七月十四日、朝、気温二十六度、湿度たかく、夏はすでにたけなわであった。夢を見た。わたしの傍らに女がいて、わたしたちはどこにいただろう、確か人で渦巻いた地下鉄のなかをふたりして歩いていたと思うが。……
女はわたしの見知っている顔であり声であった。それはとおくむかしに想いを寄せていた人であった。
「鋤!」女はわたしに言った。鋤、なにを言っているのだと思っていたが、実は、女は「好き」と言いたかったのではないか。それが夢のなかでは「鋤」というふうに伝わった。「鋤! 鋤!」と女はそのあとも呼び掛け続けていた、が、わたしはそのイントネイションにつられて鋤焼きのことを考えていた。
八月五日、昼、気温三十二度、たけなわがいつまでも続く。夢を見た。わたしは原付を走らしていた。道がとにかく永い。恐ろしく永い。街は着ぐるみのように風景を目まぐるしくせわしなく着かえてゆく。通勤路の眺めのすぐあとに他人の風呂場が接続され、かと思えば富士山の火口の朱いなかみを通り、果てにボウリング球のようになって白く巨大なピンの群れを崩してしまった。しかしその変化はやがてヴァリエイションを喪っていった。結局は、通勤路の、雑駁な住宅街のなかの青信号が、なんどもなんども、その孤独をわたしに訴えかけた。わたしとヴィーノとの区別はいつしかつきづらくなって、やがて、疾走するわたしのようなものと、道路との区別さえわからなくなって、わたしは永遠の道路でありながら、どこかを駆け抜けていて、頬をなまあたたかい風がなでていた。……
夢というのは得てして妙なもので、この夢から醒めたとき、わたしは寝汗をずいぶん掻いていた。このような夢を綴るたびに、わたしは、夢の湧いている沼のようなところを感ずるのであった。わたしの(自分でも憶えていることをあずかり知らないような)記憶、わたしの想像、そういった、ものたちが融け出している、蛹のなかのような、わたしたちの内奥に澱む、沼、起きているときは無論、寝ているときでさえ、現実の強い引力によって、決してたどりつき得ないところ。……
「しかし、そういったって無理なものは無理なのさ」
「そうね、あなたには申し訳ないけれど」
「きみは生まれたばっかりでね、わからないと思うんだが、ぼくらとは関わっちゃならないんだ」
「この人は他人にこき使われつづける安物のお皿で、わたしはあなたのさき生の……なんでもない、もう『度忘れ』が始まっているみたい」
「じゃあぼくたちがなんなのかはもうわからないのか、知らない人と喋っちゃダメだって、もう少し成長したら、大人たちに教えてもらえるはずだ」
「じゃあまたね、あなたのことちゃんと見ているから」……八月三十一日、朝、気温二十度。空気を吸うと鼻腔が冷とした。
――わたしは真っ黒な空間に投げ出されていた。どこまで広いかもわからない暗さにまとわりつかれ、寄る辺なく、いつまでも、ぷかぷかとたゆたうていた。それは目を閉じているときに見える世界のような空間であった。自分がノンレム睡眠に入っているということを自覚したら、このように心地よいのかもしれない。……そのうち暗闇はうねりをもち始めた。あるはずのない陰影、やわらかな襞のかたちの陰影が膚をさするよう――くらげのようにわたしはうねりに呑まれるしかなかった。襞のやまは微かな光を放って、たにはいよいよ陰っていった。襞は猶、白い光彩とむらさきの誘惑とに染まって、わたしを底のほうへ底のほうへと運んでゆく――
九月三日未明。わたしは四畳ほどの、畳張りの部屋に、干からびたしとねに仰むけになっていた。吊り下げ灯の電球が、今に吹きこぼれそうな、ほの青い光を含んでいた。焦げ茶をした四ツ角の柱のあいだは砂壁で敷き詰められ、永らく掃除をしていないので、畳の隅のほうを歩くと砂が足裏に付着する。頭上ではカアテンのない二枚窓が墨のような夜を映して、そのむこうで鈴虫のふりをした重機がうなりをあげている。足さきには摺りガラスの嵌まった木の扉があり、扉のむこうではせまい暗い廊下が横たわっていて、傍らにミニチュアのような小さなキッチンが据えられていた。わたしは額に黒いうろこのようなシミをつけ、こけた頬骨まで白髪を伸ばした、老人のすがたをしていた。呼吸をするたび、それが唯一できる発声であるかのように、肺がぜえぜえ鳴って、くるしい。漠とした尿意にさきんじてわたしの股ぐらはなま暖かい小便にぐっちょり濡れた。どうすることもできなかった。
木扉のむこうで、かちかち、とささやくものがあった。それは埃かぶった食器類のかち合う音で、かちかち、かちかちかち、とささめきは止まず、それだけがわたしの聴覚にふかく根付いて、ほかのいっさいをまたたくまに遠ざけた。しばらくそれを聴いていたら、だしぬけにドッと大爆笑が起こった。アハハ! アハハ! と哄笑の渦が部屋を覆うて、わたしは異形のものがわたしの命を狙っているのだと直感して慄きふるえあがった。
「きみの生活なんて簡単に圧し潰せるんだよ」
食器たちの哄笑がそのように解されてまもなく、大地が弾けた。烈しい動顛が起こった。窓ガラスは裂帛の悲鳴とともに粉々にうち崩れ、破片が雨のごとく降り注いだ。幾百にも分かれた破片はわたしの眼球を幾度も幾度もするどく突き、網膜をやぶった。そしてわたしは再び、あの暗闇のなかへ、還っていった。
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