誘虫灯

泉鈍

小説

3,436文字

 閉塞感。行き詰まり。諦念。かすかな望み。救われたい。愛。金。名誉。馬鹿馬鹿しい。いったいぼくは何をしているのだろう。いったいぼくは何をしたいのだろう。結局のところ、いつもそこに戻ってくる。バカの堂々巡り。救い用が、ねー……。

「別に何もしなくたっていいじゃん」

 それはもうやったのよ。狭いアパートメントの一室でひっそりと死にかけることになっただけだった。

「死ねばよかったじゃん」

 ぼくもそう思う。だが、望みを断ち切れない。なにかあるんじゃないか? 一見してくだらないように見えるだけで、いつかなにかとてつもない愛や金や名誉を手にして、充足感に包まれる時が来るんじゃないか? 

 ハァー……うんざりするほどどうしようもない望みだ。実際は何一つ得られず、死んでいく可能性の方がずっと大きい。ぼくは生き延びれば生き延びるだけ損をすることになる。耐え難い苦痛を受け続けた最期がこれ……? マジ? ありとあらゆるものを呪いながら死んでいく自分の姿が目に浮かぶ。すべてが手に取るようにわかる。

なんせ、自分のことだ。

否定しようたって、そうはいかないぞ!

 

 土曜日の新宿は多くの人でごった返していた。ラグビーワールドカップに浮かれて、異様に体の大きな外国人たちが、それぞれの国家のユニフォームに身を包んで、往来を我が物顔で行き交っている。

 ぼくは友人の誘いを受けて、芝居を観にきていた。三十人ほどしか入らない小さな箱で、四人の演者が愛について繰り返し大きな声で話し合っている。

「タナカさんは、わたしのこと、すき?」

「すきだよ」

「わたしがタナベさんのことをすきでも?」

「すきだよ」

「あなたを愛していなくても?」

「すきだよ」

 気絶しそうなくらい中身のない会話だ。概ねそんなやり取りが述べ九十分にわたって繰り広げられる。ぼくは芝居の間中、この狭い空間を縦横無尽に飛び回っている蚊に注目していた。二センチ近くはあるデカイ蚊だ。こいつは考えたな。誰も仕留めようとしない。気づいても仕留めることができない。みな芝居の邪魔をしないよう細心の注意を払っている。パンッと手を鳴らすような音をたてでもすれば、周囲の人間からの誹りは免れない。芝居が終われば速やかに陰口を叩かれるだろう。ひょっとしたら、劇場から出るまでの間に正義感の強いやつに呼び止められるかもしれない。たったそれだけのことで、ああ……身動きが取れない。

 蚊はぼくの目の前に座っている大柄な男の首元に何度も止まっては、口を突き刺し、喉を鳴らすように膨れた腹を動かし続けていた。

 

 もっと気分が晴れればいいと思う。根が明るくなり、会話を楽しめるようになれば。口が饒舌に動き、身のまわりの人間たちを魅了させることができれば。本当に? ああ、本当にそう思うよ。だって生きることと他の人間と関わることは密接に繋がっているからね。ほら、うまく口を動かして、さっきの芝居の感想を言わなくちゃ。

「登場人物達の自然な会話に、いつの間にか引き込まれていました」

 悪くないんじゃないか? そこそこの好印象を与えるだろう。芝居に誘ってきた友人の顔も立つ。みな感心したように頷いている。

 本当は?

 女優の胸が結構大きかったな……。

 

 芝居のあとは、香港屋台料理が売りの店に入り、友人たちと雑然とした会話に興じた。雑然とした、といっても殆どがそれぞれの仕事の話だ。みな自分が何をしていて、どんなにすごいことをしているかを知って欲しいみたいだった。ぼくはひたすら聞き役に回る。ぼくの返事は決まっている。

「すごーい!」

 特段優れていないもの、関心のないものすべてに頷きと笑みを返す。時折、店内の喧騒が話す内容をかき消したが、ぼくは構わず微笑み続けた。別に相手もぼくが内容を把握していないことに関心なんて払っちゃいない。気持ちよく話せればそれでいいのだ。ぼくはただ堂々と頷き続けていればいい。

 だから、観た芝居がいかにくだらなかったか、なんてことは瑣末なことだ。多くの人間を敵にまわしてまでわざわざ言うことじゃない。会話が飽和した隙をついて、ぼくはスマートフォンを手に取り、SNSで先程観た芝居のタイトルを検索した。次々と画面上に感想が表示されていく。

 涙が出ました。感動しました。圧倒されました。とてつもないと感じました。目眩がしそうになりました。ハッとしました。彼女の演技力といったら、もう、なんと表現すればいいか。構成の高さに驚きました。会話のうまさに驚きました。発想に脱帽しました。みんなも観に行くべきだと思いました。

 彩り豊かな好意的な意見たち。

 思うに、インターネット上で芝居の感想に否定的なものがあまり見られないのは、あの閉じた空間で一定の行動の制限をかけられるからだろう。大きな動作はみなNGだ。身じろぎひとつ、くしゃみひとつ許されない。許されているのは泣くことと、笑うことだけ。観客の目の前、生で行われる芝居は、映画よりも拘束力が強い。観客は自身のせいで舞台を台無しにしないよう細心の注意を払う必要がある。だから、中身のない、褒めちぎったようなものばかりが散見される。それは脚本家のためにならず、役者のためにならず、当然、客のためにもならない。そんな感想で、得をしているのは、虫ケラ一匹、あの異様に体の大きく育った、蚊、くらいのものだろう。

 

 また、うんざりした気分が首をもたげる。ふつふつと体温が上昇していくのを感じる。身体中から力が抜けていく……。どこにいたって、なにをしたって同じ。ぼくには蚊ほどの生存欲求すらない。子孫を残したいと思わない。自分の子に、おんなじように人間の血を吸わせたいと思えない。ぼくの生命も蚊のようにあっけなく散って仕舞えばいいのに……と思う。

 次々と料理が目の前に運ばれて来る。四川風唐揚げ。緑のザーサイ。大蒜の効いたチャーハン。四川風麻婆豆腐。青島ビール。青島ビール。青島ビール。ぼくは友人たちに小皿と割り箸を取り分ける。配り終えて、加熱式煙草を吸いながらふっと自分の取り皿に目をやると、ゴキブリの赤ん坊が這いつくばっていた。触覚を小刻みに動かし、じっと食事にありつく機会を伺っている。ぼくはそれを親指で押し潰すと、上から麻婆豆腐をかけて視界から消した。

 

 店を出て、友人たちと別れ、ぼんやりと街を歩く。途中、二度スマートフォンが鳴った。つい一ヶ月ほど前に別れた女からの電話だった。今頃どういった要件だろうか、と少し気になったが、ラグビーボーイたちの祝勝ムードの大声でかき消された。

 イングランドが勝った! イングランドが勝った! イングランドが勝った!

どうしてあそこまで熱くなれるのか、ぼくにも教えて欲しかった。ちょっぴりでもいい。ぼくにもなにかしらの熱を分けて欲しかった。そうしてくれなければ、もうこれ以上生きていられないように思えた。ウソ。さぞだらだらと生きていくんだろうよ……。

 

 しんどいな……。

 

 家に帰り、玄関の扉を開けると、蛾が一匹、ヒラヒラと部屋の中に入り込んだ。すぐに捕まえて、外へと追いやろうとしたが、ぼくの手の届かない天井にへばりついたまま動かない。しけった煙草を指で弾いて威嚇してみたりもしたが、蛾は全くの無反応だった。それから四日ほど、ぼくらは互いの存在をないものとして過ごした。どうせ部屋に帰っても眠るだけの人生。日中はおまえのもの。好きに使えばいい。だけど、殺風景なぼくの部屋には、蛾の食料となるものがてんでなかった。日に日に蛾は天井から壁伝いにはいずり落ち、五日目の朝にして、ついに床にへばりついてしまった。ぼくは台所へ向かうと包丁を手に取り、冷凍庫からコンビニで買ったビニール詰の苺を六つ取り出すと、柄で砕き、皿にまぶして、床に置いた。蛾はすぐに皿に飛びついた。赤身の果肉に一心不乱にむしゃぶりついている。その飲みっぷりといったら、ちゅうちゅうとこちらまで音が聞こえてきそうなほど旨そうなものだった。その様を見ていると、どうにも他人と思えないような気分が湧いてきて……。あれ? ぼくはいつの間にか、自分の倦怠が少し和らいでいることに気がついた。献身。それこそが、自分を救う近道なのだろうか? 取り留めもなく、そんなことを考えながら仕事の仕度をすませ、家を出た。

 

 蛾と暮らしていくのも悪くないかもしれない。

 

 仕事を終え、家に帰り着くと、蛾は溶けた果汁の中で溺れ死んでいた。

2020年1月20日公開

© 2020 泉鈍

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