの花から選ばれたわたしが、どうしてこんな仕打ちを受けなければならないの?
うつくしさに選ばれたものは、うつくしさに死さねばならぬ。それが運命、当然の帰結だ。それを知らない彼女は、目を背け続ける彼女は、ごみ箱の底で嘆き続ける。リンゴの皮に押し潰され、その種の重さに怯え。いずれ、絶望を知ることになったとして、そのとき彼女に形はあるか。しかし、そのあるなしに関わらず、彼女という存在は彼女のみ、いずれ永遠にこの世界から消えてしまう、これもまた見ようによってはうつくしい定めなのだ。
"【掌編】うつくしい彼女"へのコメント 0件