一言
このお話しは、時代考証もなにもない、また必要ともしない、筆者の、ある場所と時間への憧憬と意の向くままの空想からでた産物である。この産物の出来、不出来はさておいて、その憧憬と空想とは筆者にとって、その空想に於ける色彩の鮮やかなる為に、また印象の強固たるの故をもって、それらは筆者の実生活と同等程度の、あるいはそれ以上の価値を有しているのではあるまいか、と筆者自身考える。
傾城傾国に咎なし、通いたまうまろうどにこそ罪あり 吉田兼好
猫ありてその目に人の罪うかがう 筆者
ゆんべは血の色、女の色、男さまよう世の中、夜中の闇色、墨色、空には月。紅い布団にゃお女郎さん。ゆんべ遊んだ男、目覚めてなつかし、かなしや女の涙色、闇を明けるよ、靄った薄闇色から、烏ガアガアきぬぎぬの、鐘ゴオンゴオン、その色は、確かにゆんべであった夜も、いままさに明けなんとす。そして暁。座敷の隅に捨て置かれた胚盤狼藉、射し込む朝日、その朱塗の碗に照る。
猫女郎
昔の話である。
花の都の北のはずれに大きな廓があった。当時、数ある色街の中でも遊びの本場と謳われた里である。遊女三千御免の場所、などとも云われた。女がたくさんいたのである。妓楼がそこらじゅうひしめきあって、規模も大小さまざまであった。それら店の、通りに面した座敷には格子が嵌められ、中には女がずらっと並び、それぞれ煙草盆を前にして座って、格子の外の客を誘うのに手にした煙管をさかんに差し出した。美しいのもあれば、そうでないのもあった。店に揚がった客が一言、上から三番目の煙草盆を引いてくれろと言うと、煙草盆と一緒に女も上がってくる。そんな悲しい仕掛けであった。
一軒、二本松楼という女郎屋があった。その家がいっときたいへんに繁盛した。雪音という花魁がお職を張っており、たいそう美しかったからである。雪音はいわゆる道中をもした。大門通りを通過する際にはみなが見惚れて嘆息した。
初夏の頃、朝靄にけぶった中庭に花魁は立っていた。このごろ日課となった朝顔見舞い、いつになく目じりをきりりとあげて毎朝愛でた花の茎をへし折った。その時雪音の部屋に寝ていた客がむっくり起きて、言った。
「おばさん、花魁《おいらん》が戻ってこないがね」
「まぁまぁお大尽、すぐに参りますから」遣りてがなだめた。
金子にものを言わす旦那衆が雪音は心底嫌いであった。けれども大枚はたくお客あっての身の上でありまた繁盛でもあった。歯がゆい思いをした。
雪音は幼い頃に売られた廓育ちの妓である。火事に家を焼かれ、稼ぎの少ない父親は六つの雪音を廓に売った。はじめはそこに投げこまれた鞠のようであった。ぐるり取り巻く大人たちの足下を朝な夕なに転々とした。働きずくであった。他の禿との意地の張り合いにも骨がおれた。逃げ出したいのを堪えていたのは、いつかきっとおとっさんが迎えに来てくれる、それを信じていたからである。ある日、小さな背中を欄干にもたせ夕焼けを眺めていた。
「なにぼんやりしてんだい。誰も迎えになどくるもんかね。せいぜい借りにくるのが関の山さ」遣り手はぞんざいに言葉を投げた。
十七の春に見世に出た。初めての事だらけに恐怖した。足の冷えと空腹と閨の臭気に絶望をした。苦界、という概念を肌身でもって理解した。けれどもそれから一年たつかたたぬうち、幼時から廓の水で磨かれた身なればこそか天分の故か、めきめきとその道の腕をあげ、二本松楼第一等の花魁、身も心も一端の女郎に成り下がった、否、成り上がった、のである。それからは務めて冷淡に日を送り、そして迎えた。夕暮れ、今や婀娜めいた背中を欄干にもたせ、軒端をつたう烏を見ながら物思いをした。おぼろな記憶を胸中に探るとそこには父親の体温とその匂いとがあった。
水揚げから三年を経た。中庭の虫たちがしきりに鳴きはじめた頃、雪音に小さい馴染みができた。ふいにこの家を訪れた虎猫が、雪音の膝の上に居着いたのである。
「どこからまよいこんだもんですか、お客の手前もあり、はやくにうっちゃっておくんなさいよ」遣り手はへりくだった。雪音の威勢を畏れていた。時々は小遣い銭など受け取っていたのである。
取巻きの中にあってなお淋しかった雪音は、この雄猫の孤独を敏感に察知した。「テツ」と名ずけた。これは父親の名の一字から採ったそうである。雪音の父親はこの里から十里ほど隔たった漁村で漁師をしていたが、女房が雪音を産んですぐに死に、雪音は叔母の手に預けられ、にょうぼこ同時に奪われ落胆を酒で紛らすなかに遊びを重ねた父親は次第におちぶれ、火事に住処を焼かれた時には男一匹、泣く泣く娘を売るよりほか手だてがなかった。自分自身に失望した。若い時分に拵えた借財も少なくはなかったのである。その金の貸主と、貸主が同伴した人買いとで、焼け残った跡を簡易に修復した家の一間で談合をした。人買いが持参した酒を勧められ、それに手をつけるやいなや貸主がこう言った。
「お前さんも男なら、一人前になろうとするじゃ。船を持つなりなんなりして。元金の全額こっちでもろうて、それでもこんだけ残るでな」貸主ははじいた算盤を見せて、
「利息はまけておく。娘の支度金にでもせえ」
父親は判を押した。それから数日間、酒をのんでは荒れ狂った。娘をもっていかれる朝、人買いに手をひかれ戸口に立つ幼い娘に背を向けて、父親はそれでも呑みながら肩をふるわせていた。雪音はその背中をわすれずにいる。あたしがいけない子だからおとっつぁんが悲しんでいる、子供ながらにそう思った。父親は名を鉄次といった。
テツはやがて雪音の、奥の一間に養われた。雪音はテツに客の食い残しを与えたほか、かつ節をあたえた。干菓子を砕いてお湯に浸したものをあたえた。テツはテツで、雪音の従者をもって自ら任ずるふうであった。雪音の視界には常にテツの姿がある。テツの視界にもいつも雪音の姿があった。数多の客の中でも、本部屋に通される者は常に二、三に限られていた。その数少ない客はどれも金太りに太り、雪音の躰にしつこくまとわり付いた。その様をチラと見て、テツは部屋の端から端をうろうろした。
あの女郎は猫を溺愛するばかりではない、閨ではまことの猫になる。廓の女郎衆は多少のやっかみをもって雪音を猫女郎と仇名した。また云う、御猫女郎の首の菩々。菩々とは女性器をさす隠語である。雪音の喉元にはうす赤い痣があった。
日が沈んで火が灯る。大門通りから狭い路地へかけて、廓内はぼっと霞んで、三味と鼓の音に見世の者の声が加勢した。否が応でも廓は男を引き寄せる。女はそこに撒かれた餌食であった。男は金と引き換えに女体を己の自由にした。客はどれも同じであった。どんなに様子がよかろうと、金があろうとなかろうと、一枚皮をめくれば、剥き出しの欲望でもって女に迫った。そこへ虫のいい男の嘘が重なりもした。狐にも例えられる女郎衆も、勤めの身のつらさから男の真情に絆され、また時には傷つくこともあった。手練手管とはそうしたものか、男を厭えば厭うほど客は夢中になった。客は金の続くかぎり、どこまでも女の体を欲した。その不快を雪音は身内に飼い慣らし、体は疲れ果てても常に心は平気でいた。しんどいのは、客に接してのさしあたっての嫌悪よりも、患うことへの不安であり、疲労と寝不足との苦痛であった。雪音は自ら進んで猫であろうとして、男はその姿に狂いそこへ精を吐きだした。
おなじく二本松楼の抱えで、雪音と艶を競った朋輩に菊里《きくざと》という女郎がある。この女もまた、里に暮らす者の例に違わず、細い肩になにがしの不幸を乗せた女であった。嫋嫋《じょうじょう》たるその姿に、お職である雪音の向こうを張ってなおあまりある色香を湛えたが、それでも菊里は常に二枚目に甘んじた。雪音が有していて、菊里が有し得ないものは何であるか、嫌という程おんなを見てきた楼主にもはっきり判別がつかなかった。里に生まれ育った二代目主人は欲にまみれて廓を生きた男である。
お職にはおのずと同じ妓楼に暮らす者の視線が集まった。なかに菊里の雪音に注がれるそれだけが質を異にしていた。紅の女郎衆を、真夏の陽射しがかっと照らせば、廓は女の汗の匂いに満ちた。菊里付きの梅という禿と他所の禿とが、水を張ったたらいにテツを沈めていた。中庭で水を使っていた子供らに、菊里がけしかけたのである。
「猫も暑かろう。たらいに泳がせてあげなんし」
虐待である。水面を上下にテツはバシャバシャあえいでいた。菊里が起ったあと、そこからテツを救い出した雪音の妹分が、その足で雪音の元へ駆け込んだ。テツはよろめきながら縁のしたへ潜ったのである。
「なんだい、騒々しい」団扇を使っていた。
「姉さん、テツが、」
ぴたと手を止め、雪音は眉をひそめた。
あくる日、梅を呼びつけ、無理に其の手をとって焼けた火箸を近付けると、梅は恐怖に目をみはり、体をこわばらせた。木々の間にじりじりと油蝉が鳴いていた。
「菊里さんに言いなんし。今度ばかりは許してもらいいしたと」
雪音がその手を放し火箸を元に戻すと、梅はその場で泣きじゃくり失禁した。その小さな手はかろうじて難を逃れたのである。さらに雪音は、色仕掛けにからめとって菊里の馴染み客をも奪い取った。
ほかの妓《き》の客を奪うという所作は廓の掟に反していた。お職である雪音に折檻こそ加えられなかったものの、幾日かの謹慎と少なからぬ額の罰金とが課せられた。雪音が薄暗い夜具部屋にその手を縛られてあった間、菊里は仕返しの策を講じた。そうだ、あの猫を殺せばいい。
「雪音花魁とこの馴染みはみな醜男ばかりでありいすは」言い放ち、
「緑や、あの猫を捕まえてきなんし」語尾が震えるほど心が乱れていた。
緑という禿にテツの捕獲を命じた。緑は子供ながらにしゃんとなった。そして駆け出した。日が僅かに西へずれた。蝉の鳴き声を浴び、一時、緑とテツはもみあった。両者ともに必死である。テツの鶏の鳴き声に似た叫びがこだました。そのあとすっと静かになった。すんでのところで逃れたテツがこの家に帰ったのは、それから三日後、雪音が戒めを解かれた晩のあくる朝である。陽のさしはじめた部屋の前の廊下に、気配を認めた雪音がすっと襖を引くと、テツはするすると忍びこんで火鉢の下で丸くなった。雪音が肩越しにみかえって視線を注ぐと、テツも振り返り見迎えた。
絵師
春。確かに暖かなのはなによりではあるけれども、けだるい温気がもやもやと躰にまとわりついて、ややもするとその人をして無理にも堕落せしむるという季節では、ある。その陽気ばかりにそそのかされたにしては幾分入ったかほろ酔いの、ふらふらとして大門をくぐった二人連れの遊客があった。どこやら遊びなれた風情に、成りはどこぞの色町を舞台にした芝居から抜けでたようだと言って言えなくもない。先行く年かさの男から二三歩遅れで、懐手の、いま咳払いをひとつしたのが、これがこれから雪音を相方にすることになるという男で、名を春蔵といった。
年かさの男が春蔵を見かえって、
「春公、いいか、こっから先は暫時浮世を忘れるんだ。な、一晩ゆっくり遊んで、それからようく考えてみな。どこへ落ちたって花は咲く。そう思って、な、平気にしていなくちゃいけねえよ」
言葉には情が籠っているようでもあったが、この男の心は女の元へと急ぐのである。春蔵はただ、へえと答えた。
ふたりはともに、この廓の所在する町では名のしれた高輪某という絵師の門弟である。近頃、訳あって春蔵が破門せられ、止むを得ず寄寓した先の一間にこもり切りでいるのを、見兼ねた兄弟子が難儀をしてここまで連れ出した。この弟分おもいの男は名を慎太郎といった。春蔵の為、世話をやこうとしてやいたのではあるが、大門が見えた頃には己の愉楽の方が目的の上位を占めてあるのに気が付いて、それを揉み消すようにいま春蔵へ言葉を投げたのである。
春蔵の破門せられた経緯というのはこうである。春蔵が師である高輪と犬猿の仲にあった大家のところへ出入りする者と親しく交わり、その大家の技術だか技法だかを密かに盗もうとした。無論、高輪一門と春蔵自身との発展の為にである。ところが、この画策がわずかの間隙から露呈して、高輪の知るところとなりその逆鱗に触れた。確かに春蔵にも言い分はあったのだが、自身の腕にたのむところ甚大なる高輪は、この計らいを潔しとはしないで有無を言わさず春蔵を寒空の下へ放りだした。
春蔵が高輪の門に入ったのはこれより十年程前、春蔵が十五の歳である。親の顔を知らぬ春蔵は、幼い頃から世間の塵風にまみれ、育った。流れ流され行き着いたのが高輪の軒先で、乞食同然の姿の春蔵に高輪は言った。
「小僧寒いか。働く気があるんなら拾ってやろう」酒気が手伝ってもいた。
木枯しの夜である。藁をもつかむ思いであった。次の日から下働きが始まり、人並みの扱いはされなかったが、三度の飯は与えられ、これまでのように飢えに耐えることもなかった。高輪もまた若い時分から苦労を重ねた男である。そのうちに春蔵に眠っていた才を高輪が見出した。手先が器用で、線のひきかたひとつからしてほかの門弟とは違っていた。見込みがあると言うのである。高輪は春蔵に目をかけ、それからは水を得た魚、初めて人間の情を知った春蔵は高輪を父とも思い、精進を積み才をみがいて、入門三年ののちには、高輪門下無二の俊才、同職者の間にはその名も聞こえ、その仕事にはわずかではあったが報酬も与えられたのである。
それから二年経ち三年経ち、以前よりも間近に高輪に接するようになった春蔵は、師の仕事を助けまた自身の仕事の幅をも次第に広くした。やがて、高輪のごく近くに身を置いた春蔵に疑念が生じた。幼時から、いやでも大人の心の内側を見通さなければ生きてこられなかった春蔵である。親方は仕事の出来栄えに意を尽くすより先に、その仕事によって得られる金の勘定に心を砕いている。敢えて出向かずともよい客先へ出向くにあたって、敢えてせずともよい身なりの選定に心を悩ませている。かつて遠くにあった高輪の姿と心中の理想とを同一に見ていた春蔵は、現実の高輪がその理想から隔たっていくのが残念でならない。その残念が葛藤を生んだ。これまで高輪を父と畏れていた心と、金になびき権威に媚びる高輪を蔑む心とに起こる葛藤である。手本にしてきた高輪の描くものことごとくが子供騙しに思えてくる。春蔵は高輪の仕事を否定するようになった。どうしたってこのままではいけない。月日を経たその葛藤が反発に変じて程なく春蔵は破門せられた。
その頃春蔵の仕事にも高い値がつくこともあって、そろそろ一本立ちを、という時節であった。
この一件に心を痛めたのは他ならぬ慎太郎である。じきに四十に届くかあるいは過ぎたかという歳で、未だその一本立ちの出来ずにいた慎太郎は、陰で老玄関番あるいは老中と呼ばれた。高輪家にあって歳数における一番弟子のこの老中は、師の機嫌をとりまた師の右腕となって、課せられた義務でもあったが他の弟子たちの面倒をもよくみた。
はじめ高輪の家に入った春蔵はまず、慎太郎の使う一間に慎太郎とともに寝起きした。そこで慎太郎はこの家に暮らす作法を教えた。辺りの人と物とを警戒してほとんどものを言わないのに手をやいたが、草のように痩せ細った春蔵を哀れに思い、ぞんざいに扱いながらも情をかけると、しだいに春蔵は心を開き、やがては慎太郎を兄と甘えた。慎太郎の人に接するのに懇篤なるのは、この人の特質の筆頭に上がる。絵師としての技量よりもこの性質を高輪に見込まれた慎太郎は、高輪家の外交全般を担い、若い頃から託されその手腕を発揮した。一方の春蔵はといえば職人気質の付き合い下手で、世事に疎く交渉ごとなどには不得手である。二人はお互いの短所を補った。さほど大がかりでない仕事の仕上げを、時々慎太郎は任される事がある。その時も細部に線を入れるのに筆をとった。すると手先が震えて仕方がない。それからは親方たのまれの仕事にあたるに際しては必ずこの発作が起こった。腕の鈍いことへの自覚と、高輪への畏怖からくる仕事を全うしようとする過度の責任とが、慎太郎の神経に作用したのである。もがけばもがく程発作は強まった。以後のたのまれ仕事で慎太郎が筆を入れたという全てのものは、実は春蔵が肩代わりしたものであった。
逢瀬
すっかり日が落ちると、廓うちは俄かに賑わいはじめた。一人の遊客として他客に混じり、路地を過ぎ路地を抜けて春蔵は雪音と対峙した。座敷に雪音が訪れたとき、春蔵はその衣擦れの音を聞いた。しきたりに沿った挨拶が済んだ後、雪音の部屋に通され座に着くと、火鉢の陰から一匹の猫が伸び上がりこちらを向いてニャアと鳴いた。高輪の絵に、これとよく似た猫が描かれてあるのを春蔵は思い出した。縞の太い、手足の白い虎猫である。春蔵は猫を抱き上げ顔を寄せ、しばらくその目をじっと見たまま、
「雄猫か。ただで登楼る放蕩猫だ」
「テツ、ここへきなんし」
テツは春蔵の手から逃れるようにして、すばやく雪音の背後へ身を隠した。躰を捻じって雪音がテツの背に手を置いたその時、白く粧った雪音の喉に、隠されてあるものの存在を春蔵は認めた。
それは雪音の喉元を斜めに縦断した、二寸程の細長い楕円の赤痣である。物心つく頃からことあるごとにこの疵は雪音を悩ませた。これあるがために、真にこころが晴れるということがない。明かりを採るのに、雪音の心は常に磨り硝子越しの光線を採取するのである。幸い、長じるに従い赤痣の色味は薄らいで、粧いを施しさへすれば喉元の疵に着意する者はなかった。が、この疵を雪音はどんな客にも引け目に感じ、初会の客と対座するときには自分の身を一段低いところに置いて、肩を並べるために身構えながらもけなげな努力を惜しまなかった。じかに肌を売る女郎の宿命である。客はそれを自分への好意であるかのように錯覚した。客が疵を意にかけないのを認めてはじめて安心を得て、雪音はより大胆に客を喜ばせるのである。もとからなかった懸念を敢えて思い設けて、ある日それが解消せられたといって嬉しがるのにひどく似ていた。この不健全とも言える循環が雪音の女郎を規定した。疵がその持ち主である女を一人前の花魁に仕立て上げたのである。
一瞬間喉に注がれた春蔵の視線を、雪音は見逃さなかった。動揺を春蔵に悟られまいとした。春蔵はただ疵があるなと思っただけである。数刻後、二人が行灯の薄明りに包まれた時、春蔵は雪音が隠そうとした箇所に俄かに情欲を煽られ、かつて見ぬ肉親のぬくもりをそこに探した。かたや雪音の瞳は猫の目の光りを帯びて、春蔵の頸筋をかすめて天井を射た。テツはいつの間にか部屋を出ていた。
その夜を境に春蔵は、日をめくり月をまたいでは、しばしば雪音の元に遊んだ。
ある夜。春蔵の顔を見た途端、雪音の心は寂寞に駆られた。空模様もよろしくなかった。雨を風が煽っていた。戸障子ががたがた鳴っていた。突然、
「あっちは代物でありいすは。煙管、茶箪笥、鼻紙、草履。おんなじ品物でありいすよ。箪笥も煙管もそれに見合った金子で買われた代物でござりいす。あちきの父さんは借金の形にあちきを売りなしたんだといつかこの屋の主がおっせいした。父さんも生きるに必死だったでござんしょう。恨んでなどおりいせん。久しく会わない間に顔も忘れえしたは。猫でも売られることはありいせんのに」
「よしなよ」と言った語調を改め、静かに、
「切ないのはおめえさんだけじゃねえや」
春蔵は雪音の気弱な姿を見たくなかった。
それから数日を経た。
「ちょいとすまねえ、筆を貸してくんねえ」居続けをした春蔵の声はかすれていた。
雪音が禿に言いつけ硯箱を持ってこさせると、春蔵は懐から半紙を取り出し筆を走らせた。非常な速度である。三枚五枚と書き上げる。真剣である。そんな日が続いた。見るとテツの姿かたちが正確に描かれてあるが、その場にテツがいないこともあれば、いても春蔵の視線はテツを追わない。雪音は黙って見ていた。枚数がまとまればそれを持ち帰り、あらたに描き起こした数枚を慎太郎に手渡す。慎太郎は高輪家における立場上、ある版元と心安くしておりそこへ掛け合って、春蔵の描いたものを金子に変換して春蔵に届けるのである。猫を仕上げてしまうと、次は女を描く。女の次は廓である。廓のうち外を描いた。
ふたつ、みっつと季節が変わった。春蔵は金を要した。月日を追うごとに、春蔵が雪音を訪わないでいる日数が少なくなった。勘定に金が追いつかなくなる。以前から高輪の縁故で貸してくれていた金貸しから借金をする。しかし春蔵が破門せられたのを知ってからのちは、その金貸しも次第に貸し渋るようになった。止むを得ず、ときには雪音が身あがりをして春蔵を招き入れたが、常にという訳にもいかなかった。そこで春蔵は慎太郎を頼って煩く画を売るのである。恋であるのか欲であるのか。まさか仕事の材を得るために廓通いをするのではあるまい。春蔵は自問自答した。いずれにもせよ雪音の元へ惹きつけられるのだけは確かであった。やがてそれらの金策にも限界が来た。
これまでにも度々、春蔵にも酒やら女やらのあそびもあったが、元来が勤勉な質であるから、近頃の足繁く雪音のもとへ通うについて訝った慎太郎が意見した。例の、画を売った金を懐にして、春蔵の仮の寝ぐらを訪ねたとき、煙管をもちながら、
「度を越しちゃいけねえ、損をするのはおめえのほうだ、化かし合いで女郎になど勝てるもんか、な、ふかみにはまらねえうちに」
春蔵がさえぎる。
「なに、だいじょぶでさ。あすこに一匹、猫がありましょ。どこの馬の骨だか、おまんまにありつく為なら己も他人もみさかいのない、馬でも犬でもいずれ畜生にはちげえねぇ、高輪門下不肖の春公とやらと同類でさ。それでも猫を膝に抱いて、その目を見ながら女が言いましたっけ。猫てぇのは決して嘘を言わないもんだと」
春蔵は笑みを含み、
「ふん、嘘をつく猫があるもんかい。そうあっしが言ったらね」
間をおいて、
「なんと言ったい」
「まっすぐこっちをみて、目で嘘言うお方がここにもどこにも仰山おあんなさいます、ってこう言うんだ。そりゃあちきも女郎の端くれ、嘘でも言わない日には生きてさえいかれないんでござりいすから、人様のこたあとやこう言えたもんじゃござりいせんが、まったくお素人さんや男さんの嘘というのは、あちきら女郎の嘘に比べてほんに芸の行き届いたもんでござりいすよ。と言ってまた猫の目を見た。驚いたね」
「何が」
「何がって兄さん、兄さんの前ですがね、素人や男さんの嘘がここにもどこにもと言うんですぜ。はっきりそう言ったです。おれっちにしたって、兄さんにしたってそりゃある程度は詐欺師にゃちげえはねえですが、確かに世間じゃべらぼうなのがありますから。ねえ兄さん」
「何だい」
「親方の描くものなんざ、そっから嘘を取り外したらほかには何にも残らない。それだけ立派だってえこってさ」
「滅多なこと言うもんじゃねえっ」
と言って慎太郎は煙管を灰吹にとんと叩いた。
離れの縁側の側にある柿の木が、いつのまにか赤い実をつけたそんな折、テツの姿がみえなくなった。雪音付きの禿、新造、総出で二階屋の隅から隅まで捜索を試みたが、その影すらみあたらなかった。常時、雪音のそばを離れず、客が許せば閨中までをも伴をしたテツの姿がみえなくなった。たかが猫、心配いりいせん。そう言ってから、雪音はからだの力が抜ける思いがした。
雪音と春蔵の間柄はのっぴきならないものとなった。狭い町中のことである。高輪の愛弟子についての悪い噂がたった。恋路か遊蕩か、その、春蔵の噂が高輪の耳にも入った。ただちに慎太郎を呼びつけた。
「ことに付け恩を仇で返しやがる、連れ戻せ!性根を叩き直してくれよう」
慎太郎はひたすらかしこまって踵を返し、春蔵を訪ねふたたびの意見に及んだ。いくぶん遠回しの言い方をした。その物言いが春蔵を不快にさせた。
「ちったぁほっといてくれねぇかな」
今度は慎太郎が憤慨して、
「やい、親方の情が解らんか」といって平手を張った。慎太郎が春蔵に対し怒りをあらわにしたのは初めての事であった。
相対死
「おくにからでござりいす」
ある朝、隣部屋の禿が便りを持ちきたった。
雪音は背中に冷や水を浴びた気がした。父親の死の知らせであった。酒に精神を蝕まれた鉄次は、自ら命を絶ったというのである。
それからひと月の間、雪音は勤めに我が身を忘れた。客の体にしがみつき溺れた。男の体であればどれでもよかった。春蔵もその中の一人である。そして雪音はこれまでにない深い快楽を知った。ある明け方夢を見た。真夏の、陽の暮れがたでもあろうか、いっときの夕立ちのあと、幼い頃の姿に戻った雪音は廓なかから大門をさして、鉄次に手をひかれていた。雪音は問うた。
「あたしここから出られるの?」
鉄次はそれに応えず、
「金欲しさにな、俺がお前を売ったんだ」
大門外へ行かれるのが嬉しいのではない、父親に添うて歩くのが嬉しかった。
その頃のこと、
「猫はどうしたい」
「いなくなりいした」
「色でもできたろう」
「ゆんべ血を吐きいした。あちきと死んでくれえすか」
新造が盗み聴きをしていた。
「夜はお客がお上がりなんして、朝、お帰りになりいす。毎夜同じ繰り返しで、何の為の勤めやら、いったい誰の得になるのやら」そこで区切って、
「まわりの者は死んでいきなんす。あちきの姉さんは、病で、女の、そのお道具の所から腐りはじめて、後は身動きできずに寝込んで、御身の姿、気に病んで、鳥屋でくびれて逝きなした。優しい姉さんでありいしたのに。鳥屋に入る前に、子どものあちきを枕元に呼んで言いなした、一言、辛抱しなんし。あちきは姉さんの声が哀れで、声が哀れで泣きいした」いい淀み、
「先だってあちきのとうさんも死になした。一人で死んで行きなしたそうでありいす。いつかぬしがおっせいした天涯孤独と申すのでありんしょう、あちきもぬしと同じ身の上になりいした」
その目も虚ろになり、髷から簪を引き抜いては長火鉢の中へ射しこみ、さらに櫛、笄をばらばらとその上へ放りだした。それから立ち上がりふらふらとして、乱れた髪の、そのままに抽斗から茶菓をとりだしそれを口に押し込んで、涙ぐみ、
「明日もまた陽が上りましょうが、ほんにどうでもようなりいしたは。陽が上らんけりゃ、どなたも生きてはいけますまい。ぬしはどこへ行きなんすか」
「…」
雪音は、どこへ行きなんすか、を繰り返した。
また桜が咲いた。テツは戻らなかった。雪音、春蔵、出逢った春から数えて三つ目、ふたりは互いを黄泉路への伴侶とみさだめた。そして、生暖かい風吹く深夜、廓の空へとたびだった。
細かい雨が降り出していた。雨は廓の灯をいっそう色濃くする。その灯が、どこともしれぬ路地の隅、猛ったテツを赤く照らしだした。雌猫の嬌声が、辺りに響いていた。
時は迫った。死という概念を動物は持たぬものらしい。猫は決してその死にざまを人にみせぬという。そして昔の侍は、自刃の際みずからの腹を左から右にきりつけ、それへ手をいれはらわたを掴みだしたという。
ふたりは夜具の中に潜り込み、裸でよりそい頷きあった。男は片手で女の乳房をつかみ、女は男のくちびるを求めた。春蔵はためらわず雪音の痣の部分へ刃をあてがい、雪音もまた別の一丁を手にしていた。
ひい、ふう、み
かみそりでもって互いの喉笛かっきった。一瞬のち、短い叫びが響くと同時に血飛沫があがる。次第に店の者、女郎衆が集まるいっときの騒ぎがあった明くる朝明けぬまに、ふたつの亡骸は運び出され、近くの寺に投げ込まれた。寺では死んだ遊女が運ばれてくるのを予期して、あらかじめ穴を掘ってある。その時そこには先客があって、遊女のそれと禿らしいそれとの二体の骸が折り重なっていた。雪音と春蔵の屍はその上に無造作に投げだされた。
雀の鳴き声がして、廓にはいつもの朝がきた。
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