第四章

ニュー・ハートシェイプトボックス(第5話)

多宇加世

小説

8,299文字

 人類が病気と初めて向き合ったのが「水」。雄大に地球を循環するこの「水」からできるだけ多くの恵みを得るため、人類は巨大な水のアレルギーに対してどう向き合い、それをどう克服していったのか、人は知るべきである。しかし、便利さを求めることが医療の巨大化を招き、結果として生死の循環サイクルを寸断してしまうことが分かった。「寸断することなく向こう岸へ渡りたい」という未知の世界への願望は、臨死体験とも通ずるものがあり、天へと上昇し、光り輝く知恵の輪、そして「イルカちゃんのフラフープ」をも潜り抜けたという体験談がある一方で、なによりもいえるのは、此岸から泳いで渡れそうな、一面花畑の彼岸までの清流の横断。こう考えても、やはり生き死にを左右する医療の現場には「水」が関係してくるのである。:「イルカのフラフープ」社・社史
(テーラード・ジャケットを着て、めかしこんだ男が二人以上いたら大体こんな話で盛り上がる。女の人が二人いてどんな話になるのかは知らないけれど。共通しているのは男女それぞれ、ここではお洒落をして入院して、治療を受けているってことだけども)

「引き裂かれた明るい小説作法」

 

僕の気分は朝から沈んでいた(部屋から出たところで(同じく後ろ手に部屋の扉を閉めるSさんと(廊下で鉢合わせしたので(僕は気分のことについて軽く述べた(種明かしを軽く掴みそこねている手品ショーの客のような態度で疑問をぶっつけてみた(すると会話は割とよく弾んだ

「あなた、それは気圧かもしれません」

気圧?」

脳内酸素濃度の変化で、君のような、失敬、私らのような病人の微細な容態はくるくるするのですよ」ティキティキ。さらに続けざまにSさん:「低気圧にまつわる作品群、映画や本、そこから沢山のピースを揃えて組み立てようとした私の兄がよく言っていたのは、架空の低気圧に気をつけろということでした。低気圧。つまり周囲より気圧の低いところで、……まあ今の私たちには外の様子は知るすべがありませんが、おそらく豆低気圧と呼ばれる台風の一種のなかに我々のこの船は入ったのかも知れません。範囲は一〇〇kmほど、ごく小さいのですが突如、情報もないまま……。いえ、今のは言い方がまずかったですね。誤解を避けるためもう一度述べますと、これは外の様子を知らない私たちだけが天気情報を持っていないというだけでなく、逐一、天候の様子をよく観察しているはずのすべての船乗り達も、この豆低気圧の存在を予期することはできないという意味なんです」

僕:「豆低気圧は本当に存在するのですか?(病気からくるSさんの妄想ではないんですか、という意味合いをなるべく削ったいいかたで)」ティキティキ。Sさん:「勿論です。私たちが今、サマー・ジャケットだけで厚着をせず乗り切っているということを考えると、おそらくシベリア低気圧ではないようですが……。といってもここではずっと、今、外で雨が降っているのか快晴なのか、はたまた雹、霰模様なのかもわからないようになっていて、内部は快適な室温、密室空間なのですがね。快適。私たちを包んでいるのですから。……なんでしたっけ、豆低気圧が本当に存在? まず、いえるのは私の兄は死の直前に、豆低気圧発見しました。それも、ミルクの空になったコーヒーカップのなかにです。疑り深いあなたは、おや? 今気づかれましたか? 船が……」

 

「ええ、今もまだ少し揺れて……」

「ええ。もしかしたら豆低気圧でなく、突風かも知れない」

「とっぷう……」

「そうです。これは寒冷前線が通過するときに多発する」

「豆低気圧でなく、というわけですか?」

「答えがでましたね……」

(僕はそれを聞き、首をわずかに傾げる)

微笑んでS:「実は、突風の起こるときというのは、やはり気圧が下がるのです」

 

「……その観点からしてやはり、あなたの今の体調の変化、悪化の原因は気圧です」

「ありがとうございます。少し不安な気持ちが飛んだようです」

「そうですか。それはよかった。私がお役に立てたということで。ところで、飛んだというのは、苦悩の見事な破壊の仕方に適したいい表現ですね。破壊された答えが複雑であればあるほど、吹っ飛び方の威力は果てしないものです。というのも、悩みというのは本来、ほんのわずかな苦悩の種が様々な場所で同時多発的に発生して、絡まりあって複雑に起こるものですからね。悩みは本来、いくつかの苦悩の種、きっかけの中間地点に産まれるものなのです。そこはガス漂う危険な苦悩地帯ですから、その中間地点をいきなり打破しようとしても無駄です。なぜなら種・要素のほうからことを進めねばならないからです。ここまではお判りでしょうか? 病人向けラジオ相談などで、悩みを抱えた依頼者が当初話していたところから、相談員がそれとなく水を向けるとだんだんと、遠い親戚に昔言われた一言や、子供の金銭面、またそれとは別に愛犬の死に目に立ち会えなかったことやなんかが、その依頼者の中で絡まり合って、巡り巡って夫への不信感に繋がっていたと判明するなんてことを、あなたも一度や二度聞いたことがあるはずです。悩みをいきなり中間地点の絡まり合いから攻めたって駄目なわけですね。それは本人の中心において絡まり合っているから。それは例えばこうして長い間、船の中に幽閉されている私の中の苦悩の言葉の一つに、山火事というのがあるのと一緒なのです。もちろんこれは例えであり、妄想ですが、山火事は私の心に根付いて表面化した苦悩なのです。山火事というのは本当に例えですがね。でも私はそう思えてなりません。この山火事という苦悩のイメージを「私はどうすればこの船から降りられるか」ということと、その一方で、「部屋のトイレを長く掃除することなく使用するにはどうしたらいいか」という真逆の別々の事(苦悩の種が様々な場所で同時多発的に発生して絡み合い、です)を、それぞれ本来なら私は一本ずつ元を断っていくしかなった状況だったのです。中間地点で絡まり合っているのをほどくのは難しいからです。それよりもきっかけを見定めてそれを無くすことで、伸びた蔦の大元を断てるのです。ワンペアあるいはツーペア、またはフルハウスの絡み合い問題が、気づかぬうちに、苦悩させるからです。突拍子もありませんが、大海のど真ん中にいる私にとって、火の元も、山自体も身近でない私にとって、山火事こそが悩みなのです。ところが、憂鬱、暗澹、混乱を呼び起こしてノイローゼ化し、それらの物事の現状をあなたの言う通り吹っ飛ばして、なんとか明らかにした時に、そう、あなたのいう吹っ飛んだ時に得たのです。あなたのおしゃった、吹っ飛んだ。吹っ飛んで。飛び飛び! そのいくつかの中間点に、船の旅のさなかの、山火事を、吹っ飛びです」

少々困惑、僕:「さあ、どうでしょう……。正直、僕には意味が分かりません。それに、僕は吹っ飛んだとは言っていません……。ですが、その地点に産み落とされたイメージ、ええ、その山火事の鎮火を促したいくつかの点の消失は、Sさんを満足させたのでしょうか? その……、不安な気持ちが解消されたでしょうか? でもやっぱり僕には意味が少しよく分かりません……」

意外にも顔をぱっと明るくさせてSさん:「それは当然なのです。閃きそのまま語ることで、そのイメージ嬰児Ageを重ね、健康でいられ、また病気一つせず、我々のように船にこうして乗せられ続けることなく、清らかに光り輝き続けるのですから。結論をいってしまいますと、突如生まれるイメージ、単語は、悩みの解消と同等の満足感新鮮な視界を与えてくれますよ」

僕には意味が分からなかった(確かに僕の不安は少し飛んだけれど、Sさんの言う通りに中間地点からイメージは産み落とされていなかった(なぜなら僕の問題、悩みには、中間地点などなく、僕の悩みの形状は、Sさんの言うような、複数の要因の絡まりあっている苦しみではなかったからだ(僕の悩みはほんの些細な軽い疑問だったともいえる(耳垢のようにただ一つのことだけがこびり固まっていたわけだから

けれども、『閃きをそのまま語ることで、そのイメージの嬰児は健康でいられ、また病気一つせず、清らかに光り輝き続ける』というのはまるで、僕の所有している無垢なガーデンクォーツみたいなものなのではないか? 水晶の説明文としてぴったしだ。イメージそのものだ。ティキティキ。ああ、そうだ。僕は庭園水晶をさっき机の上に出しっぱなしで出てきてしまった。Sさんはそれを知っていて、そのような表現をしたのだろうか? Sさんは知っていて、盗むのだろうか? いや、Sさんだけでなく、誰が盗むかわからない。もし僕だったら盗むだろうか? 誰かと話している時、僕の口調が、目の前の相手や、そこにはいないが見知っている誰かに似てしまう時、僕は初歩的な盗人の気分を知る。すぐに「ああ、この口調を返さなきゃ」とあせるけれど、形なき口調をどう返したらいいか、僕は悩みこんだまま、会話を続けるしかない、いつも。盗人の気持ち。僕は誰かから何かを盗んだ後の気持ちを知っている。デジャヴ。あるいは誰かを殺したあとの。それはとても恐ろしいことで、ありもしないことだが、きっと現実にその時が来たら、僕は結局、盗むだろう殺すだろう)。僕は盗みたくないけれど(殺したくないけれど)、僕の手が勝手に動くだろう。そもそも、そう思案すること自体が、もう歯止めの利かぬ窃盗(殺害)行為のリハーサルなのだ。だって僕は知っている、逆に僕のことを盗む人もいるってことをだから僕も盗む。つまり、盗み盗まれのしあいなのだ

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2020年2月6日公開

作品集『ニュー・ハートシェイプトボックス』第5話 (全12話)

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© 2020 多宇加世

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